第十一話 枯れない桜
後日、飛田の死因は事故だったという連絡が入った。廊下で足を滑らせて、電気コードに勢いよく引っ掛かり首の骨がずれて気絶。そのまま窒息したらしい。最後に連絡が取れてから一日しか経っていないとは思えない腐乱状況で、メンバー全員が一通り取り調べを受けていた。
グループのメンバーが死亡したという話は動画の再生回数をさらに上げたものの、三名が脱退し、山宮と一名が動画を続けていくという噂だけを聞いた。
〝捕縛者〟は残り五体。文葉は相変わらず眠ったままで、早く回収しなければと焦る気持ちで落ち着かない。
画廊で顧客の名前を呼び間違えるというミスをした私は、その顧客の担当から外れることになった。完全に集中力を欠いていた私のミス。友人の命を救うために頑張っているなんていう夢物語のような理由は、現実の仕事の失敗の言い訳にはならない。
辛くても苦しくても文葉を失いたくない。綺麗ごとだとは思っても、後悔を繰り返したくはなかった。
バックヤードで一人反省していると、ふらりと現れた朝木が冷たいミルクティの缶を私に差し出した。受け取って勧められるままに口にすると、その甘すぎる甘さにほっとする。
「賀美原さんにしては珍しいミスだね。僕は時々やって怒られるけど」
それはきっと優しい嘘。朝木が顧客の名前を呼び間違えることは絶対にない。
「嘘だと思ってるだろ? ところがやるんだな、これが。僕は全部の顧客の情報を頭に入れ過ぎてるから、時々容量一杯になって溢れるんだ。失敗して、ようやく自分が限界まで頑張り過ぎてるっていうことを知る」
朝木が何を言いたいのかわかった。顔を上げると、朝木の優しい微笑みが心を温める。
「そ。賀美原さんも頑張り過ぎてるってこと。少し休めないかな?」
「……友人の命が掛かっているので……」
その一言だけで朝木は理解してくれた。
「そうか。それは休めないな。疲れてるならスイーツビュッフェにでも誘いたいけど、ヤバイ件が片付いてからの方がいいかな」
「……はい。ありがとうございます。朝木さんは、よく行かれるんですか?」
「一度だけだよ。昔、どうしても行きたくて七神を拝み倒して連れて行ったんだけど、あいつ最初から最後まで甘くないサンドイッチとパスタだけ食べててさ。周囲は笑顔で楽しそうなのに、無言で食べる僕たちのテーブルだけ殺伐とした空気だったんだ。あいつとスイーツの話はできないと懲り懲りしたよ」
七神と朝木がスイーツビュッフェにいる光景は、想像してみても似合わない。七神が無言で食べている姿は容易に想像できてしまう。
「朝木さんは、スイーツがお好きなんですね」
「ああ。好きだよ。男なのにってよく言われるけど、頭を使うと甘い物が無性に食べたくなる。この缶コーヒーも糖分の摂取が目的なんだ。人口甘味料入りは避けてるし一日の摂取量は気を付けてるつもりだから、健康に悪いとは言わないで欲しいな」
缶コーヒーには大量の砂糖が使われていると聞いていたから体に悪いと思っていた。糖分目的で飲むということもあるのかと知って不思議な気分。
「ヤバイ件が解決したら、七神も誘って三人でスイーツビュッフェに行こうか。賀美原さんがいてくれたら、あの殺伐とした空気はきっと回避できる。賀美原さんの分は僕がおごるよ」
明るく笑って片眼を瞑る朝木の気遣いが嬉しくて、感謝するしかない。失敗して落ち込んでいた心が少し軽くなったような気がした。
◆
七神は霊力で一体の〝捕縛者〟を探し当てた。行きつけのバーで七神と待ち合わせて店に入った直後、朝木が店を訪れた。七神と朝木に挟まれるようにして座るのは、何となく居心地が悪い。
朝木に御札を探していることを知られてもいいのだろうかと、七神の顔を見ると、七神自身も迷っているようだった。
「あれ? 何か秘密の話だったら、僕はテーブル席に退散するよ」
明るい笑顔を向けられると、詳細を知られなければいいのではないかという気がしてきた。七神も同じように思ったようで、グラスを持って立ちあがりかけた朝木を引き留める。
七神はスマホを取り出し、地図を表示した。
「……探し物はここだ」
「地図での探索って、広範囲過ぎて異常に霊力を使うって言ってなかったか? 酒飲んでて大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だ」
