娘vs雨のち晴れ

「歩美、晩ご飯よ」

 麻由美が呼びかけても、歩美は部屋から出て来なかった。鍵など無いのだから入ろうと思えば部屋には簡単に入れる。強引に連れ出すこともできよう。

 しかし今はそうすべきではない。

「麻由美、今はそっとしておこう。なに、腹が減ったら必ず出て来る。よしんば粘ったとしても一日食わんくらいで死にはせん」

「でも……」

「お前も、今日は心の整理がついておらんだろう。もう休みなさい。正道と柔は俺が見ておくし、歩美が出てきたら飯も食わせる」

「……お願いします」

 妻は素直に言うことを聞いてくれた。それだけ弱っておるということだ。

 帰宅後、俺も事情は聞いた。まさか雨道殿の死の原因が、彼の双子の姉にあったとはな。

 俺は雨道殿と面識が無い。だから一歩引いた立ち位置で冷静に振る舞える。それにあの御仁……時雨殿も酷く憔悴しているように見えた。葛藤の末の告白だったのだろう。開き直ったり罪の意識から逃れようとしている風には見えなかった。そんなことのできる器用な人間ならば、もう少し血色が良かろうよ。

 歩美は今年十四になった。十四年以上も罪の意識に囚われ、己を責め苛んで来た人間を批判するなど俺にはできん。話を聞けば故意でなかったことは明白だしな。誰のせいでもない不幸な事故だ。無論、だから許してやれなどと麻由美と歩美に言うつもりは無いが。

(どんな結論を下すかは、あやつら次第よ)

 柔と正道がむずがったので両手で一人ずつ抱いて縁側に座る。こやつら何故か夜はここへ来ると簡単に泣き止む。不思議な話だ。不思議だが、それに気が付いて以来いつも利用させてもらっている。

 そういえば……前にもこの場所で奇妙な体験をしたな。やはり今日のように月の青い夜だった。


 時折、おかしな疑念を抱く。

 月とは、あんなにも青いものだったろうかと。


 誰もが月は青くなるものと信じ疑っておらぬ。それが、どことなく不可解なのだ。昔は違ったような、そんな気がする。

「いや、まさかな」

 馬鹿な考えだとフッと笑って月を見上げる。見事な満月だと思ったが、よく見れば上の方が少し欠けておるか?

 満ち欠けか……月のそれと同じように人の一生も苦楽の繰り返し。普段は平穏な我が家にも今日のような嵐が訪れることはある。幸と不幸、どちらか一方だけなど……無いことは無いのだろうが、普通に生きている限りは大抵、交互にやって来るものだ。

 そんな俺の考えに同意してくれたかのように雨まで降り始めた。月は雲に隠れてしまい、せっかく泣き止んだ二人がまたむずがり始める。いかんいかんと立ち上がって振り返ると、そこにはいつの間にか部屋から出て来た歩美の姿があった。

「どうした、腹が減ったか?」

「……うん」

「ならば待っておれ、飯を温めてやる。その間、この子らを頼むぞ」

 俺は二人を歩美に預け、とっておいた歩美の分の夕飯をレンジに入れた。




「……パパ、あの人のせいで死んじゃったんだって……」

「……うむ、そう聞いた」

 事実は事実だ。否定しても仕方が無い。

 歩美はもそもそと飯を口に運び、噛んで、飲み込んでから再び口を開く。

「ひどいよね」

「そうだな」

「あの人が病気なんて持ち帰らなかったら、パパはまだ生きてた」

「ああ」

「ママと結婚して、幸せになってたよ」

「ああ」

「……なのに、なのにさ」

 泣き腫らした目で、なおも泣き出した歩美の顔を見つめる。

「私、あの人に怒れなかった……ひどい、よ……パパのために怒れなかった……」

「それでよい」

 すまんな、正道、柔。少しだけ座布団の上で寝ていてくれ。

 俺は娘の頭を抱く。

「あの御仁が傷付いているとわかったから、怒れなかったのだろう。それでよい、それでこそだ。お前は優しい子に育った。雨道殿も喜んでおる」

「なんで、わかるのさ……会ったこともない、くせに……」

「お前も無かろう。だが確信できるはずだ」

「……」

「お前の実の父だぞ、優しくないはずがあるまい。あの麻由美が俺より先に結婚の約束をした男だ。度量が狭いこともありえん」

 震える肩を軽く叩く。赤子をあやす時のように。

「前にも言っただろう、お前は歳の割に頑張り過ぎだ。泣きたいなら泣け。辛い時は弱音を吐け。雨道殿に代わって俺が聞いてやる。それも父となった俺の役目よ」

「……!」

 こやつめ、これだけ言っても、まだ声を殺して泣くか。まあ、そういう強情なところもお前らしさなのだろう。

「まったく大した娘だ。俺も雨道殿も、三国一の果報者よな」




 翌日、再び時雨殿と自宅で顔を合わせた。歩美は体調不良と連絡して休ませ、俺も急遽休みをもらった。事情が事情だけに全て話せたわけではないのだが、存外あっさり許可が下りた。不思議ではあるもののありがたい。今度上司に礼をせねば。

