其ノ12 恋に落ちるのは案外早い

 みんなが住んでいる家は、雨市のものだと判明した。

 そこに三人で住んでいるのだと、竹蔵が教えてくれる。だけど竹蔵自身はほとんど帰っていないらしい。その理由は訊かなくてもわかる。リリィさんのいたエリアに出没しているからだ。

「けど、べつにアタシだけじゃない。雨市だってあっちこっちに、出入りするとこがあんだよ。アタシの知らないとこで、テキトーに遊んでんのさ」

 セツさんが彼女ではないとわかったいま、無数に遊び相手がいるらしい雨市に、寿司をお土産にしたのは間違いだった気がしてきた。

 ……うーん。なーんか、もやっとするなあ。

 竹蔵が扉を開ける。誰もいないのか廊下は真っ暗だ。玄関に入ったとたん、台所の引き戸が開いて、ランプを持ったハシさんがにゅうっと顔を出し、手招きする。とたんに竹蔵はため息をついた。

「……またかい」

 なにが? ハシさんは口に指をあて、台所に招く。竹蔵と入ると、すぐさま引き戸を閉めたハシさんは、わたしを見て「おや」と微笑んだ。

「ほう! よいですなあ、椿さん。とってもお似合いでございます。もだんがーる、ですなあ」

 そうか、やっぱリリィさんの「モダン」方向は、間違ってないってことなんだな。おっぱい丸見えだったけど、センスはいいみたいだ。マダム・リリィ、奥深い大人女子だ。

「いるんだろ?」

 竹蔵の問いに、ハシさんは表情をいっきに暗くし、ふう、と額に手をあてた。

「いらっしゃいます」

「いるって、雨市氏?」

 いやー、敬称を〝氏〟にしてよかった。尊敬してるわけじゃないけど、マジでしっくりきてる。

 わたしが訊くと、ハシさんはうなずいた。すると、竹蔵は首をまわす。クキッと小さく、骨が鳴った。

「面倒くさい男だねえ。怒ってんだろ?」

「そのようでございます。しかし、わたくしは正しくお伝えいたしました。セツさんを椿さんが助け、竹蔵さんがどこぞへ連れて行った、と。雨市さんはセツさんを送って戻られてから、めっきり黙り込みまして、明かりもつけずに居間にこもっておいでです」

「なんで怒ってんの? あ、そっか。セツさんが危ない目にあったからだ」

「まあ、それもあるんだろうが。……ああ、面倒だ」

 竹蔵が、引き戸に手をかける。お寿司をハシさんに渡したら、月を見ながら裏庭で食べますと告げ、喜んで去ってしまった。しかし、雨市の怒っている理由が気になる。っていうか、なぜ怒る?

「アタシがあんたに、ちょっかいかけてると思ってんのさ。まあ、ちょっかいはかけてるけどね。……どうだい、楽しかっただろ?」

 べつに〝ちょっかいかけられた〟なんて思っていないし、素直に楽しかった。

 竹蔵はわたしをイジメてこない男子だし(ハシさんもだけど)、いろいろとびっくりもさせられたけど、思い返せばフツーに優しくしてもらった気がする。

 それに、お寿司まで食べさせてくれたのだ。まるで気さくな、親戚のおじさんみたいに(そこまでの年じゃないけど)。

「いやあもう、楽しかったですよ、本気で!」

 大きくうなずく。居間のドアを開けた竹蔵の背後から、背伸びして中をのぞけば誰もいない? いや、いた! 雨市は奥の机の前に座って、窓から射す月明りに顔を向けたまま、袖に両手を突っ込み煙草を吸っていた。

「ほれ、寿司だよ。あんたに食わせたいんだとさ、椿が」

 竹蔵が寿司をテーブルに置いた。そうしてからランプに手を伸ばそうとした矢先。

「点けるな」

 窓を向いたまま、雨市が言った。わたしを振り返った竹蔵の顔は、ほら見たことかといわんばかりにげんなりしていた。

 すうっと煙を吐いた雨市は、灰皿に吸い殻を落そうとして、つ、とこちらに顔を向けた。

「……ランプ点けろ」

 点けるのか、点けないのか、言動が迷いまくりだ。竹蔵はやれやれとつぶやき、ランプを灯す。雨市はわたしを見たまま、完璧にフリーズした。

「……おい、なんだそりゃ」

「わけがあんだよ」

 竹蔵が言うやいなや、雨市が椅子から立った。ずかずかと大股で歩いて来ると、わたしの前に立って、つま先から頭のてっぺんまで視線を動かす。

「……地味にしてろって、言ったはずだぜ?」

 そのとおり、言われたぜ?

