第79話 聖典

 4月17日


 179名の最後の一人が帰り、面接が終わった時には、もう日が暮れていた。

 最後の一人が終わると、誰からとも無く、皆ため息をついた。


「……はぁ、やっと終わったな」


 ドッと疲れが出てきた。

 折角、若いなりに生き死にの覚悟を決めて書類を作ってきたのだから、面接はキチンとしてやらなくてはならない。

 しかし、疲れすぎて脳が麻痺している感じがする。


「予定では、今日は午前で終わって、午後はのんびりと選考のつもりだったのですが……それどころではありませんでしたね」


 ミャロの言うとおり、そのような予定を立てていたのだが、今となっては夢の彼方だ。

 今日中に終わっただけ御の字で、これから全員の選考資料を見ながらの会議などできそうにない。


 俺も、ホウ社の面接は何度かしたことがあったが、百名以上もの面接をいっぺんにしたことなどなかった。

 二十人以上になったあたりから、カフあたりがあらかじめ絞ってくれていたのだ。

 こんなに辛いもんだとは思わなかった。

 というか、一日で五十人とかが無理だったのか。


「……出発の予定を一日ずらそう」


 そう言いだしたのは、リャオだった。


「途中考えていたんだが、やはり調練が一週間を切るのはまずい気がする。隊がオタつくかもしれんし、補給の用意も心配だ」


 予定では、リャオの指揮する補給隊は今日から一週間後の24日に出発することになっていた。

 発表が一日遅れるのでスケジュールを一日スライドさせようということだろう。

 祝日の都合もあるが、そう難しいことではない。


「そうだな……それでいい。元々急ぎ足すぎた気もするしな」


 偵察によってある程度の予測が立っているとはいえ、最前線では突発的な激突で戦端が開かれることもあるし、援軍の本隊が出発するときになれば、渋滞で橋は塞がってしまう。


 だから見物をするなら早めに到着しておきたいところではあったが、少しくらいは仕方がない。

 遅らせたい事情もあるしな。


「キャロル? お前なにしてんだ?」


 キャロルを見ると、会話に参加せず、熱心に机の上の書類を見て、何かを書き込んでいた。


「おかしな評価がなかったか考えなおしている」


 自分の考査を考えなおしているらしい。

 が、どこか浮ついていて集中できていない気がする。


 それは当たり前の話で、朝から晩まで五十人も続けて面接をしたあとに、たっぷり寝て起きた直後のような集中力を発揮できるわけがない。


 まったく、相変わらず真面目なやつだ。

 そういえば、滅茶苦茶真剣なツラをして面接していたな。


「やめとけよ。顔も見ずに書き直したって、逆効果になるだけだ。文面だけ見て考えなおされても、連中も嫌だろう」


 写真があれば大分違うのだが、手元にあるこれには写真も似顔絵もない。

 文字の羅列だけでは人柄まで思い出すことはできない。

 自分が採用する側になると思うが、やっぱり証明写真というのは欲しい。


「……そうかもな。やめておこう」


 思い当たるフシがあったのか、キャロルは筆を置いて、さすがに疲れた様子で眉間を揉んだ。


「それじゃ、今日はこれで終わりにするとするか。みんな良く休んでおいてくれ」


 俺はそう言うと、席を立った。



 ***



 やることがなくなった俺は、少し迷った末に、イーサ先生の講義準備室に足を向けた。


 実は、まだイーサ先生には挨拶をしていなかった。

 なにを話していいか解らなかったからだ。


 コンコン、とドアをノックすると「どうぞ」と涼やかな声が返ってきた。


「失礼します」


 ドアを開けると、驚いたことに、イーサ先生以外に先客がいた。


 教養院の女の子だ。

 彼女は、振り返って俺を見ると、顔を知っていたのか、驚いた顔をしていた。


「あ……お忙しいようでしたら、またにしますが」

 と俺は言った。

「いえ、そうでもありませんが……火急の用でなければ、この娘の質問が終わってからでもよいでしょうか?」

「もちろんです。待たせてもらいます」


 俺は近くの椅子に座って待たせてもらうことにした。


「ここの動詞はここに掛かっているわけですね。主語が三人称女性なので動詞はこう変化します。それで関係副詞が指しているのがここからここの文章ですから……わかりますか?」

