七十三 犯人は田中

「犯人はあなたですね……田中さん」


 薄暗い書斎に、若い男の声が響いた。それと同時に、天井から吊り下げられていた電動式のシャンデリアの明かりがパッと灯される。真っ白な光源の下に晒されたのは、驚愕の表情を浮かべる一人の女性だった。


「ち……ちが……!」

「…………」

「私じゃな……!」


 田中、と呼ばれたその女性は、上から降ってくる光に眩しそうに目を細めながら、その美しい顔を歪めた。慌てふためく女性に動じることもなく、若い男はポケットからラークのクラシックマイルドを取り出しながら、優雅に書斎へと一歩足を踏み入れた。


「私が、私が夫を殺すわけないでしょう!?」

 ひっ、と軽く悲鳴を上げ、カーディガンの女性が男から逃げるように後ずさり机にぶつかった。彼女の目が、無意識に壁に飾られた観賞用のナイフに向けられるのを男は見逃さなかった。


「私達が……どれだけ仲睦まじかったか……! 他の人に聞いてごらんなさいよ!」

「ええ。聞いてますとも」

「殺す理由なんて、ある訳ないじゃない!! 私は犯人なんかじゃない!!」

 唾を撒き散らす夫人に、男は一歩も引かずに、口元に淡い笑みを浮かべて囁いた。


「確かに、あなたと旦那さんはとても仲が良かったご様子だ。オペラ歌手を引退した旦那さんは、数年前から家族と人里離れた山奥に隠居して……富も名声も、愛すべき家族も何もかも閉じ込めて……いつまでも幸せに暮らしましたと、世間ではそう謳われております」

「だったら……!」

「奥さん……二重人格というものを知っていますか?」

「にじゅ……!?」


 男の言葉に、彼女の顔に虚をつかれたように波紋が広がっていく。たっぷりと言葉の余韻を味わいながら、彼女の目の前に佇んでいた男がクラシックマイルドを一本口に咥えた。


「ええ。奥さんは普段から凛々しく上品で、性格は温厚で有名だった。周りのメイド達からも頗る評判が良く……聞き込みをするうちに、何度”あの人は虫も殺せない”という言葉を聞いたか分かりませんよ」

 男が肩をすくめた。女性がイライラするように叫んだ。

「当たり前じゃない! どきなさい、人を呼ぶわよ」

「さて、奥さんは二重人格なんて、ドラマや映画の中の作り物としか思われないでしょうが……。実際に車に乗ると性格が変わる人がいるように、現実に起こりうることなんですよ」

「何が言いたいの……?」


 女性が再び装飾ナイフを横目見た。男は嬉しそうにその視線を追い、額縁に飾られたナイフを手にとった。

「フゥン……。ウイグルナイフだ」

「…………!」

 女性が眉をピクリと動かした。男が黒い刀身に施された金の象嵌を物珍しそうに眺めた。それからくるくると手で弄び、貝殻の施された真鍮の柄を女性に向けて差し出した。


「奥さん。このナイフが、あなたの”鍵”になってるんだ。あなたは知らず知らずのうちに、ナイフを握りしめることで、内なる性格が呼び起こされていたんですよ。そしてその二つ目の”殺人者としての人格”が、旦那さんを殺したんだ」

「バカバカしい!」

 彼の言葉に、女性が激昂した。

「そんなこと、ある訳ないじゃない! ドラマじゃあるまいし……!」

「だったら、試してみますか?」

「!」


 男の言葉に、彼女はピクリと体を強張らせた。


「僕、見守ってて上げますから……。ちょうど、”彼”からも話を直接聞きたいと思っていたところだ。どうぞ、ナイフを手にとってみてください」

「ふざけないで……!」

「ただ握るだけですよ」

 そう言って男は彼女の右手に柄を握らせ、そっと手のひらで包み込んだ。

「う……!」


 次の瞬間。


「ううううううう!!」

 彼女が苦しそうに顔を歪ませ、赤い絨毯の上に跪いた。ナイフが鈍い音を立て赤い絨毯の上に転がる。若い男がそれを見下ろし、小さくため息を零した。

「ううう……!」

「やれやれ。これで事件は解決したって訳だ……」

「うう……ソレは……! どうカ、なァ……!?」

「!」


 彼女が呻き声を漏らしながら、再び顔を上げた。

 その目は真っ赤に血走り、口からは涎が垂れたままになっている。彼女が床に転がったナイフを乱暴に引っ掴んだ。小刻みに体を揺らしながら立ち上がるその形相は、まるで獣じみていて、先ほどまでの凛々しい顔つきとは打って変わっていた。白く揺蕩う煙の向こうで、人格の入れ替わる様子を間近に目撃して、流石に男も驚きを隠せなかった。


「これはこれは……!」

「初メマシテ、田中探偵」


 起き上がった彼女はニタァ……と唇を釣り上げ、目を三日月のように細めて嗤った。

 若い男が警戒するように後ずさった。


「あなたが、旦那さんを殺した人格ですか」

 彼の言葉に、彼女は歯を剥き出しにした。

「違ウ……」

「?」

「ズット……探シテタんだ……。旦那を殺した犯人を……わたしハないふヲ握るト……”探偵人格”ガ現レル……」

 そう言って、彼女は装飾ナイフを目の前に掲げて見せた。焦点の合っていないその目に、男はゴクリと唾を飲み込んだ。


「何を言ってるんですか? ”探偵人格”? しらばっくれようったって……」

「田中探偵。君ハたばこヲやるとヤケにボンヤリとシテ……マルデ別人みタイな人格が出テクルんだネエ……」

「?」

 彼女が男にゆっくりと近づいていった。

 シャンデリアに照らされた彼女の影が、赤い絨毯の上でゆらゆらと踊った。


「お前ノ中ニ潜ム、”殺人者トシテノ人格”……」

「!?」

わたしの目ハ誤魔化セナイ……!」

「さっきから、何を言ってるんですか? 僕が二重人格? ありえない!」


 彼女がまるで犯人を追い詰めるように、じりじりと距離を詰めて行った。壁際にまで追い詰められた若い男は動揺を隠せず、イライラするように叫んだ。だが人格の入れ替わった彼女の笑みは、ますます深まるばかりだった。


「ダッタラ、試シテミルカイ?」

「!」

 彼女はずいっ、と男の胸元に体を密着させると、絡みつくように下から顔を覗かせながら、刃の切っ先を男の目と鼻の先でちらつかせ嗤った。

わたしガ見守ッててヤルカラヨ……一体ドッチガ犯人ナノカ……」

「…………!」

「サア、ソのタバコに火ヲツケナ」

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