其ノ91 真夜中の卵酒

 ますますわけがわからなくなってきた。

「……ってか、〝ういち〟ってなんの名前だよ」

 まったく思いあたらないのに、この珍しくてヘンな名前を知っている感覚があるから困る。そのせいでずっともやもやしていたものの、そろそろ脳みそがパンクしそうだ。

「ダメだ、いまはひとまずあきらめよう。きっとそのうち思い出すよ。トイレに入ってるときとかに」

 父さんと鷹水さんは今夜も一緒に夕ご飯を食べていた。わたしはひとり居間に残って、鷹水さんお手製の煮物とおひたし、自分で買った漬け物を平らげる。そうしてさらに仏壇に供えたみたらし団子を完食してから、三度くしゃみして鼻水をすすった。

「さぶっ。なんか風邪っぽいな……」

 地味にのどもいがいがしてきた気がする。風邪はひきはじめのうちに、気合いと薬で治すのが我が家のしきたりなので、食器を洗ってから風邪薬を飲み、居間の電気を消して廊下に出る。鷹水さんの部屋から父さんの話し声がもれているのを耳にしつつ、部屋に入って障子を閉めた。



 ♨ ♨ ♨



 気になることが山ほどあっても、恐怖の期末テストは待ってはくれない。ひたすら地道に暗記作業を続け、時計が九時をまわったところでノートを閉じ、障子に顔を向けて耳をすました。父さんの話し声がしないということは、鷹水さんは絶賛フリータイム中。ポーチの中身を確認してもらうチャンスだ!   

 廊下に正座しつつ、鷹水さんの部屋の障子に耳を押し付けて気配をうかがう。やたら静かだけれど、障子越しに灯りがすけているので、鷹水さんは起きているはず。

「……あ、のう~」

 おそるおそる声をかけると、いきなり障子が開いた。

「どうした、さっきからそこにいたな?」

 はい、いました。

 障子に手をかけて正座する鷹水さんの背後を見ると、文机に教典が広げられている。勉強中だったらしい。

「あ、お勉強中だったんすね、なんか邪魔してすんません」

「いや、気にすんな。それより、どうした?」

「あの……林の中で持ってた物を、ちょと見ていただこうかなと思いましてですね……」

 廊下に正座したまま、ポーチを開けてひとつひとつ、鷹水さんの目の前に陳列していく。置き終わってから鷹水さんを上目遣いに見ると、なぜか懐かしそうに無言で見下ろしていた。

 これはなんだ、とも言わない。

 カガミちゃんみたいに、古いとも指摘しない。

 背筋を伸ばした姿勢で正座する足に両手を添え、意味不明な三点にしばらく見入る。そうして鷹水さんは、視線だけをわたしに移した。その眼差しで直感した。

 鷹水さんは、これを知っている。

 いや、もしかすると全部鷹水さんの物だったりして……?

「こ、これ……もしかして知って――クシュンッ!」

 思いきりくしゃみをしてしまった。同時に鼻水が垂れそうになって、とっさに指でつまむ。

「どうした?」

「た、ただの風邪だと思う!――クシュンッ!」

 ちょと好きだった相手を前にして、おっさんみたいなくしゃみを盛大に放ったあげくに鼻をつまむとか最悪だ。でも、いまさらかわい子ぶれるキャラでもないし、鷹水さんには彼女がいるっぽいので、べつにどうでもいっかと投げやりな気分にもなる。

 まあ、その彼女も、フツーの人間なのか魔物なのか、こっちの世界にいるのかあっちの世界にいるのかは謎なんだけれども。

 陳列された物を丁寧にまとめた鷹水さんは、すすっとそれらをわたしに押しやり、腰を上げた。

「かもな」

「えっ、かもなってなにが?」

 ずずずと鼻をすすりながら、廊下に立った鷹水さんを見上げる。

「俺の知ってる物かもしれねえってことだ。それより、中でちょっと待ってろ」

 くいっとあごで自分の部屋をしめし、わたしの頭を手で包む。

「え?」

 くしゃりと撫でてから、背を向けた。

「卵酒作ってやる」




 ♨ ♨ ♨




 鷹水さんの文机は、昔父さんが使ってたやつだ。その上に広げられた教典は二冊。漢字だらけなのが一冊と、漢字とかな文字の混じったのがもう一冊だ。

 文机を前にして正座し、じいっと二冊を眺めていると、頭がぼうっとしてきて字がぼやけはじめた。飲むと眠たくなる風邪薬が、だんだん効いてきたらしい。いますぐ部屋に戻って寝たいけど、せっかくの卵酒の到着を待ちたい一心で必死に眠気と戦った。

「……にしても」

 手にしたポーチを見下ろし、ため息をつく。これは鷹水さんの知ってる物っぽい。ってことは、わたしはやっぱり?

