第30話「朗報(side snow)」

「全然ダメだな。やり直し」


 ネージュはお茶を飲みながら涼しい顔をして、スノウの手渡した書類をパサっと机の上に落とした。今までの何時間かの頑張りが、無になった瞬間だった。落胆して、がっくりと頭を俯かせてしまう。


「……ちゃんと見た?」


 顔を上げてむっとした表情をしてみると、ネージュは肩を竦めた。


「ちゃんと見たよ。この計画だと、すぐに数年で破綻する。最初の資金額がそもそもおかしいだろう」


 指摘された通りに再度計算してみると、幼い頃から頭脳明晰な噂が近隣に鳴り響いていた兄の言う通りだった。


 最初の段階で数字が間違っていたら、もうどうしようもない。


 スノウは自分の間抜け具合に大きくため息をつくと、義父イグレシアス伯爵カールが喜び勇んで用意してくれた自分の執務室の奥、最高級の椅子へとドサリと音をさせて座った。


 現プリスコット辺境伯の三男スノウは、王都でこの国最高峰に位置する騎士学校では優秀だったが、跡継ぎのニクスやそのスペアであるネージュの兄二人のように、領地経営に関する専門的な教育は必要がないと判断して受けてはいない。


 両親は家族で甘やかした末っ子スノウは、堅苦しい貴族に婿入りなどせずに王都で自由に騎士として生きていくのかと思っていたし、スノウ自身もそうするつもりだった。


 だが、最愛の妻ティタニアの夫になり、次期イグレシアス伯爵スノウ・イグレシアスを名乗るようになるのなら、領地を統治しそこに住む領民たちの生活を守らねばならない。


 何かを得るのなら、何かの代償は必要だった。


 スノウの行動の動機は彼女のことを見つけた時から、いつだってティタニアだ。これまでもこれからも。


 気まぐれな次兄ネージュは、長兄ニクスが一人プリスコットに帰ってからも、義娘とこの土地の気候がすっかり気に入った母オルレアンと同様ノーサムにある森に囲まれた城館で過ごしていた。


 そして、スノウが必死に勉強をしている執務室に来てはいくつか助言して気ままに去っていくのだ。


 もちろん優秀な兄の助言は助かると言えば助かるのだが、いつまでこの人、ここに居るんだろうという気持ちは隠せなかった。


 実家には父シュレグとニクスが居るとは言え、確か帰って来た時にちゃんとこれからは家業を手伝うと言っていたような気もするが、それは良いのだろうか。


 まあ、飄々としたネージュが凡人には理解し難い行動を取るのは、いつものことだ。


 傍に居て色々と教えてくれるのなら害になる訳でもないしまあ良いか、とスノウは深く考えることをやめて机に頬杖をついた。


「ネージュは結婚しないの」


 なんとなくずっと思っていたことが、するっと口から出た。


 この前に結婚してから、スノウは日々常に幸せを感じていた。


 好きな女の子と別れることなく、いつも一緒に過ごすことの出来る喜びはなんと例えて言えば良いかわからない。


 だから、堅物のニクスとは違って、それなりに地元で遊んでいた過去もある次兄に聞いてみたかったのだ。


「するよ。次に好きな子が出来たらね」


 あっさりとその質問に頷いたネージュに、スノウは首を傾げた。


「次に? なんで? 一番好きになる子じゃないの」


「なんとなく次に好きになる子は、僕の運命の番のような気がするんだよ。勘」


 ネージュはそう言ってまたお茶を飲んで、スノウがさっきまで勉強していた書類を手に取り内容を検分しているようだ。


 この人がこういう態度になるということは、この話はもう終わりだ。


 あまり深入りするとろくな事がない。幼い頃からの兄の行動の流れは完全に把握しているので、首を傾げつつもスノウは黙った。


 その時、パタパタと音をさせて近づいてくる可愛らしい足音に気が付き、スノウは立ち上がった。


 大股でサッと扉にまで近づき、それが開くのを待った。


 もちろん真面目な性格のティタニアは礼儀作法が完璧だから、静かにノックが鳴って入って来た彼女をおろむろにぎゅっと胸に抱きしめた。


「もうっ……びっくりした! スノウ」


 ティタニアはスノウの胸を叩いて、顔を赤くした。


 この世界で一番愛している存在は、とても奇跡的なことだが、スノウに想いをそのまま返すように、思ってくれている。


 周囲の人の感情に聡いスノウには、彼女の気持ちが、手に取るようにわかった。その視線だけで。


「ごめんごめん。驚かせたかったんだ、どうしたの。こんな時間に。珍しいね」


 親孝行な娘ティタニアは、庶民から貴族となりずっと苦労をしている父の仕事をずっと前から手伝っている。なので、勉強し始めたばかりの今の自分より余程、この領地のことで毎日忙しい。早く手伝えるようになりたいと心からそう思う。


「さっき、鉱山から連絡が来たの」


 ティタニアが元大商人だったという先代イグレシアス伯爵の祖父から受け継いだという金緑石の鉱山は、そういえば今は正式にイグレシアス家の資産になっているんだったな、とスノウは首を捻った。


 そこから彼女宛に連絡が来るとは、どういうことだろうか。


 にこにこと嬉しそうな顔をしたティタニアの言葉を微笑みつつ待っていると、可愛らしい目を輝かせて彼女は言った。


「ついこの間、採掘していたらすごく大きな新しい鉱脈を見つけたとかで、これから採掘量が比べ物にならないほどに増えそうなの」


「そうなんだ」


 なんだかよくわからないが、ティタニアが嬉しそうならそれで良いかと思ってふっと笑った。自分の思っていたより反応が薄かったのだろうか、彼女はむっと口を尖らせた。


「もうっ、これで色んな資金繰りとか、あまり悩まなくて良くなるのよ。お金って生きていく上で本当に大事なんだから」


 それは確かにそうなのだろうが、特になんとも思わなかった。


 このティタニアと一緒に生きていく上で必要なお金なら、知恵を絞って自分が稼ぐだろうし、彼女と結婚することによって、得られる地位も、ただの付属品に過ぎないので、スノウにとっては何の意味もない。


「ティタニアが嬉しいなって思うことなら、俺も嬉しいよ。けど、別にそれはお金の問題じゃない。お前が笑ってくれているなら、何でも良いんだ。確かに採掘量が増えるのは良いことだとは思うけど、あの鉱山はティタニアのお祖父さんが残してくれたものだし、大事にしよう」


 そうして顔を近づけると、ティタニアは心得たように、目を閉じた。そして、唇が触れ合う寸前に部屋の奥からのんびりとした声がした。


「スノウ。これ、途中から計算めちゃくちゃだけど、本当にイグレシアス伯爵としてやっていけるの?」


 絶対にこうなるのを待ってから声をかけたなとスノウは眉を顰めた。


「ネージュ! もう、良いからさっさとプリスコットに帰れよ」


 そういえばすっかり存在を忘れていたネージュが、ペラっと書類をめくっていた。


「手のかかる弟の世話するのも僕の楽しみなんだよ。早く甥か姪、出来ないかな。僕、子ども好きなんだよね」


 過保護でうるさい次兄が実家に帰るのはまだまだ先になりそうだと悟って、スノウはティタニアを抱いたまま、大きくため息をついた。


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