 今日また時雨殿に会うことは歩美が決めた。どうしても言いたいことがあるらしい。俺と麻由美は話し合い、その意志を尊重することにした。

 居間で対面する俺達。こちらが三人に増えたのと同じように、今日は向こうにも新たな顔が増えている。時雨殿、そして歩美や雨道殿にも良く似た顔立ちの女性。本当に似た顔ばかり生まれる一族なのだなと思ったが、それ以上に相手の素性を聞いて驚かされた。


「はじめまして、鏡矢 雫と申します。我が一族の当主とカガミヤグループの総帥を兼任しております。この度はうちの者がご迷惑をおかけしました」


 カガミヤの総帥で鏡矢一族の当主ということは……日本どころか世界でも屈指の資産家ではないか。知らんうちにこんな大物と親戚になっていたなど想像もしておらんかった。

 それにカガミヤの社長さんと言えば美樹と友也が……いや、そんなことより名乗られておいて何をボケッとしておる。こちらも名乗り返さねば。

「これはご丁寧に。大塚 豪鉄ごうてつと申します」

 よし、なんとか動揺を面に出さずに済んだぞ。内心ホッとしておると、目の前の女傑はくすりと笑った。

「聞いていた通りの御仁のようで。妹さんと義理の弟さんには、大変お世話になっております」

「いや、こちらこそ二人がたびたびお世話に」

 やはりか、前に聞いたことがあったのを思い出した。美樹と友也にわけのわからん遺跡調査の仕事を何度も頼んでおるのは、この女性なのだと。

 まあ、それは今回関係無い。

 俺は居住まいを正し本題を切り出す。

「さて……昨日、そちらの時雨殿から伺ったお話についてですが」

 ちらりと顔を見ると、さっきから俯いたままの時雨殿は断罪を待つ罪人のようにびくりと肩を震わせた。ひどく怯えておるな。

 しかし、それでは困る。

「時雨殿」

「は、は……はひっ」

「しゃんとして欲しい。今から歩美が大事な話をする。きちんと聞いてやってくれ」

「えっ……」

「背筋を伸ばせ!」


 ──凄まじい音がして時雨殿がのけぞる。雫社長が背中を叩いた。


「あ……かっ……」

「何のために私に無断でここまで来た! 一旦始めたことには責任を取れ!」

「は、はい……」

 歯を食い縛り、目を血走らせて歩美を見つめる時雨殿。だ、大丈夫だろうか……背中が破裂したのではないかと思うほどの音だったが、あの細腕でいったいどんな怪力だ。

「話を聞ける状態ですか?」

「心配いりません。こいつは頑丈さなら我が一族でも随一です」

「はい。その、もう、大丈夫です」

 お、なるほど、顔色が良くなってきた。思ったより大したことは無かったのか。しかし気のせいか今、背後に妙な光が見えたような……?

 まあよい。ともかくここからは歩美の番だ。

「歩美」

「……うん」

 俺が促すと、これまでずっと黙っていた娘は顔を上げた。まっすぐ時雨殿を見据え口を開く。

「私は、まだあなたを許せません。そんなにすぐに許したらパパに悪いと思います。パパが本当にそう思うかどうかはともかく、私自身が納得できません」

 ほう……と雫殿が小さく声を漏らす。

 構わず歩美は続ける。

「でも、父さんが……こっちの、ここにいる父さんがついこの間ママに『何と戦ってるんですか?』って訊かれて、こう答えました……『自分とだ』って」

 いや、それはお前もだったぞ。

 つまり、そういうことか?

 予想通り歩美は言い放つ。いや、要求する。

「私も自分に負けたくありません。ずっとあなたを恨んだままぐちぐち言うようなかっこ悪い大人になりたくない。だから、お願いします時雨さん。これからも私とママに会いに来てください!」

「は、はいっ! 私にできることなら、なんでも──え……?」

 意外な展開だったらしく、目を丸くする時雨殿。

 一方、俺は誇らしさに胸を張る。

「今、なんて……?」

「私とママに会いに来てください! 私達、まだあなたのことをよく知りません。パパのお姉さんなのに、全然知らないんです。だから、たくさんあなたのことを教えてください。私達が知らないパパの話を聞かせてくれてもいいです。どんな方法でもいいから、私達に、あなたを許させてください」