「え、えええええーっと」


 女の子は先生に質問をしに来たとは思えぬほど慌てている。

 というか、驚いた顔をしていたから、多分俺が誰だか知ってんだろうな……。

 例のエロ本関係で、とんでもない印象を持ってたりしないといいが……。


「ネーコはロウに会った時、遊んでいたと言ったが、それは嘘だった……ですか?」

「はい、その通りです。良く出来ましたね」

「あっはい! ありがとうございました!」


 女の子はそう言うと、ぺこりと頭をさげて「しっ、失礼しました!」と言って、脱兎のごとく部屋を出ていった。

 イーサ先生に言ったのか、俺に言ったのか……。


「よく来ましたね。ユーリさん」


 イーサ先生は、机に出ていた本を片付けると、微笑みながら改めて歓迎してくれた。


「ご無沙汰しております。イーサ先生」


 イーサ先生は、さすがに出会ってからの八年間の間に印象が変わった。

 しかし、加齢による見た目の変化はあるものの、人柄は相変わらず変わらない。


 思慮深く、物事に敏感でありながら、浮ついたり神経質になる様子もなく、外界と緻密に接している。

 今やシャン語のイントネーションには違和感の欠片さえなく、シャン人以上の語彙を使いこなしていた。


 先生は、席を立って俺の横を通り過ぎ、扉のほうに向かった。

 扉を半分開くと、入り口にあった出入り自由の掛札を裏返し、扉を締めた。


「珍しいですね、こんな時間まで質問者がいるなんて」

「いえ、最近は」


 イーサ先生は再び椅子に座った。


「わりとひっきりなしにおいでになりますね。教室も今年から一つ大きくなりましたし、講義も上下に別れたおかげで、受講しやすくなりましたので」


 なんと、クラ語講座は流行の兆しを見せているらしい。

 あれほど閑古鳥が鳴いていた教室が、生徒だらけになるとは、ちょっと想像できないものがあるが。


「そうだったのですか」

「はい。ユーリさんやハロルさんのご活躍のおかげですね」


 ああ、そうか。

 そういうこともあるよな。


 ホウ社が貿易で大儲けしているというのは周知の事実なので、目端の利く就職希望の聴講生あたりは、受講を希望してもおかしくない。


「お部屋を騒がせてしまっているようで、申し訳ありません」


 俺はぺこりと頭を下げた。

 イーサ先生は、滅多に人の来ないこの私室で、神や歴史に思いを馳せているのが似合っていた。


 ひっきりなしに学生が訪れる状況になって、あの静かな部屋は壊れてしまったのか、と思うと、なんだか寂しい気がする。


「えっ……いえいえっ! そういう意味で言ったのではないですよ。教えるのは楽しいので、なんの不満もありません」

 イーサ先生は珍しく焦った様子で、俺の杞憂を否定した。


「そう言っていただけると、助かります」

「いえ……本当に」

 イーサ先生は少し乱れた髪を、手でそっと直した。

「それに、こうして昔の教え子も訪ねてきてくれるのですから、私は幸せ者です」


 そうなのかな。

 でも、イーサ先生が幸せというのだから、嘘ではないのだろう。

 少なくとも、今は不幸なようにも、仕事にうんざりしているようにも見えない。


「ところで、一つお知らせしたいことがありまして」

「はい……だいたい察しはつきますが、なんでしょうか」


 察しはついているということは、耳には入っているのか。


「えっと、戦場を少し見物しにいくことになりまして、しばらく留守にします」

「そのようですね。世事に疎い私にも聞こえてきていましたよ。くれぐれもお気をつけください」


 現役の王太子が出征するというのは前代未聞のことなので、やはり情報としてかなり広まっているのだろう。

 悪い噂でなければよいが……。


「俺はなんとでもしますが、イーサ先生こそ身辺に気をつけてください。戦争が始まれば、何者かの敵意がイーサ先生に向かぬとも限りません。どうか戸締まりなど厳重に……」


「……そうですね。気をつけておきます」

「はい」

「あの、ユーリさんには言おうかどうか迷ったのですが」

「なんでしょうか?」


 俺が問いなおすと、イーサ先生は少し緊張した面持ちで、話し始めた。


「もし、あちら側に捕まった時は、カソリカ教皇領の者に会って、イーサ・ウィチタの居場所を知っている、自分を逃せば連れてくる。と言えば、なんらかの取引ができるかもしれません。私は構いませんので、もしものときは……」


