第五話「悪者」(1)


 己の罪を全て押し流してしまうような、まるで洗礼のような雨だった。

 その天からの雫達に、リーファは打たれるがままだった。まるで罪を咎めるようにその雨は、強く強くリーファに降り注ぐ。その目の前にはこの学校に唯一の温室の扉がある。

 学内にあるにしてはやけに大袈裟で、それでいてお嬢様が管理しているにしてはやけに綻びが目立つ温室。大教室二部屋分程度は軽くあるであろう広さのその温室には、強い香りを放つ草花が青々と茂っている。人の手によって整えられた土の恵みの上で、その“東の夢”は順調に成長していた。

 扉も壁すらも透明なその温室には、扉を開けるまでもなくこの世の地獄が広がっている。扉に手を掛けるよりもよっぽど早くその地獄が視神経に突き刺さり、リーファは激しい雨の中、その先への一歩を踏み出すことすら出来ずにいた。

 その透明なる“楽園”の中には、生まれて初めて愛おしいと思えた最愛の彼女が横たわっている。こんな時まで甘くカールした茶髪が愛らしくて、その無残に開ききった光のない碧の瞳に映る、立ち竦んだままの自分自身に腹が立った。

「ギーラ……」

 酷く擦れた声が出た。こんな声量では扉を隔てた彼女に届くはずがない。彼女は微動だにしない。ガラスの壁も扉も、この声量では届かない。声を出せ。彼女が褒めてくれたこの声を、早く!

「っ……ギーラ!!」

 今度はちゃんと大声が出た。彼女が好きだと言ってくれた、ハスキーな声が空間に響く。学内の敷地の隅にあるこの温室は、校舎からは少し離れている。今日は運動系の部活もこの雨のせいで皆、屋内に引きこもっているようだ。辺りには誰もいない。計算された人気の無さ。

 油の切れた機械のようなぎこちない動きで、その手がようやく扉に掛かった。薄いガラス製の彼女との隔たりはいやに重く、いかに心がこの光景を拒否しているかがよくわかる。乾いたままの喉から、擦れた声ともつかない息を出し、その勢いで扉を開ける。

 途端にむっとした温室特有の湿度に迎えられ、雨に濡れた白髪が違うべたつきに包まれたような気がした。

――違う。これは……悪意、か。

 温室はねっとりとした悪意と、男の匂いに満ちていた。普段は鼻を刺す程の香りを放つ草花が、今日だけはその主張を控えている。まるでこの空間の真の主役が、自分達ではないことをわかっているかのように。

 温室は中央に休憩所のようなスペースとして、白いガーデンテーブルと四脚のチェアが設置してあり、それを囲むように彼女お手製の『東の夢(オリエンス)』と名付けられた“茶葉”が揺れている。一般的な茶葉は遮光等の手間が必要な種類も多いが、彼女の生み出したこのオリエンスにはその工程は必要ない。

 姿かたちすらも草花のそれ。しかしその身からは強く、心を惹き付ける香りを発する。魅惑の香り。これこそ東が生んだ夢の紅茶だ。

 そんな自身の生んだ傑作に囲まれて、彼女はその身を横たえていた。汚されていた。

 白いガーデンテーブルの前で倒れた彼女の服は無残に引き裂かれ、その下肢からは汚れた白き欲望が流れている。酷く鼻につくこの匂いは、紛れもなく男達の欲望の匂いで。

「……」

 本当に悲惨な出来事に遭遇した時は、人間は声が出ないらしい。それなりに修羅場を越えてきたつもりであったギーラだったが、それでもこの場のあまりの凄惨さにその声を失ってしまっていた。

 気を抜けば震え出してしまいそうな足を叱咤し、とにかく彼女の身体に寄り添うと、その力の感じられない上半身を抱き起こす。

 ぐったりとしたまま開かないその瞳に息が止まりそうになるが、愛おしい彼女のその胸の鼓動を感じ取り、思わず安堵の溜め息をついた。

「本当にこのお嬢さんに惚れてるんだな?」

 オリエンスの草花が不自然に揺れて、その陰から八人の男が現れる。そのまるで害虫のような湧き出方に、しかしリーファの心は波風ひとつ立たなかった。リーファの心を波立たせるのは、彼女からの愛それだけだからだ。

「お前らが、ギーラをこんなにしたのか!?」

 怒りに燃えるルビー色の瞳を隠しもせずに、リーファは現れた男達を睨み付ける。八人が同じ、深緑色のブレザーにチェック柄が入ったグレーのズボン姿。男達は案の定、リーファと同じクラスの不良達だった。

「さすがの鬼女も、大好きなレズ相手が男に犯されたら涙が出るんだな?」

 ゲハハと品なく笑う男達に、リーファは返答を放棄する。その代わりに、流れる涙もそのままに、その拳を一番近くにいた男に向かって振るっていた。

 ぐへっと間抜けな声を上げて、その男はぐったりと地に伏した。それを合図とするかのように、残った男達も獲物――リーファに向かって襲い掛かる。

 骨が折れ、重いものが地に落ちる音が温室内に響く。酷く暑いこの空気には、もう――悪意しか残っていない。

――なんでだ? なんであたしは、ギーラを護ってやれなかったんだ。あたしには暴力しかなくて、そんなあたしをギーラは好きだと、そう言ってくれてたのに……

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