「……そん、な」

 呆然としている彼女を見て、俺も追撃をかける。深く頭を下げ、頼み込んだ。

「父として夫として、自分からもお願い申し上げる。どうかこれからも二人に会いに来てくださらんか」

「……私からも、お願いします」

 麻由美まで頭を下げる。それを見て歩美もならった。親子三人平身低頭。

 困惑したのは当然、時雨殿。顔を上げなくとも狼狽ぶりが伝わって来る。

「そ、そんな、よしてください。私の方が、頭を下げるのは私がすべきことです!」

 少しだけ顔を上げてみると彼女もまた土下座していた。ううむ困った、互いにこの状態では千日手ではないか。話が先へ進まん。


 どうしたものか思案していると、凄まじい衝撃と共に家全体が揺れた。


「ぬおっ!?」

「じ、地震?」

「お顔を上げてください、お三方」

 言われるまでもなく驚いて身を起こした我等が見たのは雫殿に上から手の平を叩きつけられ文字通り床にめり込んでいる時雨殿の頭だった。

「時雨さんっ!?」

「何をしておられる!?」

「お、伯母さん!?」

「ははは、心配御無用。さっきも言ったがこいつの頑丈さは折り紙付きです。この程度のことでは怪我一つしません」

 そんな馬鹿なと思ったが、

「社長! ぽんぽん人を叩くのはやめていただきたい! あなたの馬鹿力は凶器なのだと、いいかげん自覚すべきです!」

「馬鹿者! 私は相手を見て適切に加減している! お前のような石頭には、このくらいしないと駄目なだけだ!」

「人様の家の床まで壊しておいて!」

「無論、修理費用は私が持つ。お前がご迷惑をかけた詫びに、こうして慰謝料も持参してある」

 雫殿がアタッシュケースを開くと、そこには札束が──見えた気がしたが時雨殿によりすぐに閉じられた。

「常識的な金銭感覚も身に着けてください!」

「世界的大企業のトップが常識などに囚われてたまるか! そんなものは魅力ある製品やサービスを生み出す上で邪魔にしかならん!」

「ああ言えばこう言う!」

「それが私だ!」

 顔の良く似た二人は、ここが俺達の家だということも忘れて口論を重ねる。いい加減に止めるべきかと迷っていると、不意に歩美が笑い始めた。

「あ、あは……あはははははははははは!」

「あ、歩美ちゃん?」

「む?」

 きょとんとして振り返る二人。娘は涙を拭いながら言う。

「そ、そんな感じです。そういう風にもっと私達に時雨さんのこと教えてください。そしたら、いつか許せると思います」

「そうね。私達は親戚になったのに、あまりに互いを知らなすぎたわ」

 麻由美も歩美に同意する。それがお前達の決断なら俺も支持しよう。

「だそうです。是非また遊びに来てください。我が家はいつでも歓迎します」


 月欠けて 雨が降るとも 道続く


(月は満ち欠けを繰り返す。雨は降ったら必ず止む。いつまでも続く幸せは無いのかもしれんが、永遠に続く不幸もまた、無いはずだ)




「必ず、また来ます」

 時雨殿はそう約束して帰って行った。どこか納得のいかない風情だったが、おそらくは自分で自分を許せないのだろう。

 あの御仁は罰して欲しかったのだ。それに対する歩美の提案は、あるいは優しすぎるのかもしれない。

 しかし、納得できずとも約束は守ってもらうぞ。来ないのなら、こっちから押しかけてやる。天下のカガミヤの本社だろうと本家だろうと知ったことか。うちの娘が選んだ道だ。俺はその歩みを可能な限り助けるまでよ。

 夜になり、正道と柔も加え五人で縁側に座った。今宵も月が美しい。この月を見ながら語らいたくなった。

「歩美よ、よく頑張ったな」

「……ん」

「パパも喜んでるわ」

 すまん、六人であったな。麻由美が雨道殿の遺影を持って来て歩美の傍らに置く。

「本当はさ」

 歩美は青い月を見上げながら告白した。

「本当は、もう許していいって思ってるんだ。多分、許せるんだ。あの人、すごく辛そうだったから。パパならそう言うって、そんな気がする」

「……だと思うわ」

 麻由美が言うなら、実際そうなんだろう。

「でも、すぐに許されたら、あの人はきっと、もっと辛くなると思う。だったら私が我慢しようって、そう思った。許すのを、しばらく我慢して、待つよ」

「許すのを我慢するか」

 俺には無かった発想だ。こやつめ、早くも親を超えたか。

「まったく、お前はできた娘だ」

 頭を撫でてやる。最近嫌がるようになってきたが、今日は受け入れてくれた。麻由美は歩美と手を繋ぐ。

 気のせいか、月の光がいつもより柔らかい。遺影に写る雨道殿の笑顔のようだと、そう思う。

 直後、雨が降った。天気は良いのにな。

 そしてすぐに止む。通り雨だったらしい。

 雨上がりの夜空は、なお空気が澄んでいていっそう爽快に晴れ渡る。歩美はそんな空を見上げたまま涙を堪えて言った。


「パパ、ごめん、もう少しだけ待ってね。絶対、あの人を許してあげるから」


 ありがとう、そんな声が、どこからか聞こえた気がした。

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