第50話 蛍の観賞会Ⅴ
レイ様に抱きかかえられて進んでいくと
「下ろすよ」
小さい声が聞こえてゆっくりと地面へと下ろされました。
ずっとこのままなのかしらと諦めの境地に至っていたので、思ったよりも早く足が地についてほっとしました。
下ろされた場所は灯りも少なくて足元が暗くて見えづらいのでちょっと不安になりました。けれど、レイ様が手を握ってくださっているので、きっと大丈夫でしょう。
「ほら、前の方を見ててごらん」
レイ様の優しげに囁く声が耳に入りました。
言われる通り夜が訪れた暗闇を見つめました。先ほどまでざわざわと聞こえていた人の声がしなくなり、ジッとその瞬間を待っているかのよう。
ポアンと淡い光が目の前をよぎりました。
「蛍だよ」
最初は一つだった光が二つ、三つと増えて、やがてたくさんの光の乱舞が始まりました。
川の流れる音が微かに聞こえます。草むらに蛍が止まっているのでしょう。点滅する淡い光が川辺を彩っています。まるで光る宝石のよう。空中では夜の静寂に細い糸を引くように光がいくつも交差してたなびいて見えます。私は暗闇に展開する蛍のショーに圧倒されて、夢とも幻ともつかない幻想的な光景に瞬きをするのも忘れてただただ見入っていました。
すると、一匹の蛍が群れから離れて近づいてきたかと思ったら、すっと私の肩に止まりました。
ぴか、ぴかっと点滅を繰り返しながら蛍は吸い付いたように離れません。
「蛍もローラが好きになったようだね」
レイ様の微笑ましそうな声がしました。
「そうなのでしょうか?」
これでは動けませんわ。
「うん。人間が来ると嫌がって逃げてしまうからね。捕まえることはできるけれど、普通は蛍から寄ってきたりはしないんだよ」
「そうなのですね」
ではこの蛍は普通ではないのかしら? 人間が好きな蛍かもしれないわね。
レイ様の言葉に蛍に親近感を覚えてしまうわ。
どのくらいたってからでしょう。蛍が羽を広げて飛び立ちました。
あら、残念だわっと思って行方を追っていたら、今度は私の指先に止まります。
「よほど離れがたいんだろうね」
指先に止まった蛍を目の先へと掲げるといっそう光が強く灯ったように感じました。レイ様も顔を寄せて蛍に見入っているようです。レイ様のお顔が蛍の光でところどころ淡く映し出されて、これもまた幻想的な不思議な光景です。
「連れて帰りたいですわ」
人懐っこい蛍にすっかり魅せられてしまいました。
「それはちょっと難しいかも」
「なぜですか?」
「蛍の寿命は二週間くらいなんだ。だから連れて帰ってもすぐに死んでしまうかもしれない」
「二週間?」
知りませんでした。そんなに短い寿命だったなんて。私はもう一度蛍に目をやりました。
儚い命の昆虫だったのね。何度も光を点滅させている蛍は精一杯命を輝かせているのでしょう。私は蛍を天に捧げるように高くあげました。
私の気持ちが通じたのか、蛍は今度こそ大きく羽を広げて夜空に飛び立っていきました。あの蛍には来年は会えないのね。少し寂しい気持ちになりながら蛍を見送りました。
やがて、蛍たちの群れに紛れてわからなくなりました。
「名残惜しそうだね」
「はい、ちょっとだけ」
ほんとは連れて帰りたかったのだけど、しょうがありませんよね。寿命が二週間では育てる期間がありませんもの。
「幼虫から育ててみたらどうかな?」
「幼虫ですか?」
唐突に何をおっしゃるのでしょう? 幼虫?
「卵からでもいいけど。とにかく成虫になる前からローラが育てれば蛍を見ることができるよ」
「それって、私でも育てることができるってことですか?」
思わず声をあげてしまったわ。
静まりかえった夜の闇に私の声が響きました。私はあっと口を抑えました。
今夜は西の宮の使用人たちも蛍を鑑賞に来ているのだと教えてもらっていたのに、皆さんに申し訳ないことをしました。
「蛍は気にしていないみたいだよ」
目の前の光景は相変わらず蛍が飛び交っていました。私の声は妨げにはならなかったみたいでホッとしました。
「さっきの続きね。環境さえ整えてあげれば蛍は育つから、ローラもできると思うよ」
「そうなんですね」
生き物ですから実際は容易ではないかもしれませんけど、できそうだと聞くと俄然興味が湧いてきます。
「池が出来上がったら、卵か幼虫か持ってきてあげる」
「はい。お願いします」
「約束だからね」
はっ?!
これは……
勢いで返事をしてしまったけど、まんまと罠にかかってしまった?
もう一度、前言撤回ってできるかしら?
「くくくっ」
しまったと後悔していると隣から震えるようなくぐもった声が聞こえました。
レイ様が笑いをこらえて、笑ってるわ。気配でわかるもの。この場でなければ大笑いしているに違いないわ。
「レイ様、何がそんなにおかしいんですか?」
やけになって聞いてみました。
「……」
答えることもできないくらいにおかしいのね。
もう、自分で自分が信じられないくらいにレイ様の思うままだわ。もしかして手のひらの上で転がされているの?
大体、レイ様が悪いのよ。だって趣味が私のツボにはまるのだもの。興味を持っても当然でしょう?
「さあ、行こうか? そろそろお腹すかない? 夕食にしよう」
やっと笑いをおさめてくれたレイ様がそっと手を取りました。
そういえば、今日の夕食は蛍を見ながら四阿でと言われていたのを思い出しました。はしたないですけれどお腹もすいてきましたわ。
レイ様は私の腰に手を置き歩き出そうとしました。
「あの……近すぎませんか? 一人で歩けますよ」
何度となく繰り返す会話です。いつになったらこのセリフはなくなるのでしょう。
「足元が暗いからね。転んだら怪我するよ」
灯りは最小限度で暗いのはわかりますが、ゆっくりと慎重に歩けば大丈夫だと思うのです。
「それとも、抱っこされたいの? その方が安全だね。そうしよう」
「いえ、いえ、いえ。大丈夫です」
私は両手を前に出して全力で拒否しました。そんなことは恥ずかしいからやめてください。
「わかった」
よかった。今度は引き下がってくれたようです。ちょっとあっけないくらいでしたけど。こんなに聞き分けの良いレイ様は初めてじゃないかしら?
レイ様は私の手を取り直して、腰に手を回します。先ほどよりも力がこもっていませんか?
「危ないからね。支えてあげるから、一緒に行こう」
レイ様のエスコートは優しくて紳士的で上手なのですけれど……やっぱりくっつきすぎではないですか?
「レイ様、もう少し……」
「抱っこしてほしいの?」
「……いえ。歩きます」
お姫様抱っことエスコート。
エスコートの方が自分で歩けるだけ、ましよね。きっと……たぶん……
私はなんだか狐につままれたような釈然としない気持ちのまま、レイ様と歩いて行きました。
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