第10章 【ロケットスタート】

 先ほどまで、うるさいくらいにあちこちに電話をかけたり、ああでもないこうでもないと互いに話し合いをしていた後部座席のヤクザ2人はすっかり静かになっていた。

もっとも平沢に関しては地響きのような豪快ないびきをかきながら眠っているので、というのは語弊がある。

後長に関しては仙台の組事務所出て以来ほとんど口を開いていないので、先ほど平沢との件で話し合ったり、電話をかけているのが意外に思えるほどだった。

そんな彼も今はすっかり黙り込んでしまい、ただひたすら車窓から流れる風景を眺めていた。


 『仙台宮城ICインターチェンジ 出口 500m先』の標識が見えたので程なくして左ウインカーを出し速度を落としてランプウェイに入る。

後部座席から一定のリズムで聞こえてきた地響きのようないびきが止んだ。どうやらランプウェイのキツいカーブのせいで身体を揺さぶられた平沢が眠りから目を覚ましたようだ。


「ふあぁー……。 今どこだ? 小野寺」


「仙台に着きましたよ。今高速道路を降りるところです」


 ルームミラー越しに見る平沢はまだ半分寝ぼけているように見えた。

紫の下地に白いゴシック体の字で『ETC』と書かれたゲートを通過すると、すかさずスピーカーから無機質な女性の声が「料金は1,060円です」と通行料金を告げた。


               *


 組事務所の前で平沢と後長の2人を降ろす。

ビルの前には既に作業服に身を包んだ組員たちが整列をして並んでいた。

皆一様に胸のポケットの部分に『浅井総業』とオレンジの糸で刺繍されたグレーの作業服を着ていた。


「お疲れ様です」


 平沢達2人が車から降りると、ピッタリと息の揃ったまるで軍隊の号令のような挨拶が車の中まで聞こえてきた。

平沢がこちらに振り返り助手席の窓ガラスをコンコンと叩いている。

みちるが窓を開けると平沢がポケットから財布を取り出した。


「お嬢ちゃん、それと小野寺。お前ら、そんな恰好じゃ土木工事の現場に入れねぇぞ。ホラ、これでヘルメットと作業服、それに安全靴と防水の軍手でも買ってこい」


 そう言って財布の中から1万円札を何枚か差し出した。


「えー、いいんですかぁ? 組長さん、ありがとうございますー」


そう言って金を受け取るみちるの声はいつになく明るい声に聞こえた。


「そうそう、急いで戻って来たから昼飯も食ってねぇよな。ホラ、これでなんか食っとけ」


平沢はそう言うと、財布からさらに1万円札を取り出して、みちるに手渡した。


「わー! 組長さん! 太っ腹! ありがとうございますー」


みちるが更にはしゃいだような声色でそう言った。


「平沢さん、すいません。俺たちのお願いを聞いてもらった上にお金まで出してくださって」


「なに、いいって事よ。それに小野寺、お前に頼まれたからじゃねぇ。流石に死神のお嬢ちゃんに頼まれたら断れねぇだろ。お前は、みちるちゃんに感謝しておくんだぞ」


「はい。……それと、後長さん。ホントにありがとうございました」


俺の呼びかけに、平沢の隣に立っている後長は黙って右手を挙げた。


「それじゃ、俺と後長はこれからイロイロと手配をしたりしなきゃならねぇから、に行くのは少し遅くなるかもしれねぇ。

お前たちは飯食って作業服一式を買い揃えたら、そのまままっすぐ現場まで向かってくれ」


 平沢はそう言うと、後長と組員たちを引き連れて組事務所のビルの中に入って行った。

 俺は平沢達の後姿に頭を下げて車を発進させた。


               *

 