「地獄に行ったってことなんかなあ……」

 たぶんそこで、鷹水さんに会ってるんだ。だからはじめて会ったとき、知ってるみたいな気がしたのかもしれない。

「……じゃあ、〝ういち〟ってなんだろ」

 呪文か、それとも暗号的ななにかとか? まるでわからない。ダメだ、ぼうっとしすぎて、まともになにも考えられそうにない。

 座ったまましばらくうとうとしていると、障子が開いた。

「ほら」

 鷹水さんが湯飲みを差し出す。ありがたく両手で受け取って、湯気のたつ卵酒をのろのろと口に運ぶ。ちょっとだけお酒の味が残るけど、甘くておいしかった。

「ありがとう、すごいおいしいっす。鷹水さん、料理上手だよね。こういうのももしかして、実は魔力的な技で仕上げてる……とか?」

「んなわけねえだろ」

 くっと笑った鷹水さんは、わたしのそばに腰を下ろしてあぐらをかいた。

「俺の魔力なんざたいしたことねえし、ちゃんと真面目に作ってるぞ。世話になった人に教えてもらったことがあるんだよ。料理のできる知り合いがいたから、ずっと頼ってて作らなかったけどな」

 世話になった人? その人も魔物仲間だったりして。

「……は、はあ」

 突っ込んで訊いてみたいところだけど、風邪薬と身体のぽかぽかする卵酒で頭が働かなくなってきた。でも、これだけはやっぱり訊いておきたい。

「あのう」

「なんだ?」

「……わたし、やっぱ地獄に行ったんすね?」

 両手に包んだ湯飲みから、視線を上げる。鷹水さんのせつなげな眼差しと、目があった。

「否定されないってことは、やっぱ行ったんだね。全然思い出せないけど、さっき見せた物も鷹水さんの物だったとすれば、そこで鷹水さんに会ってるってことになるわけで、でも鷹水さんは、わたしとは初対面だとか言うし、だんだんわけがわかんなくなってきたっていうか……」

 頭に霞がかかったみたいだ。激しい睡魔がおそってきて、ろれつがまわらなくなってきた。

「……眠たいっていうか」

 まぶたが重いっていうか。

「そうだ、賭けってなに?」

 鷹水さんはなにも言わない。そうだった、たしか言ったらダメなんだった。

「言えないのも、賭けのせいとか?」

「そうだ」

「あ……そっか。わたしと地獄で会ってたことについても、言えないってことになるのか。それも賭けのうちだもんね」 

「……そうだ」

 なるほどね……って、ちょっと待てよ。わたしと会ったことについて言えないのも賭けのうちってことは、まさか、もしかして。

「あのさ、もしかして賭けられてんのって」

 ゆっくりと、指で自分をしめす。

「わたし……みたいな?」

 鷹水さんは真剣な表情を崩さない。え、えええ?

「なんでわたしが魔物の賭けになってんの? 地獄に行ったから? ってか、賭けの内容はなにさ?」

 酔っぱらったおっさんみたいに、鷹水さんにぐっと詰め寄る。そのとき、なぜか例の奇妙な夢を思い出してしまった。

 あの夢に出てくる美形男子、たしか期限がどうのとか言ってたような覚えがある。

「じゃあさ、まさか期限とかもあったりする?」

 なんの関係もない夢だと思ってたけど、わたしが賭けられているとなれば無視できない。今夜から夢日記をつけるレベルで重要じゃん!

「期限はある」

 足にのせた両手を拳にして、鷹水さんは言った。

「……それまでに、とある誰かに、なにかを思い出してもらうのが賭けだ」

 もっすごいあいまいな表現だけど、その〝とある誰か〟はわたしのことだろうし、思い出すっていうのもきっと間違いなく――。

「――地獄に行ったってことを、わたしが思い出すのが、賭け?」

 そういえば、衣心が部屋に突撃して来たあの夜にも、鷹水さんはたしかに言ったんだ。


 ――さっさと思い出しやがれ。


 ヤバい。点が線になってきてる!

