File:1-4_逆行少女パラノイア=Escapism paranoia/
「――っ」
走った。引き返して走った。もう走りたくないのになぜ。
『かあごめ、かごめ』
今どきの十代じゃほとんど知らないはずの童謡が
『かごのなかのとりは』
高架下は三メートル近くの鉄網が張られている。さっきはここを通ったはずだ。いや、気のせいだったような。十四の足音が近くなる。左を曲がり、運動不足の全身に鞭を打つ。地下道横断歩道の入り口が見えた。
『いついつでやる』
だがいつまで走っても一向に近づくことができない。走っても走っても、周囲の軒が通り過ぎても、目指す先にたどり着かない。
肺が痛くなり一度俯いて再び前へと見た瞬間、
「いついつでやる」
先ほどすれ違った女子小学生が道の先に立っていた。田舎でもないのに珍しい傘という雨避けを差していて顔が見えないが、なぜか立ち止まってこっちへと体を向けている。同じ動揺を口ずさんでいることに得体の知れなさを感じ、距離を置いては通り過ぎようとした――直後、踏みとどまる。
『よあけのばんに』
頭上からさび付いた赤いスピーカーが落ちてくる。けたたましい音を立てて半壊しても尚、まるで自分の使命であるかのようにそこからメロディが流れ続ける。構ってられない。早くここじゃないどこかへ、人目の多い都市区域の中へ行かないと。
『つるとかめがすべった』
地下へと続くスロープに踏み込んだ瞬間、足が滑る。凍結してるはずもないのに、いや、自分の軟弱な足が下り坂を走るときにかかる負荷に耐えきれなかったからか。全速力だったのもあり勢いはすさまじく、体が反転しかねないほど。そのままタイル状の地面に頭から激突し、視界が暗転した。
『うしろのしょうめんだあれ』
子どもたちの歌声。真後ろから、吐息がかかるくらいにすぐそこから聞こえた。
振り向く躊躇いよりもこの場から離れることを優先した私の体は、地面を転がり、明滅する景色に構わずバッと振り返った。
「……っ」
誰もいない。
それどころか、地下道ですらない。いや、地下道だけどスロープを下ったはずなのに、目の前には無機質な階段があるだけ。ここから見える寒気だった空から車の通る音が複数聞こえてくる。風も感じる。地面に腰を下ろしていたが、転んだ時の痛みが全くないことに気づく。
起き上がっては階段を上ると、見覚えのある大きな交差点が見えた。人もいる。あの煩わしいと思っていた声も光も、入り込んでくる情報も今は安心感を抱くほどだ。
とりあえず、なんとかなった、てことでいいのか。
「マジで……なんだったの今の」
安堵と疲労のため息をひとつ。こういう時に限ってうまく頭が回らない。歩道へと歩を進め、なんとなくアイヴィーを手にとって画面を起動した。
「うそ、圏外?」
私の生命線は残酷にもネット接続エラーを告げた。
世界中のどこだって、特にこんな都会の中で圏外が起きるなんて普通はありえない。ありえないが、現に端末の液晶にはエラーアイコンが付いている。
ほぼ引き籠っていたし経年劣化でも……いや関係ないか。あるいは故障かもしれ……いや、ハードもソフトも異常なし。それに転んだ程度で壊れる代物でもないし、一番考えられるのは
とにかく、外部と接続できない端末はほぼ使い物にならない。一時的なものだろうと信じたいが、これだけではなかった。
「……え」
不意に、不気味に思ったことがある。
静かだ。
端末から思わず顔を上げるその速さはゆっくりだった。違和感から確信に変わった瞬間。
肌寒かった風が感じない。地に転がっていた落葉も動いていない。
音が聞こえない。ヘッドホンから流れる音楽さえも、その振動すら感じない。
決して感覚が失ったわけではない。自分の呼吸は聞こえていた。心臓の鼓動の感覚はあった。
ただ、人の気配がない。
人はいる。動いている。この目に見えている。
しかし、いる気がしない。
人に興味を失うと物と同然だというのはよく知っているが、それでもこれはおかしい。
さっきの出来事と言い、やっぱり自分の感覚がおかしくなっているのか。太陽の光でさえ眩しさを感じない。秋とはいえ、UVの波長をこの目で全く感じないのも変な話だ。
同じ景色。しかし何かが違う。読めていた情景が読めなくなった焦燥感。理解していた世界が間違っていた困惑。
こうなった原因は……不明。ドーパミンの過剰分泌による統合失調症や後頭葉のストレスによる幻覚、いわばただの私の精神異常だと推測する。
あのときのように。
息遣いが荒くなる。
焦ってはいた。恐怖もあった。しかし、それ以上のことはない。気のせいだと信じて、私は頭に入っていた帰宅へのルートを敢えて端末の案内には従わずに、自分の思考のみで進もうとした。
『――』
無音に生じた複数の声。背筋が凍り、体が
それは何処から聞こえたかもわからない。違う。耳元から聞こえた。思わず引き下がりながらきょろきょろと辺りを見回す。
景色は相変わらず――ではなかった。
私を無視するように、関心の無いように歩いていた通行人が立ち止まり、全員が私を見ている。四方八方から視線を強く感じる。そこに熱などはない。とても冷たい。
見たことがあった。蔑み以上の何か。とても形容し難い嫌悪の目。
そうだ、あのときのみんなの目と一緒だ。
夕闇に染まるリノリウム。べたついた生温かさ。好奇と忌避。警戒と恐怖。端末のフラッシュとシャッター音。滝のように流れるふざけた悪意の
思い出すな。心が潰れる。滲み出る冷や汗が気持ち悪い。
「……ちがう」
これは幻覚だ。勝手に私が思い込んでいるだけ。被害妄想が激しいだけ。この嘲る笑いも、ゴミでも見るかのような冷たい目も、この隔離された感覚も全部、私の妄想だ。
『じゃあ、確かめてみる?』
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