三幕幕間 あーちゃんとゆーと
こんな性格になったのは、サッカーが原因だと思う。
決して責任転換ではない。サッカー男子という肩書は人の顔面を二倍増しに魅せるらしく、故に俺はモテまくった。
バレンタイン最高記録は四十二個。あの時の虫歯の痛みは忘れられない。
女好き、人は俺をそう呼ぶ。
だからこれは少し昔の話。サッカーを始める前、引っ込み思案だった俺と「き」が言えない女の子の話。
「ちーらちーらーひーかーるーおーそーらーのーほしぃーよー」
「あーちゃんはお歌、上手ねぇ」
「えっへっへーママじきでんのわざなのです!」
いつも笑顔、それがあーちゃんを表す最適な言葉。
友達沢山、表情豊か。あーちゃんは教室の隅で車を走らせる俺とは正反対の存在だった。
「あーちゃ、あっちでつみきしよー」
「いいですよー」
「あーちゃん、つぎは、わたしとえほんよんでねー」
「いーですよー」
あーちゃんはお星さまみたいにキラキラしてた。
当時の俺はそんな彼女をちらりと盗み見て、ブーブー車を動かし、また盗み見て、発進させ、その繰り返し。ストーカーの気質ありだ。
「それ、たのしーですか?」
初めて彼女が声をかけたのは保育園二年目の春。皆が退園していく中、延長を受けた園児だけが残る教室は、いつの間にか俺とあーちゃんしか残っていなかった。
「た、たのし……たのしいの、かなぁ……?」
「たのしくないのに、ぶーぶーごっこしてるのですか?」
「わ、わかんない……」
あーちゃんはいつも大人と同じ難しい言葉を使っていた。カッコいいなぁ、と漠然な感想を抱いていた。
「では、あっちでおうたごっこをしましょう」
「おーた、ごっこ……?」
「おうたごっこ。あたちのままは、おうたがじょーずなおひめさまなの。だからおうたごっこ、しましょーね」
一本、二本、三本……車を掴んだ指をはがされる。俺と車を分別させたあーちゃんは、満足そうに微笑み、俺の手を取り、先生の下へ向かった。
あーちゃんの手は俺よりちょっとだけ大きかった。そして冷たかった。
「せんせーちらちらうたいますー」
「はいはい、きらきら星ねー」
俺たちの頭を撫でた先生は、当時無抵抗で見逃したビジネススマイルを掲げて電子ピアノの蓋を開けた。
先生も思っていたのだろう。こいつらさえ帰れば、溜まっている事務作業を片せるのにと。
「じゃ、いくよー」
「はぁーい!」
ゆったりと、軽く始まる伴奏。隣のあーちゃんは身体を左右にぶんぶん揺らす。下手をすればタックルを決められ、俺は死んでいただろう。
「はい、せーのっ」
「ちーら、ちーらーひーかーるぅー」
先生の送った合図と同時に、あーちゃんは大きく口を開いた。
正直言って、上手くはない。もっと正直に言っていいのならば、音痴だ。
でも、楽しそうだった。
目を大きく開き、口角は頬を突き破りそうだった。
「きらきら、だね……」
「ゆーとも、うたうのー」
「え、ええ?」
気を遣って伴奏を止めるなど、先生はしなかった。度重なる残業へのストレス発散だったのかもしれない。
それでも隣のあーちゃんの声は俺の耳を独占した。
「ゆーとはままと、いっちょに、うたってるひとやくです!」
「ん、んぇぇ?」
意味不明な役を与えられた。疑問は増えるばかりなのに、察してくれないあーちゃんは俺の手を取った。
向き合ったあーちゃんの目は、きらきら星みたいだった。
「せーのっ!」
「きっ、きーらきーらーひーかーるぅ……」
「ちーらーちーらーひーかーるー」
きらきら星、きらきら星変奏曲。モーツァルト作曲のこの曲は、当時フランスで流行した恋の曲らしい。
きらきら光るお星さま。あーちゃんにピッタリな曲だと思った。
あーちゃんと初めて喋った次の日、彼女は二度と保育園に来なくなった。
理由は分からない、誰かに聞く勇気もなかった。
悶々とした気持ちは、サッカーボールを得たことにより消えていった。
思えば最近まであーちゃんのことなど忘れていた。彼女との思い出なんて遠い昔
の上に、どの女の子よりも薄いものなのだから。
何故急に思い出したのか。何となく分かる、笹山だ。
物静かで、誰とも関わりを持たない笹山はあーちゃんとは正反対。でも、眼鏡の奥に隠された目がよく似ていた。
暗い深海魚のような目の奥の、更に奥。きらきら星がうっすらと光っていた。
「あーちゃん」
教室の隅で吐き出した愛称は、誰にも届かなかった。
運命とかは信じないし、信じたくない。けど、あの夏。見つけた君は少しだけあーちゃんに寄っていた。
だから思わず、声をかけた。あーちゃんと呼ぶのは少し違う。間を取って、笹山ちゃんと読んでみた。
関われば関わるほど、君とあーちゃんが同一人物かは分からない。でも、今はそれでいいのだと思う。
二年と半年。時間はまだ、沢山ある。
少しずつ、確かめよう。空白の時間を埋めるように、薄れた記憶に色を塗るように。
電話帳に追加された『笹山葵』の文字をなぞる。
次は、俺から手を取りたい。そんな思いが今日のデートの締めくくりだった。
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