 左腕のクロノグラフを見ると時刻は14時35分を指している。

俺とみちるは国分町のなか卯で遅い昼食を食べようとしていた。

俺の前には炭火焼き親子丼の大盛りが、みちるの前には牛とじ丼大盛りと、はいからうどん小がそれぞれ運ばれてきた。

可愛い顔してよく食う死神だな、まったく。


「小野寺さん! さっき組長さん、作業服代にって10万円もくれましたよー! それとは別に食事代で1万円もくれるだなんて、太っ腹ですよねー」


平沢から思わぬ臨時収入をゲットできたのと、目の前の料理のせいもあってか、みちるはいつになくご機嫌な様子だ。


「さ、みちる。食べようぜ。これから忙しくなるぞ」


「ですね。組長さんに感謝して、いっただきまーす」


慌ただしく動き回ったのと、それに空腹であるのとの相乗効果で何の変哲もないチェーン店の丼物がことほか美味しく感じられた。


               *


 食事を終えた俺達は仙台港近くのワークマンで2人分の作業服やヘルメットなどを買い揃え、仙台港ICインターチェンジから仙台東部道路に乗り、丸森町を目指す。

やがて車は仙台若林わかばやしJCTジャンクションを通過し常磐じょうばん自動車道に入る。

車窓から見える仙台空港を通り過ぎると、鳥の海PAパーキングエリアの案内標識が見えた。

 そこで俺達はPAパーキングエリアに立ち寄り作業服に着替えることにした。


 トイレの個室で作業服に着替えた俺は男子トイレから出て辺りを見回す。しかしそこにみちるの姿は無かった。まあ、女だから着替えに時間がかかるのは仕方がない。自販機で缶コーヒーでも買って一息ついていよう。

 そう考えた俺は2人分の缶コーヒーを買い、一足先に車に乗り込むとエンジンをかけた。ラジオからはサイモン&ガーファンクルの『Mrs.Robinson』が流れてきた。

 音楽を聴きながら缶コーヒーを一口飲むと、心地よい眠気が俺を襲ってきた。

 ――まあ、着替えが終わったみちるが起こしてくれるだろう、少しだけ……、少し目を閉じるだけだ。


 どれくらい眠っていたのだろう? 気が付くと俺は幼い頃に住んでいた家にいた。母さんが交通事故で死ぬ前に2人で住んでいたアパートの一室。

 あれ? 俺は今26歳で、これから美咲ちゃんの遺体を岩の下から助け出すために丸森町に行く途中だったはずだ……。

 俺は和室に敷かれた布団の中に居た。頭にはタオルに巻かれたアイスノンが乗せられていてひんやりと冷たい。


 そうだ、こんなところで寝ている場合ではない! 今すぐ起きて母さんに伝えねば。

俺が熱を出して寝込んだ次の日に母さんは市議会議員の運転する車にはねられて死んだんだ!

 身体が鉛のように重い。身体を起こそうとするとズキズキと頭痛がする。これは……完全にあの時と同じ、俺が熱を出して寝込んでいたに戻って来たに違いない!


なんとか身体を起こそうともがいてみたが、どうにもならなかった。せめて母さんを呼んで「明日外に出るな」とだけでも伝えようとしたが、声が出ない。何故だ?


 そうこうしているうちに母さんの姿が見えた。それは死の前日の母さんに間違いなかった。

 母さんは俺に何やら話しかけて微笑んでいるが、何を言っているのかまるで聞き取れない。何よりも俺が母さんに「明日は外に出るな」と伝えようと全身の力を振り絞ってみても全く自分の口が開かない。何故だ? おかしい。


 母さん! 明日は外に……外に出ちゃダメだ!

俺の意に反してゆっくりとまぶたが閉じてゆく――。


 目を開けると、俺は車の中に居た。慌てて周囲を見渡すと、そこは高速道路のパーキングエリアだ。

 ルームミラーを両手で掴んで覗き込むと、そこには金髪で顎髭あごひげを生やした26歳の自分の姿が写っていた。


 ――夢? 俺は夢を見ていたのか?