「き、期限ていつ? マジでありえないけど信じるしかなさそうだし、もしも期限までに思い出せなかったら、なにがどうなんの!?」

 まさか、世界の終わりか!?

 詰め寄って鷹水さんの胸元にこぶしをあてたとたん、バランスを崩した。わたしの全体重が鷹水さんにのしかかったせいで、鷹水さんはちょっとのけぞり気味になる。

「うおっと、す、すんませ……」

 鷹水さんから離れて体勢をととのえようとした直後、とっさに抱きしめられてしまった。

「うあっ、ちょ、ちょと!」

 驚いたことに、作務衣越しに伝わる鷹水さんの体温はほんのりと温かい。

「あれ、なんか温かい……?」

 思わず口にしてしまった。

「さっき風呂をもらったばかりだから、熱がまだ残ってんだろ」

 なんだ、それでか。ぽかぽかしてて心地いい……って、うっとりして眠たくなっている場合じゃない。この魔物には彼女がいるんだぞ、どういうことだよ、おいい!

「浮気すか! 浮気ですよこれ、全力で拒否するっ!」

 鷹水さんにすっぽりと包まれたみたいになってる状態からなんとか逃れるため、無駄な抵抗をしてみる。でも、頭を撫でられはじめると眠気もあいまってどうでもよくなってきた……じゃねえええ!

「これはよくない、よくないっすよマジで!」

 口では反抗してみるものの、ゆったりしたリズムで髪を撫でられていると、いよいよまぶたが重くなってきた。

「うるせえなあ、眠てえんだろ? もういいから、黙って寝ろ」

 はい……。いや、違う! でも、ダメだ。ホントに眠い。

「ぜ、全力でっ……!」

「ああ、わかった、わかった」

 クスクスと身体をゆする鷹水さんに抱きしめられながら、とうとう睡魔に負けてしまった。

 でも、すっかり意識をうしなう間際、鷹水がささやいた。

「思い出せなきゃ俺は消える。そんだけだ」




 ♨ ♨ ♨




 深夜に目が覚めた。

 暗闇に目が慣れてくると、自室の本棚が視界に入る。服のまま自分の布団に入っていたので、鷹水さんが寝かせてくれたんだとわかり、ぼうっとしながら寝返りをうつ。そうしてふと見た部屋のすみに、白いなにかの輪郭があることに気づいた。

 それは、鳥だった。白い鳥で、ぼうっと輪郭を発光させている。

 その鳥には、見覚えがある気がした。カガミちゃんの部屋から見えた鳥と同じかもしれないと、なぜか直感する。

 鷹か、鷲か、翼を閉じて微動だにしない。え? と思ってまばたきをした瞬間、そこに鳥の姿はもうなかった。その代わりに、壁に背中を寄せて腕を組み、うつむいて眠っている鷹水さんがいただけだ。

 昨日、カガミちゃんの部屋から見えた鳥も、やっぱり鷹水さんだったのかもしれない。


 ――魔物。


 リョーちゃんに魔物だと言われても、人じゃないと衣心に言われても、正直ピンとこなかった。だけど、坂道が延ばされたり、いまみたいに鳥の姿を目にしてしまうと、信じるしかなくなってくる。

 なんでわたしは地獄に行ったんだろ。そこでどうして、どうやって鷹水さんに会ったんだろ。

 鷹水さんはどうして賭けをしてるんだろ。その賭けは、誰としてるんだろう。

 しかも、賭けているのはわたしとわたしの記憶だなんて、いったいなにがどうなってんの?

 起き上がって、そろそろと鷹水さんに近づく。すると、気配を察したらしい鷹水さんがまぶたを開けた。

「なんだ、起きたのか。くしゃみはまだ出んのか?」

「い、いや。大丈夫す。鼻水も止まったし。寝かせてくれて、ありがとう。ってか、あのさ」

 鳥を見たと言うと、鷹水さんは暗がりの中、ただ静かに言った。

「……寝ろ。熱もなさそうだし、もういいな」

 腰を上げて障子を開け、廊下へ出るとパタンと閉めた。鷹水さんのいた場所に、白い鳥の羽が落ちている。

 ほら、やっぱりそうだ。あの鳥も鷹水さんの姿なんだ。そう思いながら羽をつまむ。

 つまんだ瞬間、羽はふわりと儚く消え、暗闇にとけていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る