「いや、わたしはなにがどうでも、どんな恰好でもいんだけど」

「大柳の西崎が、セッちゃんを助ける椿のこと見てたんだよ。ずうっと、ねちっこくさ」

 ああ? と雨市の顔がこわばる。

「興味持っちまったんだろ。男に殴りかかる娘なんて、面白すぎるからね。顔を覚えられちまったかどうかは、わからないけどさ、あんな丈の着物じゃあ、逆に目立っちまうよ。だったら最初っから、似合ってる恰好させときゃいいだろ。西崎の車が長いことくっついてたから、マダム・リリィの宿に行って、この恰好にしてもらったんだ。そのあとは車の気配はないよ。アタシがつばつけてる馴染みの娘だとでも思ってたら、いいんだけどね。……けど、どうだか」

 雨市はうつむいた。腕を組んで袖に手を入れ、ぐるりと背を向ける。無言の静けさが不気味すぎる。竹蔵を見ると目が合った。呆れ顔の竹蔵は口だけ動かして「怒ってんだよ」と苦笑した。

「いや、なにもそんな怒らなくて」

 も、言うつもりが、

「黙ってろ!」

 ……叫ばれてエンド、だ。

「……わかってねえな。まったく、なんにも、わかってねえ……!」

 誰に向けてのセリフなのか。いや、なんとなくだけど、わたしの気はする。であればそれは正しい。だって、ホントになんにもわかんないんだもの。

「ほんとに西崎か?」

 雨市が竹蔵を振り返った。そうだよ、と竹蔵が答えると、雨市はぐしゃりと自分の髪をつかんで、舌打ちした。

「なんつー……。面倒くせえなあ!」

「ここにいるってバレなきゃいいさ」

「ああ、そうだな。バレなきゃいいな。けどよ、バレたらどうすんだ、あいつはスッポンだぞ!?」

「ちょっと、待った! べつにわたしに興味持ったとか、そういうのは本人にしかわかんないんじゃ」

「黙ってろ!」

 わたしを睨んで、雨市は叫んだ。なにをそんなに怒ってるんですかってハナシですよ。ちゃんと落ち着いて説明してくれないと、なんにもわかんないじゃん!

 ダメだ……イライラしてきた。だけど、いちいち腹を立てていたら、そのストレスで神経痛以外に、胃炎とかになるかもしれない。よし、ほかのことを考えよう。例えば、さっきまで食べてたお寿司……と、まぶたを閉じて逃避していたら、

「じゃあ、アタシの本気のオンナってことに、しときゃあいい」

 竹蔵の爆弾発言に、銀色に輝くサバの脳内画像が、いっきに破壊された。

「え?」

「嘘でいいさ。そしたら手出しはしないだろ」

 ああ、まあ、嘘でいいならなんでもいいよ。いや、いいのか? わけがわからなくなってきたところで、ぐるんと身体ごと振り返った雨市は、竹蔵の間近に立った。

「……そうか、本気か、そいつはいいな。じゃああれだ、おまえはもう、娼窟にもほかの女のところにも出入りできねえな。相手は西崎だ、どこで見てるかわかったもんじゃねえ。ただの遊び相手だと見切られたら、あの野郎はすぐにこいつに食いついてくるぜ。しかもこいつは、娑婆の生きてる人間だ!」

 わたしを指して、雨市が怒鳴る。しかし、その西崎って人が心底わからない。しつこいって、もうどんだけ……。

「そりゃ悪かったね。いまの提案は忘れとくれ、出入りは続けたい」

 きっぱりとした態度で、竹蔵は雨市の意見をつっぱねた。うん、そうだろう。

 雨市の表情が、どんどんと険悪になっていく。そのうちに、居間をぐるぐると歩きはじめて、しばらくしてからピタリと足を止めた。

「……よし、わかった。じゃあ、こうするしかねえな。おい」

 肩越しに振り返って、ギロッとわたしを睨みすえた。

「椿。どうせ一緒に暮らしてるんだ、おまえは今日から、俺の女だ」

「あ?」

 いまのは空耳か!?

「い、いま、なんですと!?」

 落ち着こう。今日は一日、わたしはおかしくなっていた。だからこれも空耳で、冷静になれば、正しい言葉をキャッチできるはずだ。まぶたを閉じて、直立したまま固まっていたら、ちゃかすような竹蔵の声音が居間にひびく。

「おや? じゃあもう、女房も同然だよ、雨市。ここはあんたの家だし、あんたの女が同居してるなら、そいつは女房ってことじゃないか」

 待て。

「ああ、もう、なんだっていいぜ、あの野郎を突っ返せるんならよ! そうだな、いっそのこと、そうしときゃいい!」

 売り言葉に買い言葉なのか。てんぱってわけがわからなくなっているのか、まるで逆ギレしたみたいに、雨市は声を荒らげた。

「椿、おまえは今日から俺の女房だ。いいな!」

 待つんだ。

「じゃあ、あんたも女と手を切らなくちゃいけないよ」

 ちょっと、キミタチ、落ち着け!

