第6話 リョウ
小さなベッドの上で、女が背中を反らせながら悲鳴のような嬌声を小さく上げた。
男は荒い息を吐きながら口を歪めて笑みを浮かべると、ぐったりとうつ伏せた女の背中の傷を指でなぞった。
しばらくそうしていた男だったが、やがて女から体を離すと起き上がり、シャワー室に入った。
脱ぎ捨ててあった男と女の服。
ずぶ濡れのそれを、男は頭を掻きながら見下ろすと、男の服から煙草の箱を取り出した。
服と同様にぐっしょりと濡れたそれを少し悲しげに見た男は、もう吸えそうにない煙草の箱を放り捨てるとシャワー室を出て、部屋の片隅に放り捨ててあった自分の小さな荷物から新たに煙草の箱を取り出した。
火をつけた煙草を咥え、未だにうつ伏せていた女を左腕に抱えるようにして、男は仰向けで寝転がった。
女の白い指が天井を見上げていた男の視界に入り、その指が男が咥えていた煙草を掴む。
男の口から煙草を奪った女が、それを自分の口へと持っていく。
その行為を好ましく思いながらも、「自分の吸えよ。」と男が言うと、「お前が吸ってるのを吸いたくなった。」と女が返した。
まるで、同じものがいいと言われたような気がした男が口元を緩める。
しかし、女はあっさりと言い放った。
「まずい。」
「この野郎…。」
男が横目女を睨み付けたが、女はそのまま男の煙草を吸い続けた。
「まずいなら返せ。」
「もう慣れた。だから返さない。」
女の言葉に一々翻弄されていることに、男が内心苦笑を浮かべる。
「お前本当に可愛くないな。」
「可愛い女が抱きたければ娼館に行け。」
「お前がいい。」
我知らずぽろりと出てしまった言葉に、少し狼狽えながら男が女を横目で窺うと、女はにやにやしながら男を見ていた。
女の態度に悔しさを覚えたものの、零れた言葉は男の本心だった。
体を起こした男が女に覆いかぶさるようにして口づけ、「お前がいい。」と女を見つめながら言うと、女はくすくす笑った。
らしくない自分の態度に少し気恥ずかしさを覚えた男が、それを隠すようにニヤリとすると、女を見つめたまま言った。
「俺に散々ヤられた気分はどうよ。」
「悪くない。」
本当に可愛くない女だ。
「今度は、良くて堪らないって言わせてやる。」
良くて堪らなかったのは自分の方のくせに。
女が妖艶な笑みを浮かべて男の首に腕を回した。
男が女に口付け、言った。
「でも…ちょっと休憩。」
女がげらげら笑った。
楽しそうに声を上げて笑う女を見下ろしていた男の視界に、ベッドの隣の机の上に伏せられた本が入った。
男がそれを手に取って、ごろりと仰向けになって本を開く。
意外なことにそれは恋愛小説だった。
似合わないなと思いながら、「面白いか?」と聞くと、あっさり「面白くない。」と返って来た。
「じゃあ、なんで読んでんだよ。」
「分かると思うが、私は捨て子だ。だから、あんまり字が読めなかったんだ。マリーと暮らすようになってから、文字を教えて貰った。で、字を読む練習って言って、マリーが色々本を持ってきてくれるんだが…。持ってくる本が全部そんなんばっかりなんだよ。」
少し唇を尖らせながら言った女を横目に見ながら、そういえばこの女は色無しだったと、当たり前のことをすっかり失念していた自分に気付いた。
色無しだから捨てられて、ロクな生き方をしてこなかったんだろうと思いつつ、「マリーって、もしかしなくてもあの大男のことか?」と聞くと、女は頷いた。
「本名はマスタング。でもそう呼ぶと怒るから気を付けろよ。」
今度は男が「マスタングの方がぴったりじゃねーか。」と言いながらゲラゲラ笑うと、女も「実は私もそう思ってることは内緒だ。」と、また楽しそうに笑った。
それから男は他愛もないことを女に聞いた。
それで分かったことは、女は数年目にこの街に流れ着いたこと。
しばらく1人で暮らしていたが、1年ほど前に大男―マリーを道端で拾い、それから2人で暮らしていること。
やはり組合員で、マリーと2人で活動していることだった。
男の質問に女は全て答えていったが、女が男に質問することはなかった。
それが男を苛立たせた。
「名前。」
「なんだ?」
「なんだじゃねーよ。お前の名前。教えろよ。」
あのマリーとかいう大男が、女の名前らしきものを呼んでいたのを男は聞いていた。
