開演前
目覚めは普段通り、二度寝を誘う睡魔との戦いだった。アラームが鳴る前に起きたらしく、しばらくしてスマホがベッドの上でピピピと音を立てる。俺はそれをまだぼやけた視界で確認し、そっと閉じた。
今日がロミオとジュリエットの劇をする日である。
昨日はずっとそわそわしてあまり寝付けなかったから劇に影響を及ぼさないか心配だ。睡眠不足は油断ならないからな。
カーテンを開けてみると生憎の空模様。緊張でモヤモヤしている俺の心情を写したようだ。昨日の天気予報では午後から雨が降るとのことらしい。今は降っていないが、念のため傘を持っていっておこう。
ボサボサの頭のままリビングに行くと、
「おはよう、甘奈」
「ん、おはよ」
中学生なのに働き者である。
俺がキッチンに行ってなんか手伝えることないかなーと様子を見ていると、甘奈は箸で具材を盛り付けながら、まるで世間話をするかのように口を開いた。
「あ、言ってなかったけど今日のお兄ちゃんの劇、私も観に行くから」
「ふーん……ん?」
一気に眠気が吹き飛んだ。
劇を観にくる? こいつが? 文化祭にくるってことか?
「え、なんで?」
「葉月先輩に誘われたから」
「あっそう……」
そういや二人は中学で同じバレー部だったか。連絡先交換してたんですね……。
それにしてもそういうのは当日ではなくもっと前から言えよ。まあ前から言ってたとしても特段変わることはないけどさ。気持ちの問題的にね。お兄ちゃん、驚いて心臓止まっちゃうから。
「ま、楽しみにしてるから」
甘奈は意地悪く笑った。
「それは、期待に応えないとな」
◇ ◇ ◇
二日目は一日目とは違い、教室からのスタートだ。校内放送で生徒会長が文化祭の始まりを告げ、各自行動に移る。俺は一日目に店番を終えたから残すところ午後一時にやる劇だけだ。それまでは適当にぶらついて、十一時に一旦部室に集まり最後の追い込みをかけ、士気を高め合う。
まあつまりは、十一時までやることがないのだ!
「何すっかなぁ……」
これぞボッチ・イン・文化祭。日本が生んだ悲しき文化だ。いや、日本が生んだのかはしらんけど。
教室にいても邪魔になるだけだし、とりあえず外に出るか。軽く食べ物も腹に入れておきたいしな。なんせ午後は食べる暇ないんだし。
「プッ。それにしても本当にその格好なのか?」
「ああ。何かおかしいか?」
「そんな真面目な反応されても……いや、わりい。やっぱ笑うわこんなん」
三組が更衣室に使ってる空き教室から楽しげな声が聞こえてきた。サッカー部のやつらかな? 笑われ者にされてるのは日山か。
まあコスプレだしなぁ。笑われるのも仕方ない。にしてもどんな格好してんのかな。
少しの好奇心で俺は空き教室の方を見ると、当の日山と目が合った。
俺はその衣装に絶句する。なんでお前まで……。
「なあ聞いてくれよ西園寺。こいつらが俺のこと笑ってくるんだぜ。酷いだろ」
「いや、そりゃ笑われるだろこの格好は……」
「えー、西園寺も?」
というか笑っていいのかすら分からない……。日山は昨日白井が見せた、メイド服姿だった。
白井と違いガタイのいい日山にはどうしても不格好に見える。
「言っただろ? 男もメイドにならないと不公平だって」
「ああ確かに言ってたな。でも俺が知る限りだと、クラスでメイド服を着た人は男しかいないぞ」
「マジで!?」
驚愕の事実に打ちひしがれる日山。
うん、やっぱこいつ変わってるわ。「嘘だろ……メイドって女の人がするものだろ……」とかなんとか当たり前のことを呟いている。それならなんでメイド姿になったのでしょうーか。
わなわなと震えている日山に対応を困らせていると、サッカー部の連中が笑いながらこっちにくる。
「面白いだろ? こいつ」
「確かにそうだな……」
気づけば日山の周りには人だかりができていた。もちろんみんな男ではあるが、こうして人を集める能力があるのは素直に尊敬する。俺の周りにはあんまり人集まらないからなぁ。まあ全ては俺が人に対して心を開いてないせいだけどね。
日山を含めたサッカー部の連中はひとしきり話したあと「じゃあな」と快活に手を挙げ、教室へ入っていった。人だかりも解散となり、それぞれがまた小さいグループとなって散ってゆく。
これがコミュ力おばけか……。
「あー、何しよ」
まるで嵐のようであった。サッカー部が過ぎ去ったあとはひたすらに虚無。寂しすぎて泣きそう。いや泣かんけど。
「とりあえず
◇ ◇ ◇
ポテトとたこ焼きを食べたあと、することもないので部室に向かうことにした。集合時間まで一時間あるが、まあいいだろう。どうせ一人で校内を散策するよりも部室の方が落ち着くだろうし。
A棟の三階から上は文化祭では使われていないから、ここら一帯だけ時間が止まったかのように錯覚してしまう。気づけば俺の聴覚を刺激するのは階段を登るスリッパの音だけになっていた。
暗雲立ち込める中、電気もついていないのでひどく寂しい。孤独を覚えながら四階まで上がり廊下を歩いていると、部室から光が漏れているのに気づいた。
もしかして、もう誰か来ているのだろうか?