朝木の心配する声に、七神が苦笑で応える。本当は大丈夫ではないかもしれないと、きゅっと胸が痛む。私のわがままで無理をさせてしまっている七神に、私は何を返せるのだろうか。
「詳細な住宅地図で確認したが、鮫島という人の家だ」
「鮫島さん? ……うちの顧客かも……」
七神がスマホで示した地図の中、ざっくりとした住所を見ても間違いない。先日、私が名前を呼び間違えた独り暮らしの高齢男性。早くに奥様を亡くされた穏やかな性格の方で、私のミスも笑って許してくれた。担当を外されたのは画廊の方針。
「全然、気が付きませんでした……」
常に穏やかに笑う方で不自然さも全く感じなかった。
「どうやって会うかが問題だな」
溜息混じりの七神の言葉を受けて、朝木が明るく口を開いた。
「ちょうど鮫島さんに、おすすめしたい絵があるから僕がアポを取れば会えるよ」
「でも、公私混同は……」
公私混同は厳禁と就職してからずっと言われているし、それが原因になって退職になったスタッフも知っている。後進を指導するべき立場の朝木が口にしていい事ではない。
「避けるべきだけど、今はそうも言ってられないんだろう? 大丈夫。僕は僕の仕事で行くし、七神は拝み屋の仕事で行く。賀美原さんは空気のように着いていくだけだから問題ないよ。僕としては早く問題を解決して、以前の賀美原さんに戻って欲しいからね」
そう言って片眼を瞑った朝木は爽やかで、頼りがいのある先輩に思えた。
◆
土曜日の午後、朝木は鮫島へ訪問の約束を取り付けた。七神の運転する車に乗って、郊外の高級住宅街へと向かう。私は何故か助手席で、朝木は狭い後部座席へと詰め込まれた。
ゆったりとした道幅と綺麗に整備された道路を走る間、大型の高級車とすれ違う。高い塀や整えられた生垣は素晴らしくて緑も多く、狭くて窮屈な街の風景とは異なっている。
「見えてきた。あの屋敷だよ」
何度か訪れたことがあるという朝木が指さしたのは、瓦屋根の付いた塀に囲まれた庭に桜が咲く和風建築。門構えも立派で、まさしくお屋敷と言って間違いない建物が見えてきた。
近づくにつれて、何故か既視感を覚える。
「立派で古風だから、時代劇やコマーシャルの撮影にも使われるそうだよ」
朝木の説明でこの既視感の理由がわかった。時代劇専門動画の宣伝に、この風景が映っていたと思い出す。
「綺麗な桜ですね」
塀の上に桜の花が咲いている。街ではもう満開が過ぎ、葉桜になっていた。アスファルトとコンクリ―トで囲まれた街と、緑あふれる場所では気温が違うのかもしれない。
「樹齢三百年と聞いてる。江戸時代だったかな。日本史は苦手でね」
朝木はそう言っていても、日本画の知識も深い。海外で捨て値で売られていた日本画を発見して、博物館の収蔵品になったこともある。
「駐車場は、この先を曲がった所にある」
朝木の案内で車は静かに進んでいくと、広い駐車場が用意されていた。一台の車も停まっていないことに違和感を覚える。
「車が無いのが不思議だろ? 鮫島さんは、いつもハイヤーを使っていて、この駐車場は撮影がある時に撮影隊が使うそうだよ」
うちの画廊ではハイヤーを使う顧客も多い。タクシーとは違って黒の高級車であることが多く、運転手がドアの開閉を行うこともあれば、専従者がドアを開閉することもある。
撮影隊の為に駐車場を作るなんて、お金持ちのお屋敷は凄いと密かに感嘆する。車が駐車場を進む中、七神が視線をゆっくりと周囲にめぐらす。
「……朝木、どこに停めればいいんだ?」
「門の近くでいいんじゃないかな。奥まで行くと遠くな……七神、何か視えてるだろ。賀美原さんを怖がらせないようにっていうのもわかるけど、こういう時は素直に言った方がいいと思うな。……賀美原さん、距離歩くことになるけど、いいかな?」
何のことはない。七神はこの周囲に何かが視えているらしい。はっきりと言ってくれてもいいのに。
「はい。かまいません」
今日は仕事用のグレーのスーツに白シャツ。靴は展示会で履く歩きやすい物にしてきた。
「で、何が視えてる?」
「……落ち武者。首を探してる」
「く、く、く、首っ?」
いやいやいや。それは聞かなければよかったとしか感じない。首を探しているということは、首無し状態で歩いているのか。でも落ち武者と聞くと、
「それ以上は口にしない方がいい。視えていると、あちらに気が付かれると厄介だ」
「わ、わ、私は視えてませんから、大丈夫ですっ」