 …………えーっと。


 なんとまぁ、面白いことを考えつく人だ。

 しかし、イーサ先生はそこまで大物の手配人なのだろうか。


「残念ですが、そこらの騎士ならばともかく、将家の嫡男ともなると、それでは見逃しては貰えないと思います」


 もし、相手が間抜けで俺の身分に気づかなくとも、そういった取引は人質などの担保なしでは成立しない。

 担保もなしに俺を解き放つほど、向こうも間抜けではあるまい。


 いや、例えばキャロル辺りが一緒に捕まって、キャロルが人質として機能する、といったことも考えられるか……。

 考えたくもないが、そうなったら……。


「いいえ、私の名が出れば、聖職者たちは必ずうろたえます。ユーリさんをただちに害することはできなくなるのです」

「そうなのですか?」


 はて? どういうことだろう。


「私は、向こうではとても重要な異端者なのです。教皇領で言うところの、獣級ザ・ビーストの異端者ですね。これは、教会の信仰を大いに脅かす者にかけられるもので、それを捕らえた者は、死後に必ず列聖される習慣になっています」


 ……どんだけドでかいことをやらかしたんだこの人は。

 列聖が確約されるって、どんなサービスなんだよ。


「はあ、なるほど……」

「あちらは、交渉を断るにしても、ギルマレスク大聖堂まで連絡して、管区大司教の指示を仰がなければならない決まりなのです。少なくともその間は、ユーリさんは無事でいられます」


 ギルマレスク大聖堂というのは知らなかったが、名前から察するにティレルメ神帝国のギルマレスクにある大聖堂なのだろう。

 地名は知っていた。

 だいぶ遠いので、キルヒナから駆けるとなると馬で一月ほどもかかる。


 決死の状態から一月も生きられるというのは上等だ。


 無事でいられるかというと、交渉以前に拷問で吐かせればよいことなので、痛い思いは免れないと思うが。


「しかし、たしか十字軍には従軍司教がいるはずでは……? それなのにギルマレスクまで行かねばならないのですか?」


「はい。従軍司教というのは、ただの司教ビショップであって、大司教アーチビショップではありません。司教は司教でも、出世頭のたいへん優秀な方が選ばれるのですが……」


「でも、なぜそのような事になっているのですか? 責任者不在では、何かと問題があるのでは」


 判断のできる責任者が馬で一ヶ月の場所にいるのでは、どうしようもなく不便だろう。

 そういったイレギュラーが生じる可能性は少ないので、問題が表面化するのは稀有ということなのかもしれないが。


「大司教以上の御役目の方々は、軒並みお年寄りなので、寒い北方への長旅などしたくないのですよ。大昔の十字軍では、それこそ教皇自身が出征したりもしたものですが……。現在ではちょっと考えづらいことですね。枢機卿などもヴァチカヌスでの政治に忙しく、丘の上を留守にしたくないようです」


