其ノ10 ここは幻の帝都東京

「少々早い時間ですが、お散歩がてら銭湯へ行きましょうか」

 そう言ったハシさんは、物置らしき階段下から手ぬぐいを二枚出し、一枚をわたしに差し出した。

 ハシさんは首に手ぬぐいを下げた。わたしは袖の中へ突っ込む。袖の中になんでも入れたい気持ちがなんとなくわかる。うん、これは大きなポケットだ。

 居間のドアをハシさんが開けと、雨市とセツさんが楽しげに談笑していた。セツさんの身長は、雨市の胸のあたりまでしかない。仲睦まじくてとってもお似合いだ。

「椿さんを、銭湯にお連れいたします」

 ハシさんが言うと、雨市はわたしを見て苦笑した。

「おう。……にしても椿。ちょっと前に出て見せろ」

 なにさ。しかめ面で前に出ると、雨市は顔をくしゃりとさせて笑った。

「……デカいからなあ。着物の似合わねえ娘を、はじめて見たぜ。丈がくるぶしの上にきちまってるし、帯んとこの折り返しもギリギリだ。まあ、しょうがねえか。行って来い」 

 野良犬を追い払うかのごとく手を揺らす。いちいち、なんかイラッとくるなあ。だってさ、べつにどうでもいいじゃん。ていうか、わざわざ面と向かってわたしに言うことなの、それ?

 ムカつく、マジでムカつく!

 肩を怒らせ、大股で玄関に向かう。玄関の引き戸を音を鳴らして閉めたら、ハシさんがビクッとした。

「ど、どういたしました?」

「どうもいたしません、ですよ!」

 あれ、だけどさ。なんでわたし、こんなに怒ってんの?




 ♨ ♨ ♨



 やめよう、怒れば怒るほど、神経痛が痛む(という法則にいま、気づいた)。てか、なんでこんなに頭にきてるんだろう。ホント、くだらないからやめようっと!

 大きく深呼吸をする。そうしていると落ち着いてきた。

 瓦屋根が連なる狭い路地を歩きながら、ズボンのポケットに両手を入れたハシさんのうしろについて行く。そうして歩いていると、やがて大きな通りに出た。

「……え。えええええ!?」

 驚いた。

 目の前を、レトロなおもむきの路面電車が走り、着物姿、洋服姿、背中に風呂敷を背負った老若男女が、それは楽しげに行き交っていた。そこに〝地獄の入り口〟的な暗さはいっさいない。

 普通、なのだ。なんでか普通。なんだかタイムスリップして、明治か大正か昭和初期の都会に、放り出されたみたいな感覚に陥ってきた。

 でも、タイムスリップじゃないのはあきらかだ。だって、さっきハシさんが言ったような奇妙な部分に、すぐに気づいたから。

 せいぜいが二階建ての、瓦屋根の建物ばかりだけど、それはいい。広い通りをはさんだ向こう側には、さまざまな看板をかかげた商店やら酒屋やらが、ずらりと並んでいるのもおかしくはない。その背後には、昨夜見てしまった丸屋根の、赤いレンガ造りの建物があるのも、そういうものなんだろうと思える。

 だけど、だ。さらにそのずうっと向こうにあるものが、おかしい!

「……えーとう。すんません、ハシさん。わたしには大きな富士山が、見えているのですけれども……?」

 はかない水彩画のごとくそびえて浮かぶ山を、指でしめす。横に並んだハシさんは、朗らかにほほほと笑った。

「さようでございます。距離感がとてつもなくおかしいのです。ここからあんなに間近に見えることなど、現実の世界ではありえません。奇妙でございましょう?」

 古い海外の映画にありそうな、なんか間違っちゃった日本、みたいな景色になってる。

「すぐそこにあるような距離感。実際には、あれほど大きく見えるはずはないのですが、ここにはございます。そして、誰も不思議に思わない。思わないのは、この場で生きていると思い込んでおるからでしょうなあ。もっとも、死んでいると気づいている者には、たいそう奇妙に映ります。あれも幻想、執着の一種。日本人であるから、ということなのかもしれません」

