第10話:インクの研究
教会歴五六八年十二月
「これで本当に文字が書けるのか、こんな鳥の羽で。
それにこんなモノでインクが作れるとはとても信じられん」
またそんな事を口にしたら、母上に叱られるだけなのに。
「フィリッポ、またレオナルドちゃんを疑うような事を口にして。
もうガマンできません、私はレオナルドちゃんとソフィアちゃんを連れて他のゲルに行きますから、フィリッポはこのゲルで奴隷女と仲良くすればいいわ」
「ああ、ごめん、もう言わないから、他のゲルに行くなんて言わないでくれ。
それに、奴隷女に色目を使った事などないよ。
あれはたまたま用事を言いつけただけなのだよ。
だからそんなに怒らないでくれよ、お願いだから機嫌を直してくれよ」
「母上、父上は色目など使われていませんよ。
奴隷女に用事を言いつけただけなのを私も見ています」
「まあ、フィリッポの事など庇わなくていいのよ、レオナルドちゃん。
フィリッポがレオナルドちゃんに厳しいのは、私以外の女が気に入って、その女との間に生まれた子供に跡を継がせたいからなのよ。
だからね、一緒に他のゲルに行きましょう。
私だってまだまだ魅力があるから、正室に望んでくれる殿方はいるの。
レオナルドちゃんは安心して私についてくればいいのよ」
母上、これ以上父上をからかうのも虐めるのも止めてあげて欲しい。
父上の顔が蒼白になっているではないですか。
母上にべた惚れしている父上は、母上に捨てられるとなったら、何をしでかす事か分からないのですよ。
自暴自棄になって、母上と俺達を殺して後追い自殺すらしかねない人なのだ。
俺にはまだしなければいけない事があって、こんな所で死ぬわけにはいかない。
「謝るから、これからはレオナルドの言う事は全部信じるから。
だから出ていくなんて言わないでくれ、お願いだ、ジョルジャ」
「警告するのはこれが最後ですからね、フィリッポ。
次は何も言わずに出て行きますから、覚悟しておいてね。
それで、レオナルドちゃんは煤と灰を集めて欲しいのね」
怖い、母上の笑顔が心から怖い、俺はもう絶対に女を信じないぞ。
母上に手をつながれてニコニコと笑っている幼いソフィアも怖い。
将来は母上のように夫を尻に敷く恐妻になるのだろうか。
この笑顔を見ていると、恐ろしい女性に育ちそうだ。
妻に罵られた事に激怒した夫に殺されないように、結婚相手には、ソフィアにべた惚れするような男を探さなければいけないない。
「はい、母上、このままではパピルスを作っていても、インクは他の氏族から買わなければいけなくなります。
それではせっかくの富を他氏族に渡さなければいけなくなります。
自分で作れるインクを他氏族から買う事などないと思ったのです」
「聞きましたね、フィリッポ。
レオナルドちゃんがインクを作ると言っているのですから、分家や戦士達に命じて、煤と灰を集めさせなさい、いいですね」
「分かった、分かったから、出て行かないでくれるよな」
「ええ、今直ぐ出ていくのは止めますよ。
でも先ほど言ったように、今度何かあったら何も言わずに出て行きますからね」
「分かったから、これからは何も言わずにレオナルドの言う通りにするから」
これからは何事も父上に相談してから始める事にしよう。
これ以上父上を追い詰めてはいけない気がする。
母上にだけは弱い父上だが、他の人間には情け容赦のない戦士なのだ。
成人した後で槍を手に入れる事ができたら、父上が相手でも負ける事はない。
だがまだ幼いこの身体では、父上に勝てるとは思えない。
父上を追い込み過ぎて暴発させる事だけは避けなければいけない。
「父上、自分達でインクを作る事ができたら、今以上に豊かになれます。
そうなれば、今以上に分家を増やして氏族を繁栄させられます。
父上はもう単なる氏族長ではなく、公国の主なのですから、信用できる戦士を近衛兵として登用した方がいいです。
今の分家や戦士達が信用できないのなら、ロアマ人を登用すればいいのです。
長命種のエルフ族やドワーフ族の忠誠を得られたら、子々孫々の守護になります」
「今直ぐは無理だと言う事くらい、レオナルドにも分かっているだろう」
よかった、俺が提案するような言い方をしたせいか、母上も口出ししてこない。
「はい、父上が氏族長として導入するのは無理だと思います。
最悪の場合、分家や戦士達が王家や他の氏族家と組んで叛乱します。
私の私兵として登用するだけにします」
「それだと、最悪の場合には、分家や戦士達はレオナルドを後継者にする事を拒否するだろうが、その時には勝てるだけの戦力を整えているのだな」
「はい、父上さえ長生きしてくださるなら、大丈夫です」
「分かった、できるだけ死なないようにしよう」
最初はインクを作る話だったのに、段々突っ込んだ話になってしまった。
だがお陰で従属民と奴隷を兵士にして戦力化する許可をもらえた。
だが従属民兵士と奴隷兵士の運用は慎重に行わなければいけない。
分家や戦士の誇りを傷つけるような事があれば、即座に叛乱するかもしれない。
彼らの誇りのよりどころは、自分達が歩兵ではなく騎兵だという所だ。
武士の基準で考えれば、徒士武者ではなく騎馬武者だという所だ。
だったらロアマ人のように歩兵として活用すればいいだけだ。
戦力に関しては基本路線が決まったが、インクとペンをどうするかだ。
油煙と松煙と膠を混合させて墨を作る知識はある。
ここは内陸部だから、ロアマ帝国のように煤とイカ墨からインクは作れない。
没食子インクを作る事は可能だが、それだと万年筆が腐食してしまう。
まあ、だが、この世界の鍛冶技術と現状では、万年筆に職人はさけないよな。
墨と没食子インクの両方を作ろう、いい冬仕事になる。
インクが決まったら、次は紙とペンだな。
これから寒くなるから、紙の事は春になってから考えよう。
今使われているペンは葦を原料にしたペンだが、先ほど父上に献策したように、ガチョウやアヒルの羽を原料にした羽ペンを作ろう。
筆を作るのもいいのだが、良質な毛筆を作るには技術が必要になる。
それよりは羽ペンの方が簡単に作れる。
それに、遊牧民である分家や戦士達には、家禽を飼って利用すると言った方が受け入れやすいだろうし、家禽なら卵を得る事もできれば潰して肉にする事もできる。
アヒルやガチョウを飼うのなら氏族一丸となって協力してくれるだろう。
俺も久しぶりに玉子焼きや目玉焼きが食べたいしな。
厚焼き玉子を挟んだサンドイッチや茹で卵をマヨネーズで和えてサンドイッチにしたものも食べたいな。
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