ネイバーズ
あん彩句
第一章
1.はちみつヒトサジ
秋さえ終わっていないと言うのに、今日という日の外はキンキンに冷えている。どっぷり陽が落ちたなら尚更、北風のおかげで体感温度はものすごく低い。だから、出入り口のドアが開くと、そこに煙のような冷気が見えそうだった。
そのドアの向こうから現れた舞は、ぐるっと店の中を見回し、軽く手を上げた私を見つけるとだらしなく肩を落とした——バリっと着込んだブランド物のスーツに容赦なく泥を塗るかのように。
「お疲れ」
ただの挨拶ではなくて心の底から労ってそう言うと、ジャケットを脱いで私の前の椅子を引いた舞が同じ言葉を繰り返した。
「お疲れ~ぇ」
でも、私のとはちょっと違う。少し高めの声で語尾を持ち上げ、ふう、とわざとらしく息を吹く。声はちょっと高め、勘に触るくらいの。だらしなく歪んだ口元に、ヘラヘラと垂れた目——全部を矯正してやりたいけど、そうはしない。
私はグラスを手にしたまま、きっと舞から見たら冷めた目をしてくいっと一口。舞は欠伸しながら、同時に声も吐き出した。
「ほんっとに疲れたぁ。遅くなるって言った
「今日は何? どんなトラブル? それでごめんね、もうこれで三杯目。まあ、私が待ってるとは思ってかっただろうけど」
私は見惚れるような美しい黄金色の液体の入ったグラスを持ち上げた。半分ほど減っているものの、素早く喉へ流し込んだおかげで泡との黄金比は健在。私はそれをまた一口飲んだ。
「それがさーぁ」
メニューを広げ、真剣に見るでもなく舞が言う。
「やっぱりこんな寒い季節だし? お子ちゃまの発熱とか、まあ、しょうがないよね。パートさんは特に小さい子いる人多いし、ねぇ? でもさ、午前に1人、午後に1人って、ちょーう仕事詰まるでしょぉ?」
はあ、とため息を吐いたその場所に、不満のぐるぐるが揺らめいたのが見えた気がした。
本当は舞はそんなことで愚痴らない。なんせ仕事が好きで、早出残業の文句は聞いたことがないんだから。
「もお、私だって今日は快ちゃんと会う約束あるのにって、思っちゃうよねーぇ」
端折りすぎだろ、と突っ込むのは我慢した。私は舞の後ろを通り過ぎる店員を呼び止めて、舞を急かすように食べ物を注文させる。
この店は舞のお気に入りだ。メニュー表を見なくたって、今すぐ飲みたいものと食べたいものを言葉にするのは容易いと知っている。きっとここへ向かってる間に注文したい物の大まかな名前は頭にあったはず。それで追加はまた頼めばいい。そう、最後にもう一杯ビールをお願いするのを忘れちゃいけない。
丁寧に柔かに注文を聞いてくれた店員が向こうへいなくなると、私はビールを一口飲んでから「それで?」を先を促した。早く吐き出してしまえばいいのに、何を躊躇するんだろう。本当に、舞は文句を言うのが下手なんだから。
「何にそんなうんざりしてんの?」
私が更にそう背中を押すと、舞の口が再び不満のぐるぐるを作る。唇を尖らせて、手持ち無沙汰にメニューの角を指でなぞりながら、ブチブチと固くなったところてんを押し出すように言葉を繋ぐ。
「ごめんね、ごめんねって、午前に帰った人はみんなに謝って、すっごい申し訳なさそうに帰っていったの。でもねぇ、午後の人は、子供が小さいんだからしょうがないでしょって、それを承知で私を雇ってるのよねって、それじゃお願いします、なんて言葉だけのお願いしますなの。誰のせいでもないしぃ、私は社員だからやりますけどぉ!」
口調が強くなったところで、それで目を吊り上げて怒っててもぜーんぜん怖くない。迫力ゼロ。それどころか、私が「うるせぇよ」って逆ギレしたら、小声でも舞は泣くだろうな。
ま、しないけどさ。
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