「山ほどいるんだ、面倒くせえ。ほっときゃ勝手に、向こうが俺のツラ忘れるさ!」

 山ほどいるんだ。いや、いまはそんなことどうでもいい。

 はああああ、と長く深いため息をついて、顔を撫でた雨市は、そうしたあとで自分の髪をかきまぜる。

「いいな、椿。こいつは嘘だ。嘘でいいから、俺の女房になっとけ!」

 な・ぜ・だ! ていうか!

「はい、はい! 山内さんから意見があります!」

 わたしの意見を聞いてもらえないので、思いきり右手を上げて自己主張してみた。雨市はさも面倒そうに息をつく。

「なんだよ」

「いや、なんでわたしがあんたと、夫婦みたくなんなくちゃいけないんですか、ていうハナシですよ!」

「西崎が面倒くせえからだ。おい、忘れっちまったか? おまえを連れて来たのは俺だけどよ、協力しろってあんとき言ったよな? 黙って言うとおりにしとけ!」

 なんだそれ!

「いや、取り引き的なことは覚えてるけど、てか、違くて、そーじゃなくてさ。その西崎っていう人が、べつにわたしに興味持ったって、決まってるわけじゃ」

 言い終えないうちに、竹蔵にさえぎられる。

「持ってるさ。アタシにはわかるんだよ」

 わたしはテーブルに手をついて、うなだれたまま身体を支えた。そうしないと昨日みたいに倒れそうだったから。

「えーと……で? わたしと雨市氏が」

「おい、待て。その〝氏〟ってな、なんだ?」

 お気に召してないのか。

「ああ、いや、なんか呼び捨てとかできないからさ。ていっても、〝さん〟とかもつけたくなくて、ちょうどいいなあと」

 椅子を引いた雨市は、ふたたび腰を下ろす。テーブルに肘をつき、疲労感をただよわせながら額に手を添えてうつむいた。

「……ああ、もう、好きに呼べ。で? なんか言いかけたな。なんだ?」

 ごめん、忘れた。てか、もっすごい疲れた。すると、竹蔵はわたしを見て笑った。

「椿と雨市が、夫婦じゃあ、西崎は手出ししないさ。とは言っても、一回くらいは訪ねてくるだろうよ。そしてアタシは気楽な立場」

 居間のドアに向かって、竹蔵が歩く。

「気楽な立場?」

「女遊びもできる。こっそり椿とも遊べる。しかも椿はあんたの女房だ。よそさまの女に手を出すなんて、楽しいじゃあないか。いいねえ」

 振り返りざまにいい放ち、ドアを閉めていなくなった。

「え」

 それは不倫……いや、遊べるって、そういう意味じゃないはずだ。ときどき一緒に、お寿司食べたりするってことだろう、そうだろう。つか、ええーいなんかもう、ややこしいから!

「本気にすんな。けど、気ぃつけろ」

 どっちだ! 気をつければいいのか、笑ってスルーすればいいのか、どっちなのかはっきりしてくれ。頼むよもう……。

 いっきに静まった居間で、テーブルに手をついたまま、わたしは顔を上げられない。上げないまま、念のために、訊いてみた。

「……めおと、的な方向ですか……?」

「……ああ、そうだ。そうしとけ」

「なんか、手続き的なもの、って言うのは……?」

「んなもん、いらねえ」

 なる、ほど。納得いかないけど、カタチだけってことみたいだから、まあいいか。いや、いいのか?

「それ以外の、方法っていうのは……?」

「ねえな」

 ないんだ。

 ……父さん。わたし、地獄の入り口みたいなとこで、死んだメンズと結婚しました。カタチだけだけど。 

 まあ、いい。深く考えないようにしよう。わたしは長いモノに巻かれると、腹をくくったんだ。とりあえず寝よう。

「……寝ます」

 宣言して居間を出ようとしたときだ。

「おい」

 呼び止められた。振り返ったら、雨市はむすっとした顔でわたしを見ていて、だらしなく頬杖をついている。

「……まあ、あれだ」

 はあ、と息をつく。

「ともかくよ。面倒かけてすまなかったな。礼を言うぜ。セツを助けてくれて、ありがとな。寿司も食わせてもらう。それから」

 言葉をきると、ちょっとだけにやっとした。

「着物が似合わねえって言って、悪かったな。いいじゃねえか、それ」

 あごをしゃくる。

「それ、てどれ? これ?」

 自分の着物を見下ろしたら、雨市は小さな声ではっきり告げた。

「おう、それだ。似合ってるぞ」

 ……マズい。なんでなのか知りたくないけど、すっごい嬉しいと、思ってる人がいる。

 信じたくないけど、それは、わ・た・し・だ!

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