だから恐らくそうだろうとは思いつつも、女の口から知りたくて男は聞いた。
「ああ。そういえばそうだな。私はトウコ。」
「トウコ」
呼びたかった女の名前。
男が呼ぶと女は頷いた。
しかしその後、女が何も言わなかったため男は更に苛立った。
この女にとって、名前を聞かないでいいぐらい自分はどうでもいい存在なのか。
「お前な…俺の名前ぐらい聞けよ。」
女がきょとんとした顔をした後に苦笑を浮かべた。
「悪い。お前は?名前を教えてくれ。」
「リョウ」
「リョウ」
その少し低めの声で、確認するかのように己の名前を呟かれ、男の頭は痺れた。
「苗字はないのか?」
やっと女の方から聞いてきたかと思ったら、まさかそれとはな、と男が内心苦笑を浮かべ、「ない。」と言うと、女は少し不思議そうな顔をした。
「なんだよ。」
「いや、そんな綺麗な色の髪と瞳をしてるから。てっきり2区の出かと思ってたんだ。それにしては口もガラもおまけに目つきも悪いから、ちぐはぐな奴だなとも思ってたが。」
この女は本当に可愛くない。
次から次へと嫌なところを突いてくる。
「ちぐはぐはお前の方だろ。口とガラが悪いのはお前に言われたくない。」
「なんで私がちぐはぐなんだ。」
「うるせえな。…それなりに良い家の生まれなのは否定しねえ。だが、苗字があるほどいい家ってわけでもない。そこの三男坊だ。家を継げる立場でもないし、女関係でトラブル起こしてな。家を出た。」
男の言葉に女はふうんと言っただけだった。
その興味なさげな態度に、男はまた苛立った。
ほとんど全てが嘘の言葉を吐き出しておきながら、女の態度に苛立つ己にも怒りを覚えた。
怒りを隠すように男がニヤリとし、女に覆いかぶさる。
「お前、自分より弱い男にはヤらせないって言ってたけど。だったら俺は、お前より強いってことでいいのか?」
女もまたニヤリとすると男を真っ直ぐ見つめた。
「今度はちゃんと殺してやるよ、リョウ。」
この女は本当に。
「俺が殺してやるよ、トウコ。」
嬉しそうに微笑んだ女が男の首に腕を回し、噛みつくように口付けてきた。
いつか必ず。
この女の全てをこじ開けて、自分のものにする。
男はそう思った。
**********
「リョウ?」
己の名を呼ぶ、聞き慣れた少し低い落ち着いた声。
声の方に視線を向けると、少し不思議そうな顔でトウコがこちらを見上げていた。
いつも乱雑に頭の後ろで1つに結ばれている腰まである黒い髪は、今日はマリーの手によって綺麗に結い上げられていた。
あの日。
髪伸ばせよと言った自分に対し、腕の中で甘い声を上げながら、ものすごく嫌そうな顔をして何故だと聞いてきた女。
綺麗な髪だから伸ばせばいい。それに長い髪の方がそそると言ったら、さらに嫌そうな顔をして、嬌声を上げた女。
それから髪を伸ばし始めた女。
「昔を思い出してた。」
「昔?」
「お前と初めてヤった日。」
「ああ、私がお前をボコボコにした日だな。」
「そう、俺がお前を切り刻んだ日だ。」
けらけらとトウコが声を上げて笑う。
トウコの耳に、金の鎖の先に揺れる水色の石。
今日贈ったばかりのそれ。
しっかりと握った、暖かくしっとりとした手。
その指には水色の石がはまった指輪。
今日贈ったばかりのそれ。
この可愛くない女は、そのどちらも家に帰った瞬間に外すだろう。
邪魔だと言って。
それでいい。
それがいい。
マリーが仕立てたドレスを着て、髪を結い上げ、自分が贈った装飾品だけで身を飾ったトウコは綺麗だった。
その綺麗に着飾った姿で、いつも通り可愛げなく笑う女。
「お前本当に可愛くないな。」
「可愛い女が抱きたければ娼館に行け。」
「お前がいい。」
トウコがくすくす笑う。
きっとあの日、この女は既に俺のものになっていた。
そして俺も、この女のものになっていた。
「なあ、帰ったら朝の続きやろうぜ。それ着たままヤろう。」
「本気でマリーに殺されるからやめとけ。」
「新婚の幸せいっぱいの2人をさすがに殺しはしないだろ。」
「今朝もヤバかったじゃないか。マリーを舐めてると痛い目にあうぞ。」
特別な日のはずの今日。
それでもいつもと変わらない、馬鹿な話をしながら。
木漏れ日を浴びながら、木立の中を2人は手を繋いで歩いた。
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