視えないということは、幸せだと思う。私の慌てる顔を見て、運転席の七神と後部座席の朝木が笑いをこらえているのがわかるからいたたまれない。
車を降りた途端に朝木が七神の肩に肘を掛けて笑い始め、七神もつられるように笑い出し、私は二人の腕をぺちりと叩いて抗議した。
◆
落ち武者が歩いているという場所を避け、話をしながら屋敷の門までたどり着いた。立派過ぎる門は開いていて、両脇の緑を見ながら石畳を歩くと式台玄関にたどり着く。
「訪問する際には、到着時間を少し遅らせるのが良いという人もいるけど、鮫島さんは少し早めがお好みだ。あと、絵の話をすると言ってあるから、お茶は断っているからね。お茶が出て来なくても嫌われてる訳じゃないよ」
全然気が付かなかったけれど、朝木は約束した時間の三分前という絶妙な調整をしていた。その左手には大きな革製のアタッシュケースが下がっていて、鮫島に見せたいという絵が入っている。
大きな屋敷で独り暮らしの鮫島は、客が来るという約束があるとお茶を出す為だけに人を雇うらしい。理由を付けて最初からお茶は不要と言うのも朝木の気遣いなのだろう。
「こんにちはー! 朝木です!」
呼び鈴もなく、どうするのかと思えば朝木は普通に屋敷の中へ向かって叫んだ。七神と二人、朝木の後ろで顔を見合わせる。
しばらくすると、和服姿の鮫島が現れた。白髪に紬の着物がとても似合っている。
「ああ、遠くからすまなかったね。よく来てくれた」
着物姿の鮫島は、いつもと変わらない柔らかな笑顔で出迎えてくれた。玄関の中に入っても禍々しい空気は感じず、むしろ清々しい。
扉の外側、オープンな空間の式台玄関で靴はどうするのかと思えば、片隅に来客用の靴箱が用意されていた。完全に慣れた手つきの朝木に習って自分の靴を片付ける。
鮫島自身に案内されて、時代を感じる廊下を歩く。壁には私が扱った覚えのある絵が、所々に飾られている。完全に和風建築なのに油絵がさりげなく溶け込んでいて、不自然さが感じられない。
こうして毎日の生活に寄り添う絵を見ると嬉しいと思う。売った後、絵をどう扱おうと顧客の自由と割り切ってはいても、高値転売されると苦々しいし、安値で売られると気に入らなかったのかと落胆してしまう。
中には買って開封しないまま、倉庫に放り込んでしまう客もいると聞いたことがある。購入するという行為で満足してしまう人もいるので、梱包の際には数年開封しなくても絵が極端に劣化してしまわないように気を遣う。
私は絵を販売していながら、自分の部屋には絵を置いていない。壁面は本棚で埋められていて、どこにも掛ける場所がないと言う理由と、棚に置ける小さな絵ならと思ってはいても、良いと思った絵は顧客に勧めてしまうから、私の手元には回ってこない。
朝木から貰った絵葉書を額に入れて飾ってみようと思ったことはあっても、LED電灯の光でも色褪せてしまいそうで実行できていなかった。
鮫島に案内されたのは、満開の桜の木がよく見える縁側がある二十畳程の部屋。長方形の大きな座卓が中央に置かれ、座布団が並んでいる。床の間には掛け軸が下がり、青々とした畳が爽やかで美しい。
「友人の映画監督から撮影用に古い畳が欲しいと言われてね、最近畳を新しくしたんだ。古ぼけたように見せるアンティーク加工とかいう技術が気に入らないと言うんだ。昔からやたらと細かい所を気にするわがままで頑固な奴でね。周囲の言葉なぞ聞いちゃいない」
映画に疎い私でも知っている有名な映画監督と鮫島は友人らしい。わがままだと言いながら、笑う顔を見ていると相当仲が良いとわかる。
朝木の隣に私が座り、七神が座る。挨拶を交わした後、鮫島が生き生きとした声で切り出した。
「さあ、朝木君が一刻も早く見せたいという絵を見せてもらおうか」
鮫島の表情は期待に満ち溢れていて、対する朝木も自信に満ちた笑顔を返す。
朝木は持っていた革のアタッシュケースを開いて、紫色の風呂敷に包まれた絵を取り出した。絵はさらに桜紋様が梳きこまれた和紙に包まれている。朝木の手つきは柔らかく丁寧で、絵の全貌がとても気になる。
絵を持って立ちあがった朝木は、庭を背景にして絵を掲げた。
「こちらです」
それは青い空を背景に美しい桜が描かれた風景画。絵は油彩六号。横四十一、縦二十七センチで、A3より一回り小さく、気軽に飾ることができるとうちの画廊では一番人気のサイズ。額はアイボリーに塗られた木製のシンプルな物で、細かく描き込まれた画面を引き立てている。