 なるほど。

 確かに、日頃から鍛えている戦争屋の騎士や王ならともかく、修道院暮らしがそのまま年寄りになった連中では、北方まで馬に乗って来るというのも難しいか。


「解りました。もしもの時のために覚えておきます」


 使う気は毛頭ないけれども。


「はい。そうしてください」

 と、先生は安心したように微笑んだ。


「それと……聞いていいものか解りませんが、先ほどイーサ先生はイーサ・ウィチタと言いましたよね。イーサ先生の姓はヴィーノだったと記憶していますが……」

「はい。あれは偽名です」


 イーサ先生はなんともあっさりと言った。

 まあ、それほどの大物ともなれば、偽名を使う必要もあるか。


 というか、ヴィーノというのはテロル語ではぶどう酒を指す名詞である。

 ハロルが船を使ってせっせと運んできているのがそれで、ここ九百年ほどの間、シャン人の酒飲み界隈では、文献にのみ登場する幻の酒であったらしい。

 綿と並んで、我が社の売れ筋商品の一つだ。


 それはどうでもいいのだが、「ぶどう酒」という姓は、農家の出であれば不思議でもないが、イーサ先生のようなインテリ層にあっては、やはり変であろう。

 俺も、ハロルに秘儀を施したのを見たあたりから偽名については疑いを覚え、入国の際にとっさに名乗って引っ込みがつかなくなったんだろうなぁ、とか思っていた。


「政治犯として利用される可能性を考えて、入国するときは偽名を使わせていただきました。できれば、私の本名は、秘密にして頂けると助かります」


 そうか……。

 イーサ先生も、ちょっとやそっとの覚悟で、俺にこんな提案をしたわけではないのだ。


 本名を明かした時点で、かなりのリスクを負っている。

 そんなことは覚悟の上で、俺に生き延びる手段の一つを与えようとしてくれたのだ。


 きっと、俺が戻ってきて、申し訳ありません、キャロルが捕まっているので、人質交換されてくれませんか、と言えば、自分が明らかに死ぬと解っていても、「はいわかりました」と快く応じてくれるのだろう。


 俺は、なんという善意を受けているのだろう。


「もちろん、口が裂けても言いません」

「いえ、口が裂けそうになったら言っても構いませんよ?」


 イーサ先生はいたずらっぽく微笑んだ。

 拷問されたら言っちゃってもいいよ、みたいな感じか。

 いや言わないけど。


「……先生のご厚意は忘れません。ありがとうございます」

「いえ、厚意などとは……。私は、丘の上を去る時に一度は死んだつもりでいますし、この命をユーリさんのために使えるのであれば」


 いや、死んだつもりでいられると、こっちも気が気ではないのだが。


「ヴァチカヌスで何があったかは知りませんが、イーサ先生はこうして生きていますし、僕の大切な恩師ですよ。できれば、命を粗末にしないでいただけると助かります」


 俺がそう言うと、イーサ先生は少し困ったような顔をした。


「確かに、そうですね。自分の命を蔑ろにしながら、ユーリさんにそれを望むのは、いささか説得力に欠けるかもしれません」


 そういうことではないのだが……。

 まあいいか。


「どうかご自愛ください」



 ***



「それと、話は変わるのですが」

「なんでしょうか?」


「先生はお嫌かもしれませんが、少し商売を考えているのです。それで……イーサ先生がその気であれば、聖典を翻訳してみませんか。軽く注釈をつけて」


「えっ? それは……現代シャン語にですか?」


 イーサ先生は、シャン語訳の聖典というようなものを想像したらしい。


「いえ、テロル語です。実は、ハロルがやっているアルビオ共和国との取引が上手くいっているので、印刷した聖典を輸出したら面白いかと思っているんです。正しい教えを啓蒙していけば、少しづつでも意識が変わっていくのではないかと……」


「しかし……どこで売るのですか? 買ってくれる者などいないのでは……」


 イーサ先生はいかにも商売とかしたことなさそうだしな。


「イイスス教圏全体に売ってゆくのです。アルビオ共和国は闇取引の人脈をどこの国にも持っていますから……ホウ紙と印刷技術を使えば、羊皮紙の写本聖典よりもずっと安価に作れます。安ければ売れるというのは、市場原理ですから、嫌でも売れるでしょう」


