四幕二場 ずごごー
「おはよう、母は?」
「奥様なら寝室で寝ています。お昼過ぎに起こすよう、頼まれています」
「そう、そう……なの……」
目覚ましをかけずに目覚めた時間は九時だった。当たり前のように台所には富沢さんしかおらず、マヨネーズと卵の匂いがした。
食卓に並べられたサンドウィッチをもさもさと食す。頭の中に浮かぶことは、昨晩からずっと同じ。
「ごちそう、さま……」
気づけば食事は終わっていた。正直何を食べたのか、よく覚えていない。味覚が全部消えたみたいだ。
おぼつかない足取りで部屋に戻る。すべきことは、分かっていた。
分からないなら、遡ればいい。このカーテンの向こうには、その全てがあるのだから。
「でも、」
握った暗幕はピクリとも動かない。脳が危険信号を送っている。
怖い。もう、舞台に触れたくない。
クーラーはまだ効かないのか。Tシャツが汗でべっとりと張り付く。
頭が痛い。不謹慎かもしれないけど、熱中症であって欲しかった。
「……どうして、怖いんだろう」
ふと、何かが頭をかすめた。
私はもう、空っぽじゃない。笹山葵として生きている。舞台にしか存在意義を見出せない神崎ヒナタを卒業しつつある。
私は、何を怖がっているの。
生まれた疑問が脳内に小宇宙を展開した時、視界の端でスマホが光った。
表示された名は、今私が一番求めていた人かもしれない。
「やっほ、葵ちゃん」
「おはよう」
一時間後。待ち合わせ場所に指定されたのは、駅前のファストフード店だった。
軽快なBGMと朝ぱっらから騒がしい雑談。夏休みの弊害を感じる中、オレンジジュースを受け取り、陽彩の前に座った。
黒いTシャツに半ズボン。陽彩は珍しく、緩い恰好をしていた。
「何の用?」
「暇だったから呼んだだけ」
ずこーっとストローを吸い込む陽彩。本当に暇そうだった。
「今日は何もないの? 握手会とか」
誰かを誘ったり、誘われない限り、私の予定は埋まらない。でも陽彩は違う。今のセリフには、そんな皮肉があった。
「毎日毎日イベントあったら破産しちゃうよ」
「それもそっか」
少しだけ、安堵だ。
「それより葵ちゃん、昨日は大丈夫だった⁉」
朝の穏やかな空気をちぎり、持っていたジュースを机に叩きつけた陽彩。取調室のエチュードでも始めたのかと思った。
「大丈夫って、何が……?」
「ユートくんとのデート決まってるでしょう!」
ドン! 勿論私が取り調べられる側だ。
「あ、ああ……そんなこと、あったね……」
昨晩の母の発言の衝撃の方が大きくて、すっかり忘れていた。
「変なことされなかった⁉」
「うん、別に。……多分だけど、陽彩が思っているような子じゃないよ、岩崎くんは」
「はぁ……陽彩は人間の本質が見えてないっ!」
「そんなことないと思うけど」
「あるあるあるあーる!」
何かが彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。ご機嫌ナナメな陽彩は机に肘をつき、ずごごごごーっとジュースを吸い、ごっくんと飲み込む。
成程、『取調室に居座る掃除機』か。
「で、どこ行ってきたの?」
「動物園」
「無難だね」
ずずずっ。酒でも入っているのか、というレベルでやさぐれている。
陽彩は私の親か何かなのだろうか。今家で寝ている肉親はどうしても『親』という感じがしない。
大先輩、年の離れた姉……うん、しっくりくる。
「嫌いなの? 動物園」
「たった今大っ嫌いになった」
「……陽彩は何が気に入らないの?」
「岩崎悠斗っていう存在」
一体陽彩と岩崎くんに何があったのか。
小動物を連想させる愛らしさを持つ陽彩が転入したのは夏休みが始まる一週間前。大方想定は出来るが、その想定はすぐさま消した。
「陽彩は厳しいね」
「厳しくない、大っ嫌いで今すぐ消えて欲しいだけ」
確かに厳しくない。非常に厳しいに訂正しよう。そこまで嫌悪感を抱かなくてもいいのに。
少しだけ反発の気持ちが生まれたが、気づかぬふりをした。今何を言っても、聞いて貰えない気がする。陽彩に習ってずずずっと飲み込んだオレンジジュースの味は、
溶けた氷のせいで薄くなっていた。
「で、今日は何する予定なの?」
「金欠だから出来るだけお金かからないことしよう」
「あ、っそう……」
お金のかからないこと。大分萎められた気がする。
すぽーむ、クレーンゲーム、動物園にこのジュース。思えば今まで私がしてきたことの全てにお金がかかっている。
何をするにもお金が必要。百円で得た飲み物とクッション性の椅子。ガンガンかかるクーラーの下で、無慈悲な社会を知った。
Experience must be bought. 何事も金が要るのだ。
「公園で遊ぶ……待って、何でもない」
夏空の下で駆け回るのは薄着の小学生と甲子園球児だけでお腹いっぱいだ。
現代を生きる我々に、クーラーのない生活など耐えられない。
