第5話 招かれざる客
電車が制動をかけて、速度を減じていく。
大きくも小さくもない、福岡県のベッドタウンの駅に滑り込む車窓。
俺は吊革から手を放す。
「あ、俺の駅、ここだから」
向かいの席に腰かけた伊笹さんに、事実を告げる。
「あっ、はい。今日は久世くんといっぱい話せて楽しかったです。それと、席を譲ってくれてありがとうございました。じゃ、じゃあ、また明日!」
わざわざ席から立ちあがって、一つ一つお礼を言ってから、ペコリと一礼する伊笹さん。
常に何かに怯えているハムスターのようなその挙動。
翡翠が、青から、緑に変わって、また緑に戻って、最後は何かに期待するようなオレンジ色に染まった。
コミュ障の俺とは真反対の社交性を発揮する彼女も、実は俺と同じくらいに生きにくいんじゃないか。ふと、そんな失礼な感慨を抱く。
心が見える世界で優しすぎる人は、きっと不幸だ。
相手の感情に敏感な善人は、その善性故に恐怖するしかない。
後で、ラインで冗談の一つでも送ってなごませてやろうか。
頭に一瞬浮かんだ傲慢な妄想を、俺はすぐに打ち消す。
俺にはもう、誰かに干渉する資格はない。
「うん。またね」
だから俺は微笑んで、それだけ告げると、電車から降りた。
自動改札を通り、『我が家』と言い張るにはまだあまり馴染みのないねぐらに帰る。
2階建ての、診療所兼住居。
『じょうじメンタルクリニック』
柔らかいフォントでそう書かれた看板。
子どもの落書きみたいな、笑い顔、泣き顔、無表情、種々の顔のイラストが文字に彩りを添えている。
不本意ながら、この家の主権者は俺ではない。
俺の身元引受人――認めたくはないが保護者にあたる人間の家だ。
本当は独り暮らししたいことは言うまでもない。
しかし、急な転校を決めたせいで家を選んでいる余裕はなく、『仕事』も辞めてしまっていたため、先立つものも心もとなく、みじめな居候となった。
患者の使う正面玄関を避けて、裏口から家に入る。
クリニックの主――
通常の内科的な精神病の診察だけではなく、『タマイシ』の外科手術もできる名医のため、常に大忙しである。
その分、俺も余計な干渉を受けずに済むので、今後も流行り続けてくれればいいと思う。
「お帰りなさい。純」
などと思っていたら、職員の控室ともなっているダイニングで譲二が呑気にお茶漬けをすすっていた。
白衣に、長めの茶髪。
小ぶりの顔に、細目の狐面。
歌舞伎町のナンバー1ホストのような優男の顔には、いつも仏のようなアルカイックスマイルが浮かんでいる。
「まだ診察時間中だろ?」
「昼の診察が長引きましてね。休憩が取れてないんです。そして、運良く――と言ってはいけないのでしょうが、予約にキャンセルが出たので遅めの昼ごはんという訳です」
譲二はそう言って肩をすくめた。
こいつの二面性を象徴するアレキサンドライトのタマイシは、深い緑色をたたえたまま、何の感情も示さない。
心が見える世界になったと言っても、心が見えては困る職業もある。
精神科医なんかはその筆頭で、患者に感情を悟られて診療に支障をきたさないように、タマイシの変化を抑える特殊なメンタルトレーニングを積んでいる。
最も、それを実行できる人間はそう多くないので、精神科医は慢性的に不足している状態なのだが。
「それはご苦労様。どうせまた、女絡みだろう?」
「まるでボクが女たらしみたいな言い方はやめてくださいよ。
譲二が計算されつくされたような苦笑を浮かべた。
「なるつもりもないし、そもそも無理だと分かっていて言ってるだろ。お前」
「そうですかね。純は精神科医に向いていると思いますよ」
俺がなれないと言ったのはそういう意味じゃないのだが、こいつは分かっていて無視しているようだ。
「ほざいてろ。あ、ちゃんと茶碗は忘れずに水につけておけよな」
「はいはい。あっ! 純、忘れているといえば、大切なことを言い忘れていました」
「あ、なんだ?」
「純にお客さんがいらしてますよ。どう扱っていいかボクには分からなかったので、とりあえず二階で待ってもらっていますが」
「客。俺に? 誰だ?」
思わず顔の筋肉が硬直する。
俺に会いにくる人間なんてそうそういるはずがない。
そもそも、俺の住所を知らせるほど、深い関係になっている人間がいないのだから。
もしかして、昔の『仕事』絡みか?
いや、それなら譲二が適当に処理するはずだしな……。
「
「……」
「どうやら心当たりはあるようですね。どうしましょうか。会うのが嫌なら、ボクの方からお引き取り願っても構いませんが」
「俺はガキか。会うよ」
俺は一段飛ばしに階段を駆けあがる。
空海 栞は茜の母親だ。
二、三回ほどしか会ったことはないが、よく笑う人だったことを覚えている。
なんだろう。
茜を傷つけた罪で慰謝料でも請求されるのだろうか。
それなら、全財産くれてやってもいい。
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