第35話 天音大佐より
「ここが、天音大佐が使っていた部屋か?」
「そうや。今は会議室みたいに使ってる」
「何もないな」
「少し片付けてん。天音さん、一人でピアノを弾いてはったわ。何の曲か知らんけど、聞こえてくると、とっても心地良かったで」
天音大佐が使っていたという、二階の音楽室にやって来ていた。カーテンを閉め切っているせいか少しカビ臭い。天井の近くに有名な音楽家の肖像画が幾つも飾られていた。正面右奥にグランドピアノが据えられて、その左には教壇があり、黒板がある。
まあ、どこにでもある音楽室の風景だと鹿目は思ったが、黒板には、西側半分が真っ黒に塗り潰されている大きな日本地図が貼ってあった。そこだけ違和感がある。鹿目は歩いて黒板の前まで進んだ。
「ここが、奈良なのか?」
地図上の西側で、唯一黒く塗られていない場所を指して鹿目は尋ねる。横に来て「そうやで」と千春が言った。
「完全に囲まれているな」
「陸海空、脱出不可能や。あ、奈良に海はなかったか。あははは」
千春は、どうしようもないという風に笑った。
見る限り、奈良県の周囲は黒く塗り潰されており、隣接する他の地域は魔都化が完了してしまった事を示している。
黒い部分に何が存在していたのか?
それは思い出す事ができない。
魔都化が完了してしまうと、その土地に関する全ての事が、忘却の彼方に消えてしまう。更に、生身では立ち入り出来ない暗黒地帯となるので、現状のように奈良が囲まれてしまうと、どこにも行けないし、誰も入って来れない。地理的に奈良県は、陸路も空路も封鎖されている状況だと思われた。
「絶対絶命というやつだな」
鹿目は呆れて言う。
「その意見に俺も賛成や」
オッサン化が進んでいる武くんが
「天音さんとエリさんちゅう
「エリは他の任務に就いたって聞いてたけどな。何で奈良にいるんだ?」
「さあ知らんな~。天音さんやエリさんは十年以上一緒に戦った仲間やけど、そんな話はせえへんかったな」
「じゅ、十年て、マジかよ。俺が消えてからすぐに、天音大佐やエリが来たのか? それって俺より付き合い古いぞ」
「いや、さっき千春ちゃんが言うてたやろ? 豊聡耳の虐殺が終わった次の日、だから八日目ぐらいに、吉野の方に逃げてる途中で出会ったわ」
「なるほど、引っ掛かるな」
「そうか? どの部分?」
「八日目だ」
おかしくないか?
鹿目は
たしか天音大佐は、情けない
だが、エリが一緒だったのは、全てにおいておかしい。エリは魔都化の兆候が現れた他の県に派遣されたはずだ。奈良にいるはずがない。
よく分からないが変だ。
鹿目の記憶と違う。
だが、間違った認識を続けているのは鹿目の方なのだろう。成長した千春の姿が、妄想は止めて、早く現実を受け止めるよう、
教壇の上を見ると、何一つ物が置かれていない。無駄な物が一切置かれていない作業スペースは、天音大佐らしいと鹿目は懐かしんだ。少しでも物を置くと、きつく叱るのだ。
「天音大佐は、
鹿目が千春をちらっと振り向くと、沈痛な面持ちだった。何も言わない千春に代わって、武くんが答えた。
「天音さんの最後は誰も確認してへん。二年前、法隆寺の
「なるほど」
さっき武くんを襲っていたデカイ鳥。イカルだったか、そいつが元気な所を見ると、豊聡耳は恐らく健在なのだろう。つまり天音大佐は失敗したのだ。どれ程強かろうが、神格相手に人間の出来る事は、たかが知れているということか。
鹿目は自然と厳しい表情になる。
エリも孤軍奮闘をしたようだ。
エリは鹿目の後輩であるが、才能の塊のような人物だったから、よほど相手を苦しめたに違いない。
ここで僅かに残った人達を守って散ったのか。怖がりのくせして、無理をしやがって……。
鹿目は幼い顔立ちをしたエリの姿を思い出した。
「……さすがに俺も、戦うしかないな」
鹿目は諦めたように呟いた。
神使が二名も散った現場に来ている。勝ちの薄い勝負は出来るだけ避けたい所だが、戦う選択肢しかないような気がしていた。
相槌を打ちながら千春が言った。
「私は嬉しいで神使。なんか希望が湧いてきたわ。ほんまに天音さんが言ってた通りや。まさか、昔と変わらん姿で現れるとは思ってなかったけど」
「せやな。ほんまにあの頃のまんまやな。タイムスリップってどんな感じなんや?」
武くんが、鹿目をじろじろ見る。鹿目はあまり良い気分がしない。
コホンと咳払いをして言った。
「穴だよ。穴」
「穴って……」
「突然、穴に落とされて、目が覚めたような気分だよ」
「ふ~ん。そういうもんなんか……。なんか、俺が読んでた漫画と違うなぁ。あっ、千春ちゃん、あれ渡さなあかんな」
武くんが、そのように千春に促すと、千春は「そうやね」と言いながら、教壇の下から分厚い手帳を取り出した。
「天音さんが、あんたが現れたら渡してって言ってた手帳や。私らは中は見てへん。あんたが確認してくれる?」
鹿目は手帳を受け取る。
天音大佐は、何故、俺の行動が把握できているのだ? 何でも見通す千里眼の使い手のようだ。そのような
天音大佐は、元々、懐が深く謎だらけの人物だ。二十代後半で神鹿機関のトップを務めているのだから、その生い立ちは計り知れない。凄まじい人生を送っていそうだった。
手帳は辞書のように分厚く、表紙は革のようだった。使い込まれた表面には、
ペラペラとめくると、意外にも白紙だった。何も書かれていない。
「これを天音大佐が、俺に渡せって? 何も書いてないけどな」
「え、そうなん?」
千春が驚いている。
「うん。見てるけど何も――」
鹿目は最後のページをめくる。
最後のページに、ようやく文字が刻まれていた。間違いない。天音大佐の筆跡だ。鹿目に対して、注意を促す内容が書かれている。
――目覚めろ。
これは全部、ふざけた夢だ。
私は仮説を立てた。これは夢だと確信している。だが、僅かに別の可能性が残る。
もしも、私が戻らなければ、お前は、そちらの可能性を潰せ。
剣は置いておく。
エリを守りの為に残していくが、お前と合流できるだろうか。
合流できなければ、お前が最後の神使となる。
夢殿に向かい、闇を
我こそが国家の兵だと示せ。
残る者達をよろしく頼む。
――天音。
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