 聖書の所有は向こうでは一種のステータスになっているはずだから、俺は飛ぶように売れると見ていた。

 これは調査済みだが、向こうでは植物紙はあっても、印刷の技術は未だにない。

 もちろん、シヤルタ王国で製本したなどという情報は、買う人の気分を害するだけなので、伏せる。


 買う人は、もちろんイーサ訳でなく、現行の欽定訳聖典を欲しがるだろうが、安いのはイーサ訳しかないのだから、選択の余地はない。


「ですが……こう言ってはなんですが、私が素直に書いた翻訳を流通させれば、すぐに異端となるでしょう。禁書に指定され焚書されてしまえば、どうすることもできません」


 そりゃそうだ。

 イーサ先生が翻訳した本なら、教会の逆鱗に触れるに決まっている。


 教会が定めた聖典の解釈は、専門用語で”信条”と呼ばれており、これはイイスス教の高位聖職者が招集された公会議で採択される。


 例を挙げると、聖典には、イイススは神の子なのか、神の意思そのものが人間に憑依し、奇跡を起こせる超人のような存在になったのか、または神自身が地上に降りてきた存在なのか、実のところはっきりと説明した文言がない。

 当然、そこが曖昧なままだと教会ごとに教えの内容が変わってしまい、聖職者の説教も統一性がなくなってくる。


 Aという信者が、普段行っているBという教会ではなく、Cという教会に行き説法を聞いていたら、話している内容がBとCでは違う。

 どういうことだろう? と質問をし、C教会の聖職者は青ざめてAを異端者呼ばわりしてしまう。


 実際、イイスス教が拡大し大所帯になるにつれ、そういうケースは多発するようになってしまった。


 そこで、大昔の教皇は公会議を開き、イイススは神とは別個の意思を持った”神の子”ではなく”神そのもの”という解釈を採択し、統一見解ということにした。

 そして、その解釈を拒絶した連中は、異端者ということになった。


 それ以降、何かにつけ問題が起こるたびに公会議は招集されたが、これは定例会議のようなものではなく、問題がおこらなければ数百年も開催されないこともある。

 現在のカソリカ派の教義というのは、そうやって公会議の決定をパイ生地のように積み重ね、過去の決定が不都合となれば引き剥がすことによって形成されてきた。

 

 イーサ先生からの授業で、俺は表層的ながらも、カソリカ派の解釈とワタシ派の見解の違いを知っている。

 ワタシ派では、幾つかの重要な信条を誤りとしているし、聖典解釈もだいぶ違うので、聖典が教皇領の逆鱗に触れるのは間違いない。


 だが、そうなるまでには時間がかかる。


 社会システムが高レベルに構築されていない国家では、辺境で起こった問題が中央に届くまでには、長いタイムラグが生じる。

 この問題において、異端の判断をするのは教皇領だから、教皇領をドーナツ型に外す形で、短期間のうちに一斉に販売すれば、問題になるまでの時間はかなり伸びるだろう。


 アルビオ共和国に金を払えば教皇領の内偵もできるのだから、禁書指定の発議が行われるということになったら、そのとき初めて教皇領に流し込めば良い。


「まあ、その時はその時です。売れなくなったら刷るのをやめますから。そうですね……布教ではなく、啓蒙と思えばいいんですよ。千冊も刷れば、幾ら焚書されようが、一冊くらいは残るでしょう。百年後にそれを見つけた人がいれば、現代では否定されたイーサ先生の考えも、後世に評価されるかもしれない……。そういうのも面白いじゃないですか」


 俺がそう言うと、イーサ先生はまんざらでもなさそうな顔をしていた。

 胸がときめいてる感じだ。


 それはそうだろう。


 イーサ先生は科学者ではないが、思索を趣味とする者であれば、成果として生った果実を世に問いたいと考えるのは、自然なことだ。


 人間は、誰でも自分の足跡を世に残したがる。

 誰にも知られずに消えるのは、あまりに寂しい。


 イーサ先生は、嬉しがってくれるのかと思ったが、笑みをすぐに消した。

 そして、十分ほども長い間、うつむいて黙ったままでいた。


 何を考えているのか察しもつかないが、何かを考えているのは分かったので、俺は音も立てず黙っていた。


 そして、長い沈黙のあと、ぽつりと、


「それは、私にとって大きな選択ですね」


 と言った。


「そうでしょうか?」

 さほど大きな選択とは思えなかった。

「確かに、翻訳作業に時間はかかるかもしれませんが」


「そういうことではありませんよ」


 そういうことじゃないのか。

 というか、なんだか先ほどとは変わって厳しい顔をしていらっしゃる。


「禁書に指定されれば、所有者は異端者ということになります。ただちに教会に提出すれば難を逃れますが、それでも疑いをかけられるでしょう。獄に繋がれ、あるいは処刑される者も出るかもしれません」