 ……はあ。

 路面電車の横を走る自転車、それに、人力車。おまけに、車高のある黒塗りのオープンカー? みたいな車まで、のろのろと走っていた。へええ、車とかあったんだ。びっくり。

 銭湯に行く道すがら、通りを渡ってお店を眺める。おいしそうな和菓子の匂いに、よろよろと引き寄せられたら、ハシさんがふくふくとしたおまんじゅうを買ってくれた。

 お店の手前のベンチに腰を下ろして、ふと気づく。ハシさんは小銭を出したきり、ずっとポケットの中に両手を入れているのだ。

 もしかして、スリらないための防御系努力なのか。

「……それ、スリらないため、ですか?」

 ハシさんは哀しげに、眉を八の字にした。

「そのとおりでございます。うっかりやってしまうのです。三つ子の魂なんとやらでして」

 子どものころからスリってた、ってこと? 

 突っ込もうとして口を開けたとき、見覚えのある女子が路地から姿を見せた。両目の視力が二・○のわたしの視界に、ひとりで歩くセツさんがくっきりと映る。

 小さな巾着を両手に持って、うつむきがちに歩く姿は、遠目で見てもやっぱりかわいすぎる。雨市がデレてもしょうがないよなあ……って、うっ。またもや神経痛が(いまは怒ってないのに、なぜ?)!

 あんぐりと口を開け、残りのまんじゅうを押し込んだ直後。雰囲気のあんまりよろしくない着物姿の男子二名が、セツさんとすれ違う。と、スキンヘッドの男子が、うつむいて歩くセツさんにわざとっぽくぶつかった?

「ん?」

 甘いあんこをごっくんと飲み込む。

「……ハシさん。なんかセツさんが、おかしげな男に囲まれている気がします」

 ハシさんはぐぐっと目を細めた。

「そ、のようでございますか? いかんせんわたくし、目が悪いものでして」

 小さなセツさんが、この時代のヤンキーみたいな男子の影に隠れて見えなくなった。世間の世知辛さは時代共通なのか、誰もがその場を避けるように通って行く。

 セツさんの姿がまったく見えない。もしかして、なにか因縁でもつけられてるのかも!

 そう思うやいなや、わたしは走りづらい下駄を脱ぐ。着物の裾を膝のあたりでぎゅうっとしばり、手ぬぐいを右の拳に巻き付けた。

「やっぱそうだ。ええい、許すまじ〜!」

 叫んで通りを駆け出す。わたしの名前を呼ぶハシさんの声を背中で受け止めつつ、足袋で走る。かわいらしい女子に因縁をつけるとは、なんたることか! いっそわたしにつけろって!

 そもそもボクシングは、一般の人に拳を向けるためのものではない。それはリングの上でのみ許されるファイティングだ。だがしかし、いまだけ自分に許す!

 路面電車のレールを超えると、のろのろ走る車に轢かれそうになった。うおおおっと、危っなー。

「スンマセン!」

 片手を上げ、また走る。通りを渡りきったのと同時に、スキンヘッド男子の襟首を握り締め、ぐいっと引っ張る。振り返った男子の顔つきは、絵に描いたようなイケてなさだった。なんという、よろしくない顔つき。人は見た目じゃないかもだけど、こいつは面白いほどに悪役の顔つきだ。

 セツさんはその場にしゃがみこんで、ふるふると震えていた。顔を上げると消え入るような声でつぶやく。

「……つ、椿さん?」

「なあんだてめえは、でけえ娘だな。ちょこっと相手を探してただけだ、邪魔すんじゃねえ!」

 スキンヘッドが、わたしの手を振り払った。その腕の付け根を、とっさにかまえた拳の左手でどつく。一歩退いたスキンヘッドのあごをめがけて、力いっぱいの右ストレートをかましてやった。

 スキンヘッドが地面に倒れた。般若の形相になったもうひとりが、めちゃくちゃなかまえで向かって来る。それをサンドバッグに見立て、本日の軽いトレーニングとすることにした。

 よける。体勢を低める。

「蜂のように……」

 よし、すきあり!

