マイナー・トランキライザー
双葉 黄泉
第1話何かが始まる
その男は、長い間歯磨きなどのオーラルケアを怠っていたのだろう。黄ばんで歯列が乱れている上に歯間には食べ滓たちが居心地良さげに歯垢となってこびりついて離れようとはしない。
口臭はその臭いを嗅いでしまった全ての生物に希死念慮を抱かせる程の薬理作用を持ち、舌はカビのような苔のような胞子状の物質でびっしりと覆い尽くされていた。
千葉市ひきこもり地域支援センターに臨時職員として出向している
「棚森くん、ちょっといいかな!?」
センター長の飯尾 匡は、ファイリングされた書類たちに目を配りながら少しだけ急いでいる様相で梓を呼んだ。
「はい!今行きます!」
梓は、手持ちの事務仕事を素早く片付けて飯尾のデスクに向かった。
「実はね。この男性の事なんだけど……」
飯尾は、前以て付箋を貼っておいた書類をファイルから抜き取って梓に丁寧に手渡した。
「……
梓は、顔写真付きの書類を隈無く見渡して、特に気に留める事なく飯尾に質問した。
「うん……それがねぇ。この男性にはうちも手を焼いているんだよ。君がここに来る前から、ずっと」
飯尾の表情が一気に曇ったことで梓は何かを感じ取った。
「あの……私がこの方の担当になるというお話ですよね?飯尾センター長」
梓の声が少しだけ昂ったように聞こえた飯尾は、何かを確信したかのように立ち上がり、突然梓に向かって深々と頭を下げて懇願した。
「お願いします!」
短い言葉だったが、飯尾の思いは梓に充分に伝わったようだった。
その日の定時17時15分。金曜日という事もあって皆が少し浮わついて見えるなか、棚森 梓は意を決したかのように席を離れて手早く着替えを済ませて、前以て借りていたセンターの公用車のキーを片手に颯爽と外へ出て駐車場に向かった。
「時間外。あまり無茶出来ないけど何もしないで週末は私の性格上無理!」
梓は車を走らせて目的地に向かった。この時間でも、まだ蒸し暑さの残る9月初旬。ふと、街中に流れる用水路に架かる橋を渡った刹那、梓は汚れきった用水路の表層で元気に跳ねている大きな魚を見た。
「何かが始まる……私にとって過去でも未来でもない。現在進行形で紡がれる人生の……」
梓は、バッグの中で静かに眠っているスマートフォンに目を配った。
「大丈夫!私ならきっとやれる!」
車は千葉市内の閑静な住宅街に入った。梓のハンドルを握る手は汗で湿っていて、その手を拭うためのタオルハンカチひとつにしても梓の心を厭に苛立たせた。
千葉市美浜区の閑静な住宅街。梓は車を停めて外に出た。
「あ~、気持ちいいなぁ!それに静かな場所!」
梓は車の中から自分のバッグを取り出して、もう一度静かに眠っているスマートフォンの存在を確認した。
「よっしゃ!それでは行って参ります!」
梓はそう言ったあと、迷う事なく住宅街の中に入って行き、1軒1軒表札を確認しながら目的地に向かった。
「
表札に刻まれた名前をしっかりと確認した梓は、インターホンを鳴らして主が現れるのを待っていた。
「トキタさ~ん!ヒトナリさ~ん!突然すいませ~ん!私、棚森と申します~!少しだけ御時間いただけませんか~!」
その家は、庭の草木の手入れも多分数十年施されていないぐらい荒れていて、外から見る限りどの部屋もカーテンや雨戸が閉められていて、人の気配は全く感じられない。
「常田さん!これ、詰まらないものですけど!」
梓はそう言ってバッグの中から丁寧にラッピングされた「あるもの」を取り出して、居るのか?居ないのか?わからない相手に向かって猛アピールを続けた。
「そ、それってもしかして……」
突然インターホンから男性の声が聞こえてきた。梓は嬉しそうに微笑みながら、応答した。
「はい!常田さんの大好物のサカキヤのエクレアとシュークリーム買ってきましたよ!一緒に食べましょう!」
「……」
「今、玄関の鍵開けました。御一人、ですよね?」
常田 人生と思われる男は、インターホン越しに漸く梓の気持ちを受け入れた。
「1人です!この度常田さんの担当を任せられた棚森と申します!よろしくお願いいたします!」
「あぁ、またあのセンターの人か。懲りないなぁ。もう何人目だろう?」
常田は、また同じような事が繰り返されるのかと辟易気味な言い回しで新しい担当の梓を敬遠した。
「じゃあ、玄関からお邪魔しま~す!」
平静を装っていた梓だが、この時既に御菓子を持つ手や両足が緊張で細かく震えていた。
ドアを開けて玄関に入ると、人の気配は感じられず、感じるのは不気味なまでの静寂と鼻の奥深くにまで突き刺さるような異臭だけだった。
「常田さん!」
梓が呼んでも肝心の常田が現れない。
「どうしたんだろ?居るはずなのに……」
梓は少し時間を気にし始めた。これは梓が自主的にセンターに御願いをして時間外でやらせてもらっている公務。センター長の飯尾からは、
「長くて45分。それ以上はセンターでも容認出来ない。それ以上の時間で棚森の身に何かあってもセンターとしては諸手当も出せないし全て自己責任として対応させてもらう。これは、あくまでも公務の一環だから」
そう言われていた。梓は矢張無謀な行動だったかもしれないと反省して、御菓子の入った紙箱を玄関に置いて帰ろうとした。
「お邪魔しました。また日を改めて御伺いします。失礼します!」
抑揚の無い、小さな声で梓はドアを開けて再び外に出た。
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