Week 10
5月の最終週、青々とした葉桜を見ると葉と葉の間から小さな緑色の膨らみが見えた。小さくはあるが確かにそこに存在していて、新しい季節がやってくることを静かに知らせている。頭髪検査から少し期間が経ち、ほとんどの生徒が同じ黒髪をしていた。全て統一された状況に、僕は違和感を覚えていた。全体主義を思わせるような光景は、どこからやってきたのだろうか?農耕民族時代の名残か、はたまた軍国主義時代の名残なのか?何にせよ、もうそのような時代は終わらせるべきなのではないかと心の中で何かが騒いでいた。でも、その気持ちを騒がせておくだけで、僕には何かできるわけでもなかった。いや、何もできないのではなく何もしなかったのだと思う。頭髪届の提出期限が月末に迫っているが、彼は「記入しておきます。」と言い放ったまま、まだ僕の元には届いていない。彼は次々と同級生が同じ髪色へとなっていく状況にまた何か感じているのだろうかと、気になって教室の中にいる彼に目をやる。彼は初めて見た時と同じ髪色で存在していた。授業が終わり夕方へと傾く日差しが彼の髪にさしてイキイキとした光を与え艶を放つ状態は、まるで彼の髪が光合成をしているようだった。その彼の特別な髪色は普遍的な黒髪の中で、とても存在感を示し僕の目は離れようとしない。特別と言うものは、きっとこうやって言葉にはできないような魅力を持っていて見る人の目を釘付けにして理性を奪うのだろう。僕はこうやって理性の全てが感性に飲み込まれ、作用しなくなる瞬間が人間らしくてとても好きだ。彼はいつもながら、窓の向こう側の景色を眺めている。僕はその向こう側にある彼の見る世界がいつも気になって、胸の中で何かがじんわりと広がるような感覚を覚える。それが起こると、どうやってか理性がそれをなかったことにしようとするのも同時に感じていた。ほんの数秒の間ではあるが、人の心の中では大きな出来事が繰り広げられている。その数秒間の間に彼の中でも、同じようなことが起こっているのだろうか。彼はさっきまで見ていた窓の向こうから、視線を机の中にやり一枚の紙と向き合っている。そして、数秒見つめてから何かを決意したような面持ちで立ち上がり教壇にいる僕の方へと進んできた。楽しそうに帰りの準備をする生徒をかき分けて、彼だけ特別な思いでこの教室のな存在していた。僕の目の前にやってきて、用紙に置かれていた視線が僕に移り固唾を飲んで僕に言った。
「大谷先生、頭髪届サインしてきました。」
「お、おう。ありがとう。」
確かに彼と彼の保護者のサインがあるが、日にちが1週間以上も前のものだった。
「結構ー、前に書いてくれてたんだな。」
「あ、はい。なかなか出すまでに考えてしまって・・・。」
「そっか。提出してくれるってことはもう解決したってことか?」
「今さっき、解決しました。」
「今さっき?」
「はい。外を眺めながら、大谷先生の言ったことを考えてました。」
他の生徒なら何も聞かずに終わらせているところだが、理性が感情に飲み込まれていた。
「聞いてもいいか、何を考えていたのか。」
「僕の席から、桜の木が見えますよね?今はもう、葉っぱだけですけど、花が咲くととても綺麗なピンクをしていて多くの人を魅了してます。この辺りでよく目にするのはソメイヨシノがほとんどで、他の種類ってなかなか出会えないですよね。でも、地域や環境が変われば色の濃いピンクをしていたり、八重になっていたりするのもあります。ソメイヨシノに比べると目にする機会が少ない他の種類は特別だと言うことになりますよね。その特別と言うだけあって僕が見渡した先には見つけることができなかった。この学校でもダブルの生徒って僕だけで、おそらくこの用紙に記入するのも僕だけですよね?そう考えたら、先生が言った僕が特別と言うのは本当なんだと思たんです。」
高校生の彼が自分のことと大自然を考察することにも驚いたが、僕が放った言葉を彼は大事に育てていたことにも大きく驚かされた。そして、自分でその答えを導き出し自分の感情と理性と上手く馴染ませながら成長をしようとしていた。彼には、他の生徒と違う特別な力があるように感じて僕の世界をさらに広げてくれるよう思えた。
「そうか、よくそこまで答えを導き出したな。」
「人は、自分のテリトリーでだけ物事を決めたがるのは歴史から見てもよく理解ができます。いずれその世界が広がると、ルールも変えられると言うのは明らかです。まだ、うちの学校は河津桜や八重桜を発見できていないだけなんだと思います。僕はそれがどこかにあるのを知っていて、先生の言っているいつかがもう目の前まで来ていると思うので届を出そうと思います。」
僕は安心していた。この紙一枚で、この少年をどれだけ傷つけるかを不安に思っていた。でも、傷は時にその人を大きく成長させる。おそらく、彼がこの用紙を手に取ったとき彼の心に多少の傷を作ったのには違いない。だけども、彼は彼なりに自分を納得させるのではなく心の傷を癒しながら自身の内なる声と向き合った結果が前進させる強さに変わったのだと思う。
「じゃあ、これは確かに受けとります。」
僕らは初めて同じ思いで持って見つめあったように思う。彼の瞳と、彼の瞳の中に映る僕の瞳が同じように輝いて見えた。彼の満足そうな表情、僕の満たされた胸の中。僕らは爽やかな5月の終わりを見つめ合いながら、陽の光を浴びて光合成を共に続けていた。
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