 ああ、そういうことか。


 俺にとっては、そんなことは心底どうでもいいし、むしろあちらの混乱は歓迎したいところですらあるのだが、イーサ先生にとっては違うのか。

 そりゃそうだよな。


「それは、そうかも知れませんね……。イーサ先生の御立場を失念していました。お嫌でしたら潔く諦めます」

「いいえ、今のカソリカ派に一石を投じることは、ユーリさんの言うとおり、様々な意味でよい働きがあります。そういった負の側面と比較しても、行う価値はあると思っています」


 だが、イーサ先生はやる気のようだ。

 どういう心境なのだろう。


 天秤が揺れ動いているような心境なのだと思うが、どういう分銅を載せているのかは、わからない。

 イーサ先生の過去にどのようなことがあったのか、俺は知らないので、どうにも察しがつかなかった。


「その意味で、私は決断に迫られているのです。私は既に一度失敗し、大勢の人間の人生を台無しにしました。しかし、そのことを理由に行動しないのは、私の甘えかもしれません」

「…………」


 重く考えすぎなのではないでしょうか、というようなことを言おうとも思ったが、やめておいた。

 それは先生が考えて結論を出すことだし、イーサ先生ほどの人物であれば、軽易な結論には達しまい。


 というか、イーサ先生が嫌なら別に強く迫ろうとも思っていないし。

 金稼ぎ自体を嫌がるかもと思っていたので、嫌なら諦めようと思っていた。


「結論は後日でも良いですよ。僕が帰ってきた時にでも」

「いえ……結論は今出ました」


 へ?

 そ、そうなのか。


「しかし、ワタシ派の訳聖典をお預けするにあたって、ユーリさんに答えていただきたい問いがあります」


 え、なんか変な流れになってきたぞ。

 問いってなんだ、試験問題みたいなもんか。

 図らずも、さっきまで散々面接してきた俺が、面接される側に回ったのか。


「はい……なんでしょうか?」


「戦争というのは、なぜ起こるのでしょうか?」


 ???

 俺は思わず眉をひそめた。


 なんとも茫漠とした質問だな。


 しかし、他ならぬイーサ先生の質問だ。

 子どもの質問ではない。

 先生には持論の一つや二つあるのだろうから、ここは議論に挑むつもりでしっかりと答えるべきだろう。


「なぜ……といっても、理由は様々あると思います」

「例えばどんなものですか?」


 例えば、と言われても。


「集団心理的要因、経済的要因、地政的要因、歴史的要因、軍事的要因……どのような学問分野からも理由付けができますし、どれが正解というわけでもないでしょう」


「続けてください」


 続けてください、って。

 さっきので終わりじゃダメなんか……。


「例えば、隣国同士に経済的格差があった場合、これは戦争の火種になりえます。隣国が富み栄えているのを近くから見ていて、気持ちがいい国民や国主はいないでしょう。その国が脆弱な軍備しかしていなければ、当然に攻めたいという欲求が産まれます。これは明白な戦争開始要因の一つです。しかし、それは複数ある要素の一つであって、全てではありません。経済的格差がなく、隣国同士で嫉妬や羨望といった感情が発生しなければ、絶対に戦争が起こらないのかといえば、そうではない。例えばクルクス戦役などは、まったく別の要因から戦争が起こりました」


 うん。

 これで完璧だろう。

 答えになっているはずだ。


「そうですね……ユーリさんの洞察は、とても優れていると言えるでしょう。ですが、それは私が望んだ答えではないのです。いえ、私の質問が悪かったのですね」


 えっ……。

 なんなんだ一体。


「では、別の質問をします。戦争をなくすにはどうしたら良いと思いますか?」

「……それはまた」


 絶句するような質問に変わった。

 どういう意図があって、このような質問をしてくるのだろう?