「刺す!」

 気持ちよくストレートが決まったときほど、血流の美しい流れを感じることはない。ありがとう……サンドバッグになってくれて。正直、すごく、求めてたよ。

 地面に倒れた二人は、起き上がろうとしつつうめきながら、わたしに毒づいた。はいはい、クサレ男子の声は右から左ですよ。好きに言ってください!

 はっと気づくと、まわりに人だかりができている。息をきらしたハシさんが駆け寄って、下駄を渡してくれた。礼を言って下駄を履き、セツさんのそばにしゃがんだ直後、どこからともなく高らかな笑い声が聞こえた。笑い声……てか、爆笑だ。すると、ハシさんが目を丸くした。

「……この声は。なんと、珍しい。笑っておられる」

 なんだ? 声をたどって顔を向けると、ふいに爆笑がとぎれる。

「どきな、邪魔だよ。見せもんじゃないんだ、さっさと行きな!」

 しっしっ、と手を揺らす、ど派手な着物の……いまいちよくわからない美女、ではなくて竹蔵が、人だかりの中からあらわれた。爆笑の主はどうやら竹蔵だったみたいだ。

 流し目をわたしに送ってから、竹蔵はのされた男子をキッをにらみすえる。しかし今日も、派手だ!

「くっだらないことしてんじゃないよ。女が欲しけりゃ、まずは自分磨くんだね、鏡を見てから、おととい来やがれ!」

 ドスのきいた声で叫ぶ。ぎょっとしたイケてないヤンキーは、〝覚えてやがれ〟などと超ベタな捨てゼリフを吐き、去って行った。まったく、竹蔵のいうとおりだ。

「ぶ、ぶつかられて、あやまったのですけれども通してくれず、どこへ行くんだ、名前を教えろと言われてしまって。おそろしくて……」

 小さな声で、小さなセツさんが言った。

「あ、あ、ありがとうございます。助かりました」

「ああ、まあ、いいんす」

 手ぬぐいを巻いただけだから、手がちょと痛いけど。でもかなりすっきりした。

「ちょうどいい、サンドバッグになったなーっていうか」

「さんぞう?」とハシさん。

 いや、それ「さ・ん」しか、かぶってないです。

 ハシさんに抱えられながら、セツさんが腰を上げる。着物の裾が汚れていた。とたんになんだか、泣きたくなってしまった。こんなにかわいらしいセツさんの、こんなにかわいらしい着物の裾が、あやつらのせいで汚されたなんて……マジで許せん!

「セツさん、雨市、さんに、送ってもらわないと!」

 しゃがんだわたしは、セツさんの着物の裾をほろいながら言った。セツさんは何度も、すみませんとわたしに言う。

「セツさんはひとりで出歩いたらダメだよ。なんかもう、そんな気がする。彼氏がいるんだから、送り迎えしてもらいなよ」

「……え。かれ、し?」

 セツさんに訊かれた。ああ、この時代的には、彼氏っていう単語は使用不可みたいだ。

「あー……っと、その、恋人って言うか。そういうのだよ。雨市さんがそーでしょ?」

 ぽかんとした顔で、わたしを見下ろしたセツさんは、いきなりふふふと笑いはじめた。あれ、いまわたし、ウケること言った?

「いやあね、椿さん。うーさんはわたくしの兄です」

 え……えっ!?