耳を澄ますと話し声が聞こえてくる。どうやら何人か部室にいるらしい。
引き戸に手をかけ、いつも通りにドアを開ける。
部室にいたのは先輩二人と後藤だった。
「おはざいます」
「おー西園寺、早えな」
「おはよ、西園寺くん」
俺はひとまず壁際に荷物を置いた。
「ところでみんなはどうしてこんなに早く?」
「ま、小物とかの用意や細かいとこの最終確認だな。ギリギリになって不都合が発生したら目も当てられねえ」
「なるほど」
「というか、西園寺こそこんな早くにどうしたの? もっと友達と文化祭を楽しめばいいのに」
「ウッ……」
橘先輩の無邪気な一言は俺に致命傷を与えた! 俺は死んだ!
「あー、こいつ友達いねえからな」
「ちょっ! 先生なんてこと言うんすか!」
血も涙もねえ!
「え、そうなの西園寺くん……」
「違いますから! 友達いますから!」
宮野先輩の哀れみに満ちた瞳は俺の弁解も悲しきものと映しているらしい。「大丈夫だよ。私たちはずっと友達だから」
もう、どうにでもなれ……。
俺がヤケを通り越して無になっているとガラガラとドアが開いた。
「みなさん早いですね」
「あ、心美ちゃん! おはよう!」
「おはようございます、先輩」
水野さんだ。
「水野さんも早いね」
橘先輩の言葉に少し頬を赤くして水野さんは答える。
「あ、はい。西園寺くんが部室に向かっている姿が見えたので」
「ん、俺?」
水野さんはコクンと頷く。
「あー分かる! 集合時間はまだ先でもそこに行ってる人がいたら焦っちゃうよね!」
「おい西園寺! 水野はお前と違って友達がたくさんいるんだから
「俺のせい!? てか俺も友達いますよ!」
冗談キツイぜ先生……冗談だよね?
というか今日の後藤は心なしかテンション高いな。文化祭の魔力は教師をも呑み込むらしい。
「にしても全員揃っちまったな。こんな早くに集まってもすることねえってのに」
「ん? 全員?」
この世界から盛岡の記憶が削除された? まあ、あいつ影薄いし……。教師に存在を忘れられるとか可哀想なやつ。
「おう。気づいてないかもだが盛岡もさっき来てたぞ」
「え?」
後藤が顎でドアを指し示したから俺も視線を向ける。そこには相変わらずふてぶてしい男がいた。
「お前、いつの間に来てたんだ……」
「水野はお前と違って友達がたくさんいるってとこから。とりあえず水野さんに謝りな」
「え、えーそこから? てか謝ったほうがいいの?」
「別に謝らなくていいですよ。西園寺くんは悪くないですし」
と、水野さん。
「そう?」
「はい。友達がいないのは仕方のないことです」
「水野さんまで!?」
酷すぎるよ……ッ!
「あ、てかそう! 俺よりも盛岡の方が友達いな」
「あ?」
「なんでもないっす」
獲物を前にした狂犬かよ……。すんげえ顔だったぞ。
対して俺は可愛い子犬だな。あんな眼光に刺されたらキュゥン、てなっちゃう。
「ははっ……相変わらず仲が良いのか悪いのか」
「宮野先輩には申し訳ないっすけど、少なくとも良くはないですね」
同じ演劇部として仲良くしたほうがいいのは分かってるんだよ。ホントだよ。
でも相手が心を開いてくれないから……。まあそれは俺にも言えるか。
「うーん、まあいいや。仲が良いってことで! とりあえずおはよう、盛岡くん!」
「……ども」
光属性が強すぎるな宮野先輩は。あの狂犬がこんなにもしおらしくなっちゃって。
「ところで先生。こんな早くに集まっちゃいましたけどどうします?」
橘先輩が問う。
「んーそうだな。一応確認は終えたし……。お前ら、ちゃんと
「あ、俺は大丈夫です」
「私は何も食べてないですね」
「あれ、そうなの心美ちゃん。私たちも食べてないからさ、一緒に回ってみる? 盛岡くんは?」
「俺は大丈夫っす」
「そっか。私たちもすること終わったし、三人で行こっか」
「あ、はい」
そう言って先輩二人と水野さんは部室をあとにした。残るは俺と盛岡と後藤。
うーん、会話のタネがねえ……。
一気に静かになった部室は窓を打ち付ける風の音を一層際立たせる。文化祭だし、もう少し良い天気が良かったな。屋外ではバンドを組んでライブをしている人もいるし、雨が降ったら可哀想だ。
「ん? なんだお前ら。緊張してんのか?」
「え?」
一瞬、後藤の言葉の意味を理解できなかった。急に何を言ってんのやら。
けど、己に意識を向けると今まで気づかなかったことが、後藤が発した言葉の意味が鋭い刃となって俺を突き刺す。
――体が、震えている?
理解した途端に肌寒さを覚えた。小刻みに、不安定に震える俺の体は、他者から見ても分かるほどに緊張を主張している。
ふと横を見ると、盛岡も同じように体を震わせていた。こいつにも緊張という二文字があったんだな。
「まあ、そうみたいっすね」
「緊張感を持つのはいいことだが、演劇に関してそれは大きな敵になる。深呼吸して、気楽にいけよ」
「うっす」
後藤はこれから劇で使う小物を入れたダンボールの中から二つの剣を取り出した。フェンシングで使うような細いやつだ。
「ほれ、今から軽く練習でもしとけ。俺が見といてやるから」
後藤から剣を受け取り、盛岡に向き直った。盛岡も俺を睨むようにまっすぐ視線を向けた。
……あれ? 別に睨んでるわけではないよね?
「……ふっ」
「んだよ」
「いや、制服姿で剣を持つって、なんだか面白いなって」
白シャツに青ネクタイ、紺の長ズボンをベルトでカシッと締めてる男二人が剣を構え、向かい合う。
「……そうだな。最高にダサいぞ、お前」
「それは盛岡もだろ?」
軽口を叩き合って、さんざん頭に詰め込んだ台詞を喉を絞って声高に発した。
今の俺たちに緊張という二文字はなかった。
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