第9話 変わらぬ君と変わってしまったもの

 病院内には、お決まりの薬品臭も、リノリウムの床もない。


 タマイシの病は菌やウイルスが原因で発生するもではないから、これでいいのだ。


 床はクリーム色で、夕飯時のカレーの匂いがした。


 一階は開放型で、円いテーブルとオシャレな椅子がそこかしこに設置されていて、病院というよりはシェアハウスの風情を呈している。


「すみません。予約していた者なんですが、面会の手続きをお願いします」


 俺は穏やかなムーンストーンのタマイシを持つ、受付の女性に話しかけた。


 制服はなく、私服を着ている。


 患者と職員の間に心の壁を作らないように、わざとそうしているのだろう。


 この病院では、首から提げた職員証以外、患者と職員を区別する物はないようだ。


「はい! では、こちらにサインを――あ、もしかして、あなた、純くんね? そうでしょう」


「はい。俺のことご存じなんですか?」


「うん。眠そうだけど、飢えた野良犬みたいな目をしたイケメンが来たら教えてって、茜ちゃんから言われてるから」


 受付の女性はにこやかにそう言ったが、本当の所は、俺がタマイシを持っていないところで判別したんだろうと思う。


「そうですか。確かに、俺をイケメンというのは茜くらいのものでしょうからね」


「だめじゃない。あんないい子を放っておいちゃ。しっかり心を掴んでおかないと、他の男の子にとられちゃうよ」


 受付の人は、さりげなく胸に手を当ててから、冗談めかしてそう言う。


体的たいてきアンガーコントロールが上手いな)


 それは、タマイシの普及したこの世界で、感情を隠す手段の一つだ。


 ボディランゲージを利用して、タマイシを一瞬隠すか、もしくは話し相手の意識を自分からそらす。


 その刹那に負の感情を一気に放出して、感情を平静に保つのだ。


 今の場合は、茜を粗略に扱った俺に対する嫌悪感を消したのだろう。


 患者の心にポジティブな影響を与えられるよう、精神科においては必要とされるスキルだが、看護師ならともかく、医療事務レベルにまで教育が行き届いている施設は中々ない。


 どうやらここは、良い病院のようだ。


「すみません。その分、これからはいっぱい茜の側にいるつもりです」


 俺は軽く頭を下げてこう言った。


 この人にあれこれ俺たちの事情を説明している時間はない。


 訪問者用のカードを受け取り、首から提げて、茜のいる5階へと向かう。

 エレベーターもあったが、下に降りてくるまで時間がかかりそうだったので、階段を駆け上がった。


 病室のネームプレートを確認し、ノックを三回。


「どうぞ」


 返事を受け、横開きの扉を静かにスライドさせる。


 茜は俺の記憶と同じ、美しいままの姿でそこにいた。


 ワンピース姿の彼女は、ベッドに腰かけ、開け放たれた窓から海を見つめている。


 傍らには、さっきまで彼女が読んでいたであろう『星の王子様』が、無造作に投げ出されていた。


「よう」


 どんな声をかけて良いか分からずに、結局俺はいつもと同じ短い挨拶を繰り出して、腕を曲げたままの中途半端な形で手を挙げた。


 こちらを振り向いた茜が、目を見開く。


 かつて七色の輝きを放っていた彼女の胸のオパールは、すでに紫と青の光を失っていた。


「もー、純。ひどいよ。転校して忙しいのは分かるけどさ。いくらなんでも、死にかけの彼女を三ヶ月も放っておくなんて」


 嬉しそうな声色で言う。


 いくらかは怒りのニュアンスも含んでいたが、その成分はかなり弱くなっているのを実感する。いつもなら、茜は後に引きずらないように、怒る時はわざと過剰に怒って見せるタイプだった。少なくても、こんな、どこかの三文芝居から抜き出してきたような、気の抜けた怒り方はしなかった。


