第178話
それからどれだけの時間が流れたのか。
戦局は、その大勢がほぼ決するところまできていた。
王国軍と氷の魔神、どちらの勝利に傾きかけているのか──
これは信じがたいことに、あれだけのダメージを受けてなお、氷の魔神の優勢となっていた。
戦いが進むごとに、王国軍の最精鋭の騎士たちが一人、また一人と倒れ、次々と戦闘不能状態に追い込まれていった。
瀕死の重傷を負った騎士たちは、その大部分は従軍司祭の行使する奇跡の術によって一命を取り留めたが、中には治癒の余地もなく絶命した者もいた。
また従軍司祭たちの
ゆえに戦える者たちの数が着々と減っていくことは、回避できない。
なお余談だが、その激しい戦いのかたわらでは、瀕死の重傷を負って倒れる者たちの数があまりにも多すぎて、従軍司祭たちの手が追いつかないという事態が起こっていた。
従軍司祭たちは、どうにもならない状況に悔しさをにじませていた。
何人もの騎士たちが命を落とすのを、むざむざ見捨てることしかできないのかと。
だがそのとき、まさしく奇跡のような出来事が起こった。
一人の神官の少女が颯爽と現れ、司祭級の奇跡の術を行使して、次々と騎士たちの命を救っていったのだ。
それは王女アイリーンが連れてきたシリルという名の神官だったのだが、まだ二十歳にも満たないであろう美しい少女が司祭級の奇跡を行使することに、従軍司祭たちは驚きを隠せずにいた。
ある従軍司祭などは「まるで女神そのもののようだった」などと語ったほどだ。
だが、そういった舞台袖の出来事はさておいて、大局は悪い方向へと進み続ける。
王国軍の騎士たちが次々と倒れていく一方で、彼らが必死にダメージを与えているはずの氷の魔神はといえば、一向に怯む様子を見せなかった。
それどころか、徐々に体力を回復しているようにすら見えたほどだ。
途中からは王女騎士アイリーンや、彼女が連れてきたサツキという名の異国の剣士も参戦していたが、それで事態が動くわけもない。
そうして王国軍の戦士たちの数は減り続け。
今や国王アンドリュー、騎士団長ディラン、王女アイリーン、異国の剣士サツキも含めた合計十人ほどの戦士たちだけが、氷の魔神を遠巻きに包囲している状況だった。
そんな中、刀を構えつつも肩で息をするサツキが、アイリーンに向かってぼやく。
「な、なあ姫さん……たしか氷の魔王ってのは、Sランクのモンスターって話だったよな? ありゃいくら何でも強すぎねぇか?」
「ははっ、奇遇だね。僕もそう思ってたとこだよ」
「だってよ、ウィルがB+ランクぐらいだって言ってたロックワームの親玉なんぞとは、次元そのものが違う気がすんぞ」
「僕も、オークエンペラーを十体ぐらい同時に相手したって、これほど絶望的じゃないと思うな。──お父さん、じゃなかった陛下、これどういうこと?」
愛娘から質問を横流しにされた国王アンドリューは、少し言いづらそうにしながら答える。
「あー、なんか、仲間食ってパワーアップしたんだよあいつ。極獄の宝珠で封印したときは、あそこまでじゃなかったぞ」
さらにそこに、騎士団長ディランが口を挟む。
「それにそもそも、SランクというのはAランク以下に収まらないものすべてをひとまとめにしただけの格付けですからねぇ」
「そうだな。ランク差の戦力二倍則で考えるなら、あれはもうSSSSSランクぐらいは付けないと到底勘定が合わん」
「あははっ、インフレもほどほどにしてほしいよね」
アイリーンはそう言って笑ってみせるが、その目の奥はまったく笑っていなかった。
彼女は額に浮かんだ嫌な汗を服の袖でぬぐうが、ねっとりとまとわりつく絶望感はぬぐい去ることができない。
アイリーンもそうだが、この場にいる全員が無理に笑っているのだ。
そうでもしなければ心が絶望で壊れてしまいそうだから。
自分たちがすべて倒れたら、どうなるのか。
それは火を見るより明らかだ。
この戦場にいる全員が殺されるだろう。
そしてそうなれば、この国で暮らすほかの何百万人という人々だって、無惨に虐殺されるしかなくなる。
だから絶対に負けられないのに──
アイリーンは、左半身から何本もの触手を生やし、右半身をドロドロに融かされた、今やグロテスクな姿の氷の魔神を見やる。
アイリーンも騎士たちとともにあれに挑み、何度も剣を振るった。
そして、何度もいなされ、かわされた。
たまに攻撃がヒットしても、強固な防御力に阻まれて、軽傷を与えるのが精一杯。
その一方で、一度、反撃が自分に向かってきたときにはゾッとした。
瞬くような速度で繰り出された触手による斬撃は、そのときには自分でも驚くほどの反射神経で身をひねってかわしたが、一瞬でも遅れていれば胸部がバッサリとえぐられて血の海に沈んでいたことは間違いない。
だから──あれになぶり殺される想像はいくらでもできるのに。
あれに勝てるビジョンなんて、ひとつも浮かばない。
頼みの綱だった
だが彼女の
となればあとはもう、いつ自分が殺される番が来るのかという、時間の問題だ。
自分のわがままで連れてきたサツキちゃんやシリルさんぐらいは何とか逃がしたいが、逃げろといったところで二人が首を縦に振るとも思えない。
そもそも彼女らだって自分の意志でここまでついてきているのだから、それをどうこうしたいと思うのも自分のわがままだ。
(ウィル……ごめん、僕……)
アイリーンの脳裏には今、一人の青年の姿が浮かんでいた。
彼女にとって最愛の、幼馴染みの導師。
(ねぇウィル……僕、間違ってたのかな……? 僕の道はここで終わりで、サツキちゃんやシリルさんまで巻き込んで……)
アイリーンの胸に渦巻くのは罪悪感と、それを何倍も上回る寂寥感。
切なさと愛しさと、恋しさ。
最後のときに浮かんだのが騎士としての守るべき人々への想いではなく、女の子としての愛する人への気持ちだったことに、アイリーンは少し戸惑う。
(ふふっ、そっか……僕って本当はそうなんだ。でもせめて……せめて本気で、「好き」って言っておけば良かったな。そうしたらウィルも、僕のこと女の子として見てくれたかな……?)
そんな後悔。そして悲しみ。
もう愛しい人には会えないんだという、やりようのない切なさ。
そう思ったら、気持ちが止まらなくなってきて──
(やだよ……僕、そんなの嫌だよ……ウィル……!)
想いと涙があふれてきて、アイリーンは戦いの最中にもかかわらず空を見上げてしまう。
──と、そのとき。
曇天の下を飛ぶ、一羽の大鷲の姿が見えた。
その大鷲は、暗雲の向こうに見える青空を背負い、アイリーンたちの方へと向かって飛んでくる。
(えっ……?)
アイリーンは、あの大鷲の姿をどこかで見たことがあるような気がした。
連想するものは、夜の森、オーク、エルフ。
そして──
一瞬後、そこに思い至ったアイリーンは、瞳に涙を浮かべながら万感の想いを込めてその名を叫んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます