香子先輩は遠距離恋愛をしている

水月康介

01.香子先輩は遠距離恋愛をしている

 放課後の体育館。


 男子バスケ部は試合形式の練習中だ。

 その脇では他の部員たちが休憩がてら観戦している。


 とはいえ、ほとんどの部員は男子の試合など眼中にない。

 隣のコートの女子バスケ部の方に目が向いていた。


 中でもみんなの注目を集めているのは――


「やっぱり瀬川せがわ先輩だよな」


 チームメイトの粟木あわきがしみじみと言った。


 瀬川香子こうこ先輩は、女子バスケ部の中心選手だ。ディフェンスを翻弄するパスと、切れ味鋭いドリブル、そして正確無比のシュート。明らかに頭ひとつ抜けた実力を持っているのが傍目はためにもわかる。


「確かにプレーひとつひとつの精度が段違いだよ」


 同意する僕。

 しかし粟木は、話が食い違っているみたいな妙な顔をする。


「そうじゃないんだよなぁ」


「何が」


「ハードな練習中だと表情を作る余裕なんざないはずなのに、あまりにも綺麗なその横顔。頭ひとつ抜けてるよな」


 外見の話をしていたらしい。


「もうちょっと声落とした方がいいんじゃない」


 あまりに明け透けな物言いを、僕はやんわりとたしなめた。

 香子先輩の容姿が優れているのは認める。

 誰もがそう思っているだろう。

 だが、それを女子側コートのそばで口にするのは危険すぎる。

 他の子に聞かれたらどうするんだ。


 そんな心配をしていると、こちらに近づいてくる女子が一人。

 明らかに聞こえていた距離だ。遅かったか、憐れ粟木。


 女子を敵に回して生きていくのは大変だろうけど、心を強く持ってほしい。

 僕は巻き込まれないように遠ざかろうとする。


 ところが、その子の反応は想像とは違うものだった。


「ホント、きれいだよねぇ香子こーこ先輩って。ただ美人なだけじゃなくて、動作のひとつひとつに華があるもん」


「おお、わかってるな媛宮ひめみや


 弾んだ声で粟木が言う。同好の士を見つけてうれしいのだろう。


 媛宮乃愛のあは、ひと言でいうなら香子先輩のファンだ。

 プレースタイルを真似したり、同じバスケットシューズを使ったり、休憩時間にはアドバイスをもらうためにまとわりついている。香子先輩を慕う女子は多いが、媛宮はその筆頭みたいなやつなのだ。


「華があるっていうか高嶺の花っていうか、ちょっと近寄りがたいよね」


 僕がぼそりと口を出すと、媛宮の目つきが鋭くなる。


「それは何も知らない素人の印象よね、表面しか見ていない浅はかな考え。こーこ先輩はあたしたちみたいな下々の者にもやさしく接してくれるんだから」


 やたらと香子先輩を持ち上げる媛宮。

 しかし香子先輩は別に貴族でも華族でも上流階級でもないのだが。


「下々か……、じゃあ俺でもワンチャン付き合えるのか?」

「それはない」

「それはないでしょ」


 僕と媛宮の声がそろった。


「うっせ、わかってるよ、言ってみただけだ」


 やさぐれる粟木に、媛宮はさらに汚物を見るような目を向ける。


「だいたい、こーこ先輩は彼氏いるじゃない」

「でも遠恋だろ、会えない時間が長くなると、心のすき間が開いてくもんだろ」


 かすかな希望にすがるように語る粟木。

 その言葉には一理あるかもしれないが、大切な現実を忘れている。


「仮にすき間ができたとしても、そこに入るのは粟木じゃないから」


「そんな切ない顔で諭すなよ腹立つな……」


「こーこ先輩をその辺の尻軽女どもと一緒にしないで」


 媛宮の暴言もなかなか過激だ。他の女子に聞かれてないだろうかと反射的に周囲を見回したが、幸いこちらを気にしている子はいなかった。


「付き合い始めた時点でいずれ遠恋になることは分かってたんだから、覚悟の上ってことでしょ。一途な思いは距離を超えるの。クールな外見の内にそんな熱い想いを秘めてるところも格好いいよねぇ」


 姫宮の称賛はやがて敬愛へと至り、コートを駆ける先輩にうっとりした視線を向けていた。


「厄介な信者だな」

「ホントにね」


 僕と粟木はこそこそとささやき合う。


「だいたい何しに来たんだあの信者は」

「たぶん監視じゃないの」

「監視って俺らを? ……え? 冗談だよな?」

「半分はね」


 だから半分は本気である。


「自分の神が周りからどう思われているのかは、信者にとって一大事だ。批判的なことを言っているなら、その愚かな考えを矯正しなければならないし、肯定的だったとしても、そこに下心が混じっているようなら、やはり修正しないといけない」


 媛宮はそんな責任感でもって、香子先輩の噂をしている僕たちに近づいてきたのだろう。


「つまり……、俺たちは瀬川先輩を批判してはいけないし、性的な目で見てもいけないってことか」


 神とか信者とかは大げさかもしれない。

 しかし事実として、香子先輩に尊敬の念を向ける女子生徒は多い。

 コート外で観戦中の女バス部員も、結構な数が香子先輩を見ている。


 実力があって見た目もいい。

 さらに年上の彼氏持ちで遠距離恋愛中。

 となると、特別視されるのも仕方ないことだ。

 本人がそれをどう感じているかはともかく――


 などと思案しているときだった。


 女バス側のコートからボールが飛び出て、こちらへ転がってくる。

 何度か弾んでネットに当たり、勢いを弱めて、やがて止まった。


 そこで、僕たち三人の間に緊張が走った。

 ボールを取りに来たのが、話題の香子先輩だったからだ。


 媛宮は音もなくその場を離れる。

 僕と粟木はそろって口を閉じた。


 直前まで噂をしていた当人が近づいてきたので気まずい、というのもあるが。

 この緊張感は、香子先輩の持つ雰囲気のせいでもある。


 香子先輩には、雑談や遊びのたぐいを許さない、張り詰めた雰囲気があるのだ。もっとも、本人がそれを強要しているわけではない。凛とした外見や、先輩の持つ武勇伝のせいで、周りが勝手に縮こまってしまうのだ。

 実際に接してみると、そんなにピリピリした人ではないのだけど。


 大人しくなってしまった後輩たちを気にする様子もなく、香子先輩はかがんでボールを拾い上げる。そして顔を上げるときに目を合わせると、僕だけに届く絶妙なボリュームで、



「――練習が終わったあと、いつもの場所で」



 とつぶやいた。

 その声は、隣の粟木には聞こえていない。


「はい」と応じる僕。

「ん? どした?」


 首をかしげる粟木を横目に、僕は瀬川先輩の姿に見入っていた。

 ワンバウンドで味方にパスを出すと、ボールを追いかけてコートへ戻っていく。


 パスを受けて、すぐにリターン。

 切り返してマークを振り切る。

 フリーになってボールを受けると、今度はドリブル。

 緩急だけで一人抜き去って、ライン際を駆け抜ける――


 風のようなその動きについて行ける選手はおらず、唯一、先輩の後ろで束ねた長い黒髪だけが、自身の動きを追って流麗になびいていた。


「もうちょい視線の感情抑えろよお前……」


 横からの呆れ声には聞こえないふりをした。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 部活を終えて外へ出る。見上げた空はまだ明るかった。

 六月に入って日没が遅くなっている。


 僕はいつもの下校ルートから外れて、香子先輩との待ち合わせ場所へ向かう。

 閑静な住宅街の中にある喫茶店。

 そこが香子先輩の言っていた〝いつもの場所〟である。


 入り口のドアを開けると、からん、とカウベルが鳴った。


 冷房の効いた店内には穏やかなピアノ曲が流れている。ファミレスやファストフードと違って落ち着いた雰囲気で、あまり学生向けとは言えない店だ。


 しかし香子先輩は、いちばん奥のいつもの席に、違和感なく座っていた。

 違和感がないどころか、主のような気品と風格さえ漂っている。


「お待たせしました」


 声をかけつつ先輩の正面に座った。


「大丈夫よ、わたしも来たばかりだから」


 香子先輩はそう言って、湯気の立ちのぼるコーヒーカップに口をつける。


 さっきまで汗を流して駆け回っていたとは思えない涼やかな表情。

 部活で着ているTシャツの半袖もいいが、夏服の半袖も素晴らしいと思う。


 とはいえ、あまり無言で見つめるのは不自然だ。

 僕は用意されていた氷水を一気飲みしてから、尋ねた。


「今日の用件は、やっぱり高明たかあき先輩のことですか?」


 質問というより単なる確認だ。

 この店に呼ばれる理由なんてそれしかない。


 倉知くらち高明。香子先輩の彼氏だ。

 男子バスケ部のOBで前キャプテンであり、今は県外の大学へ進学している。

 

『倉知先輩のことが好きなんだけど、どうやったら付き合えるかしら』


 ――そんな相談を受けたのが去年の今頃。


 以来、香子先輩の恋愛について、この店で何度となく相談を受けてきたのだ。

 その内容は、好きなアーティストやよく読むマンガなどの共通の話題探しから、好きな女子のタイプといった実用的な相談まで。

 苦労の甲斐もあって二人は無事に付き合うことができた。

 

 その後、香子先輩が三年生に、高明先輩が県外の大学にと、それぞれ進級・進学して遠距離恋愛になってからは、ときどき香子先輩の近況報告を聞くだけの場になっていた。


「先輩?」


 沈黙が長かったので、もう一度呼びかけてみる。

 香子先輩は静かにコーヒーカップを置き、頬杖をついて窓の外を向いた。

 そして、はあ、とはっきり聞こえるくらいのため息をつく。


 わかりやすい落ち込みのサインだが、いつものことだ。

 この前置きに続くのは、どうせグチのふりをしたノロケなのだから。

 

 他に恋バナできる相手はいないのかなと呆れつつも、香子先輩のプライベートを聞けるのは僕だけなのだという特別感もある、複雑な気分で続きを待つ。


 ところが。

 香子先輩の相談は今までにないものだった。




「――わたし、浮気されてるかもしれない」

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