「ええ?……い、いや、でも、うーさんて」

「兄さんと呼ばれるのが照れくさいって嫌がるので、呼び捨てにするわけにもいきませんから、それで、うーさん、に落ち着いたのです」

 にしても、雨市とセツさんって似ていない。似ていないと思っているわたしを察してか、セツさんはにっこりして続けた。

「父は違いますが、母は同じなのですよ。でも、そんなふうに思われていただなんて、もっと早くに伝えたらよかったわ。てっきり知っているものだとばかり、思っておりましたから」

 なあんだ、そっか、ほっとした……って、待って! おおーい! なんでそれが〝ほっとした〟になるのさ!

 落ち着こう、落ち着け。わたしは神経痛になって、おかしくなっているだけだ。なにしろこんなにおかしな目に、あってるんだから。

「セツさん、いったん家に戻りましょう。椿さんの言うとおり、雨市さんに送ってもらったほうがよろしいです」

 ハシさんとセツさんが背中を向ける。わたしもついて行こうとしたときだ。

「ちょい待ち」

 竹蔵に袖を引っ張られた。ハシさんとセツさんが振り返る。

「え、なんすか?」

 竹蔵がにやっとする。

「ハシさん、この娘ちょいと借りるよ。雨市に言っとけ」

 はあ? と困惑するハシさんを華麗にスルーし、くるりんと反対方向を向いた竹蔵は、わたしの袖を強く引っ張ったまま、通りを歩きはじめてしまった。

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと、なんすか?」

「いいから黙ってついて来な。なんだいその着物。柄は悪かないけど、地味だし、バカみたいな丈じゃないか。似合ってないよ。へんてこだねえ」

「ああ、いや。地味なほうがいいだろうっていう提案が、ごく一部からあって」

 け、と竹蔵が鼻で笑う。

「提案したのは雨市だろ」

「は、はあ。そうです」

 竹蔵、いまいち存在が謎なので、どう対応したらいいのかさっぱりわからない。あ、そうだった!

「ちょっと、ストップ! 止って、止って!」

「なんだい」

 眉根を寄せて、竹蔵が立ち止まった。

「キャバクラ……じゃなくて、ゆーかくとかいうとこにわたしを売っても、おっさんの相手はつとまらないと思います!」

 きっぱりと告げる。一瞬フリーズした竹蔵は、次の瞬間声を上げて笑った。

「……おっかしな娘だね。あんな冗談、気にしてたのかい? 売りゃしないよ」

 ああ、なんだ、ほっとした。この場合の〝ほっとした〟は、間違いなく正しい。

 竹蔵が、帯から煙管を引っこ抜く。その先でわたしの髪を持ち上げながら、髭なんて生えそうもなさそうなつるつるとした肌の美顔を、ぐっと近づけた。

「あんたの髪型も、着物も、すっかり見られっちまってたんだよ」

「見られる、て、誰に……ですかね?」

 竹蔵の目が、キリリと細められる。その視線は、わたしの背後にそそがれていた。振り返ろうとしたら、振り返るなと耳打ちされる。

「大柳、っていう名前を背負ってるやつらがいんのさ。雨市の天敵で少々やっかいでね。そこのキレもんの男が、車から暴れるあんたをずっと見てたんだよ。いまも見てる。たぶん、あんたに興味を持ったんだ」

「はあ……。それは、マズい感じ、なんですかね?」

「マズいだろうね。そいつに好かれたら、そりゃあもう、しつっこいのなんの。嫌だろ?」

 わけがわからないけど、しつっこいのは、もちろん嫌だ! なので、思いきりうなずく。

「顔を覚えられたかどうかは、知らないけどさ、とりあえず全身の印象を、変えたほうがいいだろうね。かといって、これ以上地味になりようもない。であればいっそ」

 顔を離して、唇を弓なりにする。

「い、っそ?」

 訊けば、竹蔵が答えた。

「いっそ、自分にちゃあんと似合った恰好をしたほうがいいってことさ。花の命は短いんだよ、もったいない。それに、アタシはあんたがホントに気に入ったよ。いい娘だ。たっぷりかわいがってやるから、ずべこべいわずに来な!」

 よし! やっぱいますぐまわれ右して、帰ります!

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