 やはり、俺が一方的に別れを切り出したことは覚えていないようだ。


 だったら、全て『なかった』ことにしよう。


 実際、それは大して難しいことではなかった。


 俺は、茜が嫌いで別れた訳ではないのだから。


「悪いな。スマホを壊した」


 俺は、『新品』のスマホを示した。


 嘘を本当にするために、行きがけに新型を買って、データを移しておいた。


「もー、全く純はしょうがないなあ。せめてお詫びの印に、愛を込めた薔薇の花束の一つもないものかね」


 茜はどこぞの大学教授風のモノマネをしておどける。


「だって、茜、前に『なんで綺麗な花をわざわざ摘んじゃうのかわからない』って言ってただろ。それに、もう、花ならそこら中にあるじゃないか」


 俺はずらりと並んだ色とりどりの花瓶を一瞥して言う。


 お見舞いの花は十分足りていた。


 茜は多くの人間に愛されている。


 そのことは知っていた。


 そして、俺は凡百のプレゼントをするその他大勢にはなりたくなかった。


「それはそれ、これはこれでしょ! 本当、純は女心が分かってないなあ」


「さあ、それはどうかな?」


 俺は不敵に笑って茜のいるベッドに歩み寄る。


 それから、しわの寄ったシーツへ、膨らんだジーンズの尻ポケットから取り出したチケットの束を叩きつけた。


「『青春18きっぷ』? しかも、こんなにたくさん――」


 それは、JRが発行している、期間限定の旅行券。


 一枚につき、5日間、JRの鈍行が乗り放題になる。


 それを何枚も用意したという事実が意味するところは――


「茜。俺と旅行に行かないか。もしかしたら、無人病が治るかもしれない当てがある。だから、お前の残りの時間、全部俺にくれ」


 俺は茜の隣に腰かけて、彼女の目を見つめて呟いた。


 言えないことが多すぎるけど、それでも、伝えるべきことは全て伝えた。


「はい……」


 茜はその白い歯を剥き出しにして、満面の笑みで即答した。


「ありがとう。出発は、二日後でいいか? 色々旅行の準備もあるだろう」


「うん! でも、本気で何か月も旅行に行くつもりなんだよね? なら、純、そんなお金どこで――」


 茜が一瞬無表情に変わる。


 アクセスできない記憶に、アクセスしようとした時の反応だ。


 茜は、俺の『仕事』のことを知っていたが、いつも心配していた。


 その記憶は、おそらく『不安』に分類されるもので、彼女にはもはや許されていない感情なのだろう。


 事前に知らされていても、やっぱり、茜の病状をまざまざと見せつけられるときつい。


 俺にはタマイシがなくてよかった。


 もしタマイシを持っていたら、目の前の光景に動揺せずに、変色を抑えられた自信がない。


「心配するな。茜の分の旅行費は、ご両親から貰ってるよ。俺の分は、譲二に借りた」


 また嘘をつく。


 俺の仕事をなかったことにするなら、今の茜を納得させられるもっともらしい理由はそう多くはない。


「そうなんだ。とんだ親不孝者だね。私たち」


 茜が顔面麻痺になったように半面を引きつらせて、心底嬉しそうな声色で呟く。

 その言葉に本当なら込められるはずだったもう半分の感情――悲しみはすでに欠落していて、何ともアンバランスだった。


「ああ。……でも、そもそもこれは俺のわがままだ。茜が付き合う義務はない。お前には当然、このまま穏やかに過ごすっていう選択肢もある」


 20%の生存可能性のために――しかも、そもそもちゃんとタマイシを集めきり、手術までこぎつけられるかすらもわからないのに、俺は茜を日本中に引っ張り回そうとしている。


 茜の余命三ヶ月の使い方として、俺のやろうとしていることは正しいのだろうか。


 このまま、良い人たちばかりに囲まれて穏やかに終わりの時を待つという選択肢も、十分に考えられるはずだ。


「いいの! お母さんも、お父さんも、お見舞いに来る友達も、みんなかわいそうなものをみる目で見てくるの! そんなの耐えられない!」


 茜が苛立たしげにベッドを殴る。


 本来なら、怒る場面ではない。


 むしろ、悲しむ場面だが、もう悲しめないから怒りの感情で代替したのだ。


 そもそも、茜はこんな露骨な不満の示し方はしない奴だった。


 もっとスマートでおもしろいストレスの受け流し方を、いくつも知っていた。


(だめだ。普通に会話しているだけでこんなにきついなんて)


 どうしても、昔の彼女と比較してしまう。


 思い出がゲリラ豪雨みたいに降ってくる。


「そうか。ならちょうどいいな――悪い。ちょっと飲み物を買ってくる。ここまで走ってきて喉かわいたんだ。茜も何かいるか?」


「うん? じゃあ、オレンジジュースがいいな」


 一転、笑顔になる茜。


 感情のつなぎ目がなくなったその様子は、まるで子ども向けの喋るぬいぐるみみたいに不自然だった。


 病室を出て、扉を閉める。


 廊下の手すりをあらん限りの力で握り締め、一瞬、きつく目を閉じた。


 そして、目を開く。


 ガラスに映る俺の顔は、不合格だ。


 茜の嫌がる『かわいそう』な表情をする訳にはいかない。


 お前の得意分野だろ? 能面。


 笑え。笑え。笑え。


 完璧に笑え。


 いつもの俺みたいに。


 笑っていないように笑え。

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