 それにしても、この手の質問は久しぶりに聞いた気がする。

 この世界では、戦乱がありふれ過ぎていて、誰もそのようなことは考えないし、日本ではありふれていたこの手の質問も、耳にしたことはなかった。


 ここは深読みせずに、素直に答えておこう。

 その結果、ワタシ派訳聖典を得られなくなったところで、それはそれで仕方がない。


「どこぞの一国が世界中を支配すれば、あるいは一時的に戦争はなくなるかもしれません。ですが、イーサ先生が仰りたいのは、そのような意味ではなく、恒久的に戦争をなくす方法ということですよね?」

「はい、その通りです」


 なんとも難題であることよ。

 難題でなく簡単な問題であるなら、戦争など最初から起きないわけだが。


 人類が一人を除いて絶滅すれば戦争はなくなる、というナゾナゾ的な解答もあるが、それもだめだよな。


 ふう……良く考えて答えんとな。


「昔、世界から武器と軍隊を無くせば、戦争はなくなると言った人がいました。戦争を軍隊同士の戦闘と定義すれば、軍隊をなくせば戦争はなくなるでしょうが、そういう意味でもないんですよね」


「はい。その通りです」


 まあ、そうだよな。


「それでは、争いごとそのものを無くそうという意味になりますね。その方法は、単純に考えて二つあります」

「二つも……ですか。私に教えてもらえますか」


「一つは、『世界から武器と軍隊を無くす』の延長線の方法です。イーサ先生には言うまでもないと思いますが、世界中から武器と軍隊をなくしたところで、戦争はなくなりません。徒手空拳で組織化されないまま侵掠と戦闘をするだけです。人間は素手でも人を殴れますし、殺すこともできる。当然、奪うこともできます。戦闘も掠奪も通常通り行える、ということです。武器と軍隊というのは、殺人を効率化して戦争に勝つために発明した道具ですから、それがなくなったところで、戦争を消滅させる本質的な効果はありません。戦争のありさまは様変わりするでしょうが、それ以上の効果はないでしょう」


「でも、先ほどユーリさんは、戦争をなくせると言いました」

「はい。厳密には、これは不十分なのです。それだけではなく、人間から腕や足や歯……そういったものを奪えば良いのです」


 そういうと、イーサ先生は少し訝しげな表情をした。


「つまり、人間という生物から、あらゆる暴力的な機能を取りはらう、ということですね。もちろん、他人を害することはできない。戦争はなくなります」


「はあ……全人類がそれをやれば、確かにそうですね」


「もちろん、そうしたら人類は生きていけません。自然界の競争に呑まれて絶滅するでしょう。ですが、武力を無くすという手法で戦争を無くすには、そこまでやらなければ意味がないのです」


 実際は実行不可能、ということになるだろう。


「それは、確かに納得できる結論ですね。現実的ではありませんが、想像上の実験としては」


 想像通り、イーサ先生はあまり関心をいだいていないようだった。


「もう一つは、『世界から武器と軍隊をなくす』ではなく、『人間から武器と軍隊の必要をなくす』ことです。つまり、人間から暴力的解決をする必要を無くす、ということですね」


「はい。それは素晴らしいことですね」


 イーサ先生はこっちの主旨の答えを望んでいたんだろうな。


「しかし、実際には、この世界ではありとあらゆる問題の解決手段に、暴力が使われています。男性は女性にいうことをきかせるために暴力を振るいますし、女性は子どもに同じことをします。乱暴者は物欲を満たすために強盗を行い、それを逮捕するときには、やはり暴力によって自由を奪います」


「はい。その通りですね」


「ですから、この解決が想定しているのは、殺人罪や窃盗罪、強姦罪や暴行罪、それらが社会から存在しなくなり、刑罰の執行の機会が消滅することで警吏の必要もなくなった世界。ということになります。そのような世界では、当然に軍も武器も必要なくなり、戦争もなくなるでしょう」


「はい。では、ユーリさんはそれが実現可能だと思いますか?」


 どうやらこれが聞きたかったことらしい。


 SFの小説や映画では、遺伝子操作や人造ウイルス、マイクロマシンなんかを使い、人間を根源的に変化させて、そういった事を行おうとする脳みそを変える、などという事をやっていた。