「これは……」
鮫島が驚きの声をあげ、絵と庭を何度も見比べる姿で私も気が付いた。描かれている桜は、目の前の庭に植えられているものとそっくり。周辺の植物は多少異なるものの、その奥に見える塀や美しく配置された岩も完全に同じ。
「百二十年前に描かれた物です。当時、こちらのお屋敷に滞在していたフランス出身の画家が描いたそうで、フランスの画廊で見つけました」
額の裏には、拙い筆文字で『鮫島邸にて』と書かれている。おそらくは画家本人が書いたものだろう。
朝木は長机の上にさっと額縁立てを用意して、鮫島の前に絵を置いた。
「驚きました。よくぞ見つけて下さった……この桜の絵が描かれていたなんて……」
鮫島は驚いた表情のまま言葉を詰まらせて、絵を見つめている。
〝この絵は、この人の為に、ここにある。〟絵を求める人と絵の出会いの瞬間は、何度見ても心が震える感動を胸に呼ぶ。最初にこの感動を味わった時、画廊は私の理想の職場だと感じた。苦しいことや辛いことがあっても、この奇跡の出会いに立ち会えると、すべて忘れることができる。
朝木は画廊の顧客すべての情報を把握していて、買い付けの際にも手を抜かない。相当の苦労や手間があるはずなのに、尊敬する先輩は何でもないことのように優しく微笑むだけ。
売買契約はすぐに交わされ、鮫島は振り込むために銀行員を呼ぶ時間が惜しいと言って現金で支払った。
「触れても構わないかね」
「どうぞ。その絵は、完全に貴方のものです」
朝木に促され、鮫島は額を抱えるようにして絵を見つめる。隅々まで見た後、鮫島は私たちに向かって微笑んだ。
「ありがとう。それで、次は君たちの用件かな」
一流企業の取締役を定年退職した後、数々の企業で相談役や会長を務めた鮫島の勘は鋭い。絵を手元に置いて鮫島が背筋を伸ばすと、和室の中の空気が張り詰めた。
対峙する七神の雰囲気も引き締まった。
「貴方がお持ちになっている、人の顔が描かれた御札を譲って下さい」
緊張した面持ちの七神の言葉を聞いて、鮫島が迷うように視線を揺らしたのは一瞬のこと。
「……あれは訳ありの品だった、ということですな。……お渡ししましょう。あれは私が持つべき物ではなかった」
立ち上がった鮫島は、床の間に置かれていた漆塗りの大きな箱を持って戻って来た。
箱を開けると、白い糸が巻かれた御札が中央にぽつんと置かれている。不思議なことに美織の部屋で見た時とは異なっていて、優しく微笑んでいるように見えた。
「これは半年前、不幸な事故で亡くなった知人が、私に遺してくれたものだ。何でも願いを叶えてくれる不思議な御札だと書かれていた。生きている間、全く反りが合わなかったのに何故こんなものを残してくれたのかと訝しんでいたが、これを手にした時、私はあの桜の花が見たいと願ってしまった。この木はもう三百年を生きている。この三年程は花も咲かず、いつ倒れてもおかしくないと言われていてね。そうしたら、翌日からつぼみができて、一つ、二つと花が咲き始めた」
「冬でも枯れない桜は異常だと理解はしていた。それでも……私は嬉しかったんだ。妻が気に入っていた桜が咲いていることが」
鮫島の妻は幼少から病弱で長くは生きられないと言われていたのに、鮫島は反対する親族を説得して結婚した。妻は三十歳を前に臥せりがちとなり、三十三歳で他界した。それ以来、鮫島は独り身を通している。
「最期の夜は真冬でね。桜は咲いていないのに妻は桜が綺麗だと言っていた。妻が見ていた光景を一緒に見られなかったことが残念でたまらなかった。だが、これからは、この絵がある」
鮫島は深く安堵の息を吐き、そっと御札を箱から取り出して七神へと差し出した。
七神が御札を受け取ると、桜の木が悲鳴を上げた。みしみしと音を立て、花を散らしながら太い幹がゆっくりと裂けて倒れていく。木の内部は虫に食われて酷い状況だった。
「これで良かった。そばにいて欲しいという私のわがままで桜に無理をさせていた。……歪な願いは誰かに負担を掛けるだけだった」
鮫島は、静かに涙を流して私たちに微笑んだ。その傍らに桜柄の着物で微笑む女性の影が視えたのは、私の気のせいだったかもしれない。
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