四十五
夕顔屋の別宅の近くには、酒問屋
その別宅で溜息を吐いたのは、
「いい加減、店に帰りたいよ」
志摩屋の長男、忠吉である。
一月前に熱を出してしばらく寝込んでいたのを、熱が引いたあともしばらくは本調子に戻らず、親に別宅で休むように言われていたのだが、本人はもう問題はないと家に帰りたがっていた。
「いいえ、旦那さまからはあと三日は安静にさせるように言付かっておりますので」
別宅の管理を任されている下男が神妙に言うのに、忠吉は苦笑した。
「小さい子ではないというのに、父は心配しすぎる」
「そりゃあ大事な跡取り息子を心配するのは当たり前です」
「いずれ店を継ぐ身であれば、商いの勉強をしたいというのに……」
忠吉の言葉が途切れたのは、どこからか琴の音が聞こえてきたからだった。
開け放した縁側まで行ってみると、よりよく音は聞こえるのだが、その弾き手の姿は見えない。
何故そこまで気になったかといえば、あまりにも琴の音が心地良く、美しかったからだ。
「いったい、どなたが……」
こんなきれいな音色を奏でているのか。忠吉は一生懸命に琴の音に耳をすませている。
「夕顔屋のお千夜さんですよ。あすこの店もこの近くに別宅をもっていらっしゃって、こっちに来ていなさるみたいですね」
忠吉は演奏が終わるまで、千夜の演奏に聴き惚れていた。
演奏が止んでも琴の音が忘れられず、居ても立っても居られなくなった忠吉は、思い切って夕顔屋の別宅を訪ねたのだった。
「初めてお会いしたばかりだというのに、何とも
すごく、惚れてしまったんです」
「え……」
「あ、琴の音に……」
忠吉が恥ずかし気に
「琴を弾くくらいお安い御用です。では、忠吉さんのお身体の回復を願って……」
どこか心が
両親が死んでから上手く笑えなくなっていたのに、今は自然に笑えている。
噓偽りも下心もない清らかな人間に、久しぶりに巡り会えたことがうれしかったのかもしれない。
それから十日、忠吉は毎日千夜を訪ねては、飽きもせずに千夜の弾く琴の音を聴いている。
しかしこの日は千夜が演奏を終えても、忠吉は浮かない顔をしていた。
「父が、早く帰って来いと言いますんで……」
はじめに帰りたがっていたのは忠吉の方であったが、三日を過ぎても忠吉は帰らずに、何のかのと理由をつけては別宅に居座り続けていた。
それは、ひとえに千夜の演奏を聴きたいがためであり、千夜に会いたかったからだ。
「お引止めしてしまったみたいでごめんなさい。忠吉さんといると楽しかったから」
忠吉といるときは嫌なことを忘れられた。
何より、心穏やかな時間を過ごすことができたのである。
名残惜しく思いながらも、これ以上引き止めることはできないと、千夜も正直に残念そうな顔をした。
「私が貴女といたいばかりに、ここにいたのです。
琴を聴いて、あんなに心を打たれたのは生まれて初めてでした」
忠吉が身を乗り出すようにして言った。
「お千夜さんがよろしければ、日本橋に帰った後も、こうしてときどき会ってはくれませんか?」
千夜はもちろんと答えて、はにかんだ。
その表情を見て、忠吉は照れたような顔をした。
言葉通り、二人は別宅を出たあとも、時間を見つけては逢瀬を重ねるようになっていた。
琴が引き合わせた縁が、次第に熱を帯びていることに二人はもう気づいている。
控えめで思いやりのある千夜に、穏やかで気遣い上手な忠吉に、二人はお互いに惹かれ合った。
「貴女と夫婦になりたい」
忠吉がそう口にするまでには、そう時間がかからなかった。
「お千夜さんの事情は承知です。それでも、私を選んでほしい」
忠吉は志摩屋の一人息子なので、いずれは店を継ぐ跡取り息子である。
つまり、忠吉と一緒になるということは、嫁にいくことだ。
志摩屋の嫁にいってしまえば、もちろん夕顔屋から離れることになる。
後を継ぐのは千夜ではなく、叔父の息子となるのだ。
ずっと夕顔屋にいたかった。両親が大切にしていたものを守りたかった。
だからきっと、後悔するかもしれない。そして自分を責め続けるかもしれない。
この人となら幸せになれると思ってしまったことを。
「私は、忠吉さんと一緒にいたい」
たとえ志摩屋に嫁にいっても、夕顔屋との縁がぶっつりと切れてしまうわけではない。
むしろ円満に収められる最善の方法なのだろう。
願ってもない話に叔父夫婦は喜び、志摩屋の両親も反対する理由がないと、二人の縁談は周囲に認められ、半月後には正式に夫婦になることに決まった。
千夜に再び幸せが戻ろうとしたとき、すでに魔の手が忍び寄っていたことを、このときは誰も知らなかった。
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