 俺には、人間の科学がそこまで達することが可能かどうかは判断できないが、科学が無限に進歩すると仮定すれば、実際に人類種から戦争の可能性を奪うといったことは可能になるのだろう。


 が、現状では不可能だし、そもそも人類種を変質させてまで戦争をなくすべきかというと、それにも違和感がある。

 違和感、というか反感、というか。


「その答えは、はい、いいえ、ではしたくありません。はい、と言えば嘘をついたことになるし、いいえ、と言えば可能性をなくしてしまうことになる。安易にどちらかの答えを出すのではなく、諦めずに努力をしていく姿勢が、前進をみちびくのです。その努力が成就すると信じるのかは別として」


 薬にも毒にもならない結論だが、こう締めくくるしかない。


「……ユーリさんのお考えは、良く解りました」

「……そうですか」


 うーん、ダメかな。

 どういう意図の質問だったのかわからんが。


「聖典については、精一杯翻訳させていただきます」


 なんだか知らんが、あれで良かったらしい。


「さっきのでよかったんですか?」

「はい。ただ、私は確かめておきたかっただけなのです。聖典は、そうしようと思えば、社会を混乱させる道具として使うこともできますから。そうならなければ良いのです」


 いや……社会を混乱させるというか。


「いえ、僕は……俗なことを言いますが、お金を儲けたいだけです。陰謀めいたことは考えていませんが、正しい信仰を願って慈善の行いをする、などという高尚な考えを持っているわけではありませんよ」


 お金はちゃんと取ります。


「分かっていますよ。お金を稼ぐことは悪いことではありません。ただ、聖なる道具も悪意……この場合は害意・・と呼ぶべきですね。害意によって扱われれば、悪い結果をもたらしてしまいます」


 つまりイーサ先生は、ワタシ派訳聖典の配布によって発生した信者を、俺がいいように、私利やシャン人のために利用することを恐れていたわけか。


「ユーリさんは、私が戦争を嫌っているとお思いでしょう」

「そりゃ……そうでしょう」


 当たり前だ。

 聖典は戦争を否定しているわけではないが、認めているわけでもない。


 認めるとしても、それは権威に圧されての消極的な肯定であるべきで、自分から私利を追い求めて積極的に肯定するなどということは、聖職者のすることではない。

 イーサ先生は、立派な聖職者なので、そのようなことはある筈もない。


「私を利用したいのであれば、聞こえの良いように戦争を否定する答えを話したはずです。だから、安心して預けられるのです」


 その理屈はよくわからないが……。


「……単に考えていなかっただけかも知れませんよ? あちら側の混乱は僕に益するところですから、利用価値を認めるようになれば、利用するかもわかりません」

「そうかも知れませんね。だから、お願いします。お預けする聖典はイイスス教徒の幸福のために使ってください」


 お願いされちゃったよ。


「分かりました。そのようにします」


 元より、イーサ先生の意に反して利用するつもりなどない。

 制限がつくなら、余計な欲を張らずに、利用の範囲内で使うだけだ。


「はい。ですが、それもユーリさんが無事に戻ってきてこその事ですからね。繰り返しますが、くれぐれもお気をつけ下さい」


「わかりました。気をつけます」

 折角イーサ先生が書いたもんが無駄になったら悪いからな。


「では……少しお手を貸していただけますか」


 ?

 俺はイーサ先生に右手を差し出した。


 イーサ先生は、少しかさついた手でそれを取り、両手で包み込むようにして俺の手を握った。

 肌が乾燥しているようなのに、手のひらは温かい。

 今度、手に塗る油でも差し上げようか……。


 ふとそう思った時、イーサ先生は、少しかがんで俺の手の甲に軽く唇をつけた。

 唇と同時に、手を解き放つ。


 急なことに俺がびっくりしていると、


「おまじないです。ご無事に帰ってきてくださいね」

 と、イーサ先生は微笑みながら言った。

「……わかりました」


 なんだか照れくさくなりながら、俺はイーサ先生の部屋を後にした。

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