「図書館は誰かと行くような場所じゃないし……学校、は勝手にクーラーつけられないし……」
「あんたの行動基準、冷房なの?」
「うん」
「……葵ちゃんの家は?」
「え」
ごりごりぃ。思わぬ提案に溶けかけの氷が喉に詰まる。
「どーせあるでしょ、バカでかいテレビ。私家からゲーム持ってくるから」
「げ、げーむ……家をゲーセンに改造するのはちょ」
「ねぇ、それわざとやってる? ぶん殴っていい?」
口を噤む。肩をぶるんぶるん回す陽彩は本気だ。目が吊り上がっている。
決してボケた訳ではないのだが、そう取られたらしい。不本意だ。
「ごめん。じゃあ今から行く?」
ずごごごごー。掃除機を演じたことはないが、自分なりの最大吸引力で残りを飲み込む。
「家からゲーム取ってくっから、一時間後ね」
「分かった」
空のコップを捨て、退店。今日の予定が埋まったことに満足感を抱きながら、帰路を辿る。
思えばまだ朝の十時。なのに太陽は全力全開。そんなに頑張っても、時給は発生しないのに。馬鹿だなぁ。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ、狭いところですが」
「それただの嫌味だから」
きっかし一時間後、何やら大荷物を抱えた陽彩がやってきた。
「あんたの部屋どこ?」
「二階」
「ご立派に地下もあんのね……見くびってたわ、サラブレッド」
「あ、ははは……」
リアクションに困ったので苦笑をかます。父と母のことは嫌いじゃないけど、父と母さえいなければ、舞台に上がることもなかったと恨む気持ちもある。
部屋に案内すると、陽彩は遠慮なしにテレビの前に座る……ことはなく、あのカーテンのついた本棚の前に立った。
「なにこれ、エロ本?」
「違う、それは」
「しつれーしまーす」
わざとなのか? 陽彩は私の言葉を聞かずにカーテンを開けた。
彼女はいとも簡単に開いた。この一年、私が遠ざけ決して見ようとしなかった過去の執着を。
「うお。…やっぱり凄いね、葵ちゃん」
「……ホント、やめて欲しいんだけど」
もっと、焦ったり怒ったり、するのかと思った。
私の目にはきちんと棚の全貌が映っている。けれども感情の起伏に変化はなかった。
台本、役作りノート、DVDに練習着。心拍数は平常だし、この上なく冷静に状況を判断出来ている。私はもう、舞台から完全に足を洗えたのだろうか。
「見てもいーい?」
「どうぞ、ご勝手に」
だから特に止めなかった。陽彩はその場に座り込み、おーとかへーとか興味なさそうな感心を漏らしながら物色を始めた。
私はその光景を呆然と見ていた。
私には、舞台しかないと思っていた。でも違う。人は望んで踏み出しさえすれば、大抵の者にはなれる。
現に近日の私は普通の女子高生になれた。舞台への感情など全て忘れ、友達と遊んで、異性とデートして、日常を愛する。
そしてこの光景を見て平然としていられるのが何よりの証拠。笹山葵と神崎ヒナタが遮断された確固たる証拠。
ストンと落ちた角砂糖が、ゆっくりと溶けていく。
ぬるま湯にちょっぴりの甘さ。これが笹山葵のこれからだ。
そう、思っていた。
「ねぇ、これも開けていいの?」
「……何、それ」
陽彩の膝の上には、お中元で貰うような茶色い缶があった。
何の缶か分からない。恐らくクッキーでも入っていたのだろう。
蓋の上には馬鹿みたいに汚い字で『たからもの』と書かれた白い紙が貼られていた。……この『も』反転している。
「こっちが聞きたいんだけど。で、見てもいい?」
「いい……く、ない、かも……」
本能が制止をかけた。不意によぎったのは昨晩母が落とした爆弾。
「え、どっち?」
「あ、え、と……」
歯切れが悪くなる。陽彩は怪訝そうな顔でこちらを見ていたから、慌てて視線を落とした。
この棚関係で、今日初めて起伏した。感情が確かに波を打った。
「……開けるね」
「だ、だめ、ちょっとま」
陽彩の行動はいつも大胆だ。
伸ばした手が空を掴むと同時に、蓋は開かれた。
がぱん。缶と缶がすり合う音が響く。その瞬間、たまらず首を後ろに回した。
「おー」
また同じような声が聞こえる。大したものが入っていなかったのかもしれない。
「よかったね、葵ちゃん。あんた、空っぽじゃなかったよ」
「え?」
その一言に釣られて、振り返ることはなかった。私の危機感知能力はしかと働いていた。
ただ、それを陽彩が上回っただけ。
「ほら」
予測していたのか、陽彩はいつの間にか私の横に並び、無理やり開いた缶を視界にねじ込んだ。
「っ……何、これ……」
「笹山葵が舞台に焦がれた瞬間、じゃないかな?」
あまりの衝撃に、エアコンの音まで消えたかと思った。
舞台の半券。サイン入りの台本、パンフレット。DVD。ウサギのイラストがでかでかと描かれた封筒。
その全てが、記憶にないものだった。
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