7 あなたがいた世界
7-1
足元が桜の花の残骸で埋め尽くされるようになり、堀北と初めて会話したのが一年前のこのくらいの季節だったと思い出した。
図書室の一番奥の窓側の席は、受験を控えた知らない同級生が代わる代わる座るようになっていた。
牧原は最後の大会に向けて、より一層部活に打ち込んでいた。時折廊下で会うことがあっても、挨拶程度ですれ違う。お互いこの世にいない人を思い出してしまうからだろう。
栞も読書ばかりの生活ではなくなり、図書室で受験勉強するようになっていた。時は無情にも、残された者が立ち止まることを許してはくれない。
やることが読書から勉強に変わっただけで大した変化はなく、栞自身も何か大きく変わった自覚はない。ただ、何をしても満たされないという感覚が常に腹の下辺りをうごめくぐらいだ。
図書室の扉が開き、視線を感じて顔を上げると、堀北のいたクラスの担任である木下が手招きしていた。
開いていたノートと参考書を閉じ、栞は図書室を出た。廊下で壁にもたれかかっていた木下は、悪いなと言ってそのまま歩き出した。行き先は生物準備室であることはいつものことだ。
後ろ手で扉を閉め、空いている椅子に座ると、木下は紙カップに入ったコーヒーを栞に渡した。
「最近、どうだ?」
「変わりないですよ。読書が勉強に変わりましたけど、図書室に行って、帰って、夕飯を作って、寝る。本当に……何も変わってません」
栞の変わっていない、という言葉を聞いた木下は苦しそうな顔をした。栞は、堀北が生きている時から変われていない。
「俺の独り言をそこで聞いていてくれないか。独り言のくせに、誰かがいないと声に出しづらいんだ」
栞は無言で木下を肯定した。
「堀北を担任に持ったのは二年からだったが、初めから気になっていたよ。突然野球部を辞めたかと思えば、別に人間性に問題があるわけではない。少し変わってると言えば変わっているが、明るくて、前向きで、生きる活力に溢れている生徒だった」
木下は手に持ったマグカップの液面が揺れるのを見つめていた。
「少しして、あいつが自分から病気の話をしてくれた。その頃は容態は安定していたのに、なぜ話したのかと訊くと、なんとなくって言ったんだ。あいつは、自分の命の灯が、この先長くはもたないことを潜在的にわかっていたのかもしれないな。灯滅せんとして光り増す、ってのが俺にはわかってなかったんだ。わかってれば、もっと何かしてやれたのかもしれないって、思う必要がないことも、思っても仕方がないとわかっていても、考えちまうんだよな」
「先生は、生物の先生なのに、国語の先生みたいなことを言いますね」
「大人の常識だよ、これくらい」
木下は立ち上がり、窓から校庭を眺めた。
「じゃあ生物の先生らしいことを言おうか。トマトには青枯れ病という病気がある。この病気にかかったトマトはしわしわに枯れてしまうが、一度だけ青々しく、元気な姿を取り戻すんだ。しかし数日後、一気に枯れ果てる。そんな恐ろしい病気がある」
「植物にも病気があるんですね」
「生き物には必ずあるさ。病気にかかっても、誰も責めることはできない。運がなかったと言う他ないんだ」
運がなかった、そう思うしかないことはわかっていても、そんな言葉で片付けたくないという思いも湧き上がる。
「先生、私は未だにわからないことがあるんです」
「なんだ?」
「明るくて前向きで、友達もたくさんいる彼が、地味で現実逃避しているような私に、どうして声をかけたのかということです。同情なのか、好奇心なのか、一人の人を放っておけないにしては、彼は私にとって大きな存在になるほど関わっていたと思うんです」
木下は腕を組み、天井を見上げた。人が考える時の仕草が、上にいる誰かを探すようにも見えた。
「残された者にはわかりようがないよな。だが、私たちに許されているのは、思い込むということだ」
「それで、いいんでしょうか? 事実から、現実から目を背けることにはなりませんか?」
「もう一つ、生物教師らしい話をしよう。こんな実験がある。チンパンジーに一瞬だけ画面に表示される数字を一から順に押させるという実験だ。当然人間には真似できない芸当だ。この結果に対して研究者は、チンパンジーはただ目の前にあるものを指差しているだけで難しいことではないと言う。人間は生物の中で最も大脳が発達している。そのおかげで、過去の出来事を思い出したり、未来に希望を抱いたりできる。現実を生きていながら、現実から離れている時間が多いんだ」
「つまり、現実から目を逸らすことはそんなに悪いことではないということですか?」
「いや、目を逸らしても良いと言っているわけではないな。ただ、現実から離れることができるからこそ、人は絶望もできるし、希望も持てるってことだ。過去の出来事を大切に心に仕舞っておけるのも、人間だけだ」
木下にとって、堀北は過去の人になっている。栞は、未だに堀北を過去の人にはできていない気がしている。
「無理に受け入れろとは言わない。生き物には等しく時間が流れる。時間は『慣れ』を与えてくれる。時が解決してくれることも往々にしてあるさ。良くも悪くもな」
良くも悪くも、という言葉が栞には重く響いた。堀北を良い形でも悪い形でも受け入れられる、それを決めるのは栞次第だということだ。
「あんまり勉強ばっかりもつまらないだろう。俺で良ければ話し相手にもなるし、ここで本を読んでいたって良い」
「ありがとうございます」
栞は木下の気遣いに感謝して、生物準備室を後にした。暗くなり始めた空に合わせて校舎に電気がつき始めた。人気が少ない廊下を歩き、図書室の扉に手を掛けて立ち止まる。一呼吸置いてから扉を開き、奥の席を確認する。毎日確認してわかっているはずなのに、栞の目は未だに堀北を探している。
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