第62話 鍛錬

(……最初の頃はこんな事をしても意味なんてあるかと思ったんだけどな)



リルの指導で刃物の突き方を教わっていた時、イチはどれほど体を鍛えた所で戦闘職の人間には及ばないと考えていた。生まれた時から戦闘職の人間は武術の才能を持ち合わせており、凡人がいくら身体を鍛えた所で彼等には及ばないというのがこの世界の人間の一般常識だった。


戦闘職の人間はそもそも一般人とは肉体の質が異なり、彼等は身体を鍛えたり、魔物を倒し続ければ正に人を越えた存在「超人」と化す。戦闘職の人間の中には数トンの重量の物体を持ち上げたり、素手で鋼鉄を叩き割る人間も珍しくはない。そんな真似は常人が生涯費やして身体を鍛えたとしてもその境地には辿り着けない。


しかし、身体を鍛える行為自体が無駄なはずがなく、イチは前回の盗賊との戦闘で体力がいかに重要なのかを思い知らされた。イチが普段からもっと体を鍛えていたらわざわざ危険を犯して戦う必要もなく、逃げ切れた可能性だってある。



(体力づくりのためにもっと身体を鍛えないと……)



戦闘職の人間には及ばずとも、身体を鍛える行為自体が無駄ではなく、彼等に並ぶ事はできなくても近づく事はできる。そう思い直したイチは短剣を突く行為を繰り返し、両腕合わせて200回の突きの練習を終える。



「ふうっ……次は体術だな」



額の汗を拭ったイチは短剣を置くと、今度はブランから教わった拳法の練習を行う。尤も拳法と言っても、彼が身に付けている獣人族の拳法の基礎技を一つだけ教えてもらったに過ぎない。



「崩拳、だっけ?」



ブランからイチが教わったのは「崩拳」と呼ばれる技であり、この世界では獣人族の扱う剣技として伝わっている。実際の世界では中国拳法の一つで「中段突き」あるいは「ボディーブロー」に近い技である。


獣人族の格闘家の間ではこの技を最初に倣うらしく、ブランの場合はこの「崩拳」を戦技として扱えるという。基礎の技ではあるが威力はすさまじく、ブランの場合ならば岩石に罅を入れる程の打撃を繰り出せるらしい。



(流石に僕の腕力だと岩を砕くのは無理だろうけど……一般人相手に通じるぐらいは鍛えないとな!!)



イチは拳を中段に構えて前方に繰り出す。それを繰り返していくうちにある事に気付き、リルとブランから教わった技は刃物と拳の違いはあれど「突き技」という点は共有していた。



(なんか最近は腕が重いと思ったら、そういえば突く練習ばかりしてたな……まあ、別に筋肉痛ぐらいなら回復薬ですぐに治るけど、高いもんなあれ……)



仕事に影響が出ないように筋肉痛などに襲われた場合、イチは回復薬を飲んで体力と筋肉痛を回復させる。しかし、一番安い回復薬でもかなり高く、少なくとも1本銀貨1枚は下らない。


回復薬は生傷の絶えない冒険者稼業では必需品である。しかし、階級が低くて高額報酬の依頼を引き受けられない冒険者からすれば回復薬を買うのも難しく、かといって回復薬を買わずに魔物の討伐などの依頼を引き受けて取り返しのつかない事態に陥った冒険者も数多い。


イチは荷物役として他の冒険者から守られる立場だったため、あまり回復薬を使った機会はない。だが、自分だけで仕事を受ける様になってからは魔物と戦う機会も増え、その分に怪我をする機会も増えた。



(一応、鉱石を売って手に入れたお金はあるからしばらくは大丈夫だけど、回復薬はもうちょっと節約しないとな……)



筋肉通のためだけに回復薬を使用するなど無駄遣いも良い所であり、それでも身体を鍛える行為を辞めるわけにもいかない。溜息を吐きながらイチは拳を突き出した時、ある事に気付く。



「あ、そういえば……ここ最近は教会で儀式を受けていないな」



不意にイチは陽光教会の事を思い出し、最後に教会で儀式を受けたのはホブゴブリンとの戦闘後以来である事を思い出す。


ホブゴブリンとの戦闘後、イチは単独で依頼を受けるようになり、結構な数の魔物を倒してきた。今ならば教会に行けば新しい能力を覚えられるかもしれないと思ったイチは訓練を早めに終わらせ、教会へ向かう事にした――






――この世界では教会で儀式を受けると、その人間の能力が水晶に表示され、時には新しい能力が芽生える事がある。特に冒険者などのような魔物を倒す人間は能力が芽生えやすく、毎日のように教会を利用する冒険者も多い。


ニイノにも教会が存在し、ハジメノ以外の教会で儀式を受けるのはイチは初めてだったが、他の街の冒険者でも教会の人間は快く受け入れてくれた。



「それではイチ様、水晶玉に掌を翳してください」

「はい、分かりました」



イチは教会内に存在する「儀式の間」にて台座の上に浮かんでいる巨大な水晶玉に手を伸ばすと、即座に水晶玉に現在のイチの職業や習得している技能が表示される。但し、水晶玉に浮かんだ文字が読み取れるのは教会の人間だけであり、彼等は水晶玉に書かれた文字を確認すると、それを羊皮紙に書き写してイチに渡す。

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