5-2

栞がやってきたのは以前父とぶつかった日にあてもなく歩いてたどり着いた喫茶店だ。その時はよく見ていなかったが、『喫茶ドロシー』という店らしい。


店の扉を開けると、店内には栞の他に仲の良さそうな老夫婦しかいなかった。


「いらっしゃい……あら? この前の、えっと、栞ちゃん?」


「はい。あの、一人なんですけどいいですか?」


「もちろんよ。若い子は大歓迎。座って座って」


栞が座るとどこから綺麗な毛並みをした黒猫が出てきて大きく伸びをした。黒猫は左右の色が違う瞳で栞を見上げ、にゃあと一回鳴いた。


「ここで飼ってるんですか?」


「うーん、勝手に出入りしてる感じかな? ご飯はあげるけど。ノワールっていうオス猫」


「ノワールくん」


栞が手を出すと、ノワールは匂いを嗅いでからぴょんと栞の膝に跳び乗り、そのまま丸くなった。


「かわいい……」


「そいつ若い女の子が好きなのよ。特に栞ちゃんみたいな大きな声を出さない子」


栞は膝の上の愛らしい生き物をでながら、メニューにないチャイは作れるかと訊くと、店主のカレンは快く引き受けてくれた。


「はいどうぞ」


てっきりコーヒーと同じようにカップで出されるかと思ったが、目の前に出てきたのは持ち手のない赤茶色の土製のカップだった。


「インドだとね、こうやってチャイが街の至る所で売られてるのよ。雰囲気だけでも味わってもらいたくて」


「いただきます」


一口飲むと、華やかなシナモンの香りが広がり、舌の上にはジンジャーのピリッとした辛さ、後からこの前教えてもらったカルダモンというスパイスが際立つ。


飲んでいて気づいたのは、普通のマグカップでは注がれた飲み物で口をつけるところの温度が変化するが、土でできたカップはいつまでも土本来の温かみが楽しめた。


「それで、今日はどうしたの?」


チャイに夢中になっている栞にカレンが洗い物をしながら尋ねる。


「相談なんですけど、好き、という感情がよくわからなくて。あ、恋愛的な意味です」


「恋バナだとは思ったけど哲学的ね」


カレンは洗い物の手を止めて向き直った。


「本をよく読むので恋愛というものは知ってます。でも登場人物のように苦しんだり、喜んだり、泣いたり、そういうのがよくわからないんです。私が彼に抱いている感情はなんなのかわからないんです」


「なるほどねぇ」


カレンは正面から栞をじっと観察している。


「えっと、なにか?」


「あ、ごめんごめん。そうねぇ、簡単に言うとあれ」


カレンが指を差した方には老夫婦がコーヒーを飲んでいる。


「あーでもあれは恋というより愛かぁ。じゃあその人が自分のこと好きだったら嬉しい?」


「いや、多分それはないと思います」


「あるかないかじゃなくて、栞ちゃんが嬉しいか嬉しくないか」


「それは……」


人から好意を向けられたことがない栞はそれが嬉しいことなのかわからなかった。堀北はごく普通の高校生だから、栞のような地味で暗い人を好きなることは考えられない。


「嬉しいかどうかはわかりません。でも、人から好意をもってもらえることは、幸せなことだと思います」


「なーんか高校生と喋ってる気がしないね」


カレンはなぜか嬉しそうに笑っている。


「じゃあ今、彼に会いたい?」


「はい」


「彼の声が聞きたい?」


「そうですね」


「これからも彼と一緒に出掛けたり、話したりしていきたい?」


「はい」


「うん。じゃあもう栞ちゃんはその子のこと好きってことで」


カレンはそう言うと仕事を再開した。


「えっと、結局よくわからなかったんですけど」


「好きってね、こうだから好きとかそういう決まった形ってないのよ。好きだからずっと一緒にいたい人もいれば、好きでも離れていたい人もいるの。私から見れば栞ちゃんは十分その子のことが好きに見える。だから、今のままでいいんだよ」


「私は彼に、恋愛感情を抱いているんですか?」


「ピンとこないかぁ」


カレンは少し考えてから、じゃあこうしようと人差し指を立てた。


「その人のためなら自分を犠牲にできる。そう思う時が来たら、栞ちゃんは彼のことを友達以上に思ってるよ」


「そう、なんですか?」


「うん。だって人間そんな簡単に自分を犠牲にしようとは思えないよ?」


確かにカレンの言うように自己犠牲の精神は高尚なイメージがある。人と関わってこなかった栞には自己犠牲とは無縁の人生だった。


「カレンさんはお若いようですけど、恋人はいらっしゃるんですか?」


膝の上でピクッとノワールが反応して栞を見上げる。栞が頭を優しく撫でると、ノワールはまた丸くなった。


「恋人かぁ……いる、けどいないかな? ちょっと複雑で」


カレンは無理に笑っているように見えた。快活で悩みを抱えていなさそうだが、悩みのない人などいないものだ。


「大切な人はいるよ。私がこの店に立ち続ける理由かな」


「素敵だと思います。きっとカレンさんに会うためにこの店に来てる人は多いと思います。すごく、偏見ですけど」


「ありがと」


美しい人が照れるとそれだけで絵になるとカレンを見て思った。


「私、よく本を読むんですけど、前に読んだ本で『モノクロ』っていう物語があって」


栞がカレンに話した物語は、愛する妻を失った老人の話。


妻と二人で切り盛りしていた喫茶店を営み続け、そこに訪れる客との交流を中心に話が展開していく。


時に厳しく、時に優しく相手の心に響く老人の言葉に、訪れる客は人生を前向きに捉えられるようになっていく。


物語の鍵となる人物はやはり妻で、要所で妻との思い出が振り返られる。この中で老人の言葉のほとんどが妻の受け売りであることがわかる。


妻を失ってから時が止まったままの老人は、再び歩きだすことができるようになるのだが、それも生前妻が残した手紙の中の言葉だった。


印象的だったのはその手紙の内容がハッキリと書かれていないことだった。一言二言の表現はあっても、描写としては『数行に渡って並べられた妻からの愛』、『語りかけるように書かれた夫への感謝』など読者が自分でどんな手紙かを想像できるようになっていた。


読者の数だけ妻からの手紙が存在し、当然読者が一番理解できる言葉によって手紙が綴られることになる、そんな表現の仕方が栞は好きだった。


「その本のおじいさんは最後に妻との思い出の地で妻の死を受け入れるんですけど、その時の景色について一ページくらいかけて書かれてるんです」


「モノクロの世界に色彩が戻ったってことなのかしらね」


カレンになぜこの物語を話したのか自分でもよくわからなかった。たまたま頭に浮かんだと言えばそうなのだが、心のどこかで思い出す要因があったようにも思う。


「栞ちゃんの世界も今はモノクロなのかな?」


「どういうことですか?」


「それは自分で気づかないとね」


カレンの少し意地の悪い笑顔もとても魅力的だった。


結局問題は解決したわけではないが、話をしたことで気持ちはスッキリした。栞は礼を言ってノワールを床に下ろして立ち上がった。


「ごちそうさまでした」


「いいえ、こちらこそ」


何に対するこちらこそ、なのかはよくわからなかったが栞は店を後にした。


堀北と関わったことで、栞の世界は広がった。知らない場所に行くことや知らない人と関わることも増え、自分の知らない感情にも出会った。


しかしどこか物足りなさを感じているこの気持ちの正体を理解するには、栞はまだまだ未熟なのだと感じた。

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