ルームミラーに写る自分の瞳から一筋の涙が流れた。

 何だってこんな時に死ぬ前日の母さんの夢なんか! 俺は固く両の拳を握りしめた。


 左腕のクロノグラフを見ると先ほど着替えが終わって車に乗り込む時から15分ほどしか経っていなかった。

そうだ、みちるは? 流石にもうそろそろ着替え終わっていてもいいはずだ。

 車から降りて周囲を見渡すと、駐車スペースの端でこちらに背を向け作業服姿で電話をしているみちるの姿が見えた。


「おーい、みちる!」


 俺の呼びかけに彼女は身体をビクッとさせてこちらを振り向いた。彼女は俺が歩いて近づいてくる姿を見ると一瞬気まずそうな表情をしたように見えた。

みちるは慌ててスマホを顔から離し、作業服の上着のポケットにしまい込んだ。


「どこに電話してたんだ?」


「え、えーと、あ、あの、て、て、て、定時連絡ですー。ほら、死神も公務員ですから、上司に業務の進捗状況を報告しないといけないんですよー。えへへ」


そう言って彼女はぎこちない笑顔を俺に見せた。


「今まで定時連絡なんてしてたか?」


「あ、そ、その事で今上司から怒られてました。ホウレンソウ! 報告・連絡・相談は重要だぞって……。

あ、アハハ。そ、それより小野寺さん、気持ちよさそうに寝てるんですもん、起こそうかどうか迷っちゃいましたよー」


彼女は打って変わって、ふくれっ面を俺に見せたかと思うと、そそくさと車に向け歩き出した。


「さ、一眠りして目も冴えたでしょうから、美咲ちゃん救出作戦の現場に向かいますよ」


「お、おう。みちるの分も缶コーヒー買ってあるから、飲むといいぞ」


 俺は再び丸森町のに向けて車を発進させた。

ラジオからはシカゴの『Satueday in the Park』が流れていた。


               *


 目前に『山元南やまもとみなみスマートICインターチェンジ 出口 500m先』の緑の標識が見えた。

程なくして左のウィンカーを出し、ランプウェイに車を進入させる。

ゲートをくぐると「通行料金は1,540円です」とまるで愛想の無い女性の声がスピーカーから流れる。

ここ2日でもう何回この声を聞いただろうか?

助手席のみちるはいつもと違い居眠りをするでもなく、かといって黙って車窓から流れる景色を眺めているわけでもない。

なんだか余所余所しい――、いや、心ここにあらずと言った感じで黙って進行方向を向いている。


「みちる。もうすぐだぞ」


助手席の彼女はハッとした表情で俺の方を向いた。


「え? え? あ、あぁ、いい曲ですよね。 この曲!」


ラジオからはa-haの『Take on ME』が流れていて、ちょうどサビの部分に差し掛かっていた。ヤマハ DX-7を用いたテクノポップは今の時代に聴いても新鮮に感じる。


「お、みちる。80年代の洋楽ポップスが好きか? 一周回って新しい感じがするよな」


「そ、そうですねー。私こういうの好きですよー、アハハ」


そう言って笑った彼女の笑顔はなんだか少しぎこちないような印象を受けた。

 高速道路を降り、県道44号線に入る。坂を上り、峠の頂上付近で右折をして一旦角田市に入り、その後は県道245号線から28号線と進み、伊達政宗初陣の地の標識を過ぎたところで右折をする。あとはまっすぐ進めば阿武隈川に行き当たる。


               *


 現場には既に重機を載せた大型トラックなどが押し寄せ、一方では仮設のプレハブ小屋をクレーンで吊って設置作業していたりと、数時間前に見た景色とは打って変わって、そこはすっかり工事現場の様相を呈していた。


 突如、けたたましくホイッスルを鳴らしながらこちらに向かってくる男が居た。ピピピピーッ! 窓を閉めていてもホイッスルの音は良く聴こえる。

こちらに近づいてくる男は仙台の組事務所で見た、胸にオレンジの刺繍が入ったグレーの作業服を着ているので浅井総業の組員に違いない。


「おーい、そんなところに車を停めてたら邪魔じゃねーか」


 窓を開けるなり男の怒鳴り声と共に、走るトラックが巻き上げた土埃つちぼこりが車内に入って来た。


「すいませーん。どこに車を停めたらいいですかー?」


 男にそう聞くと、彼は工事現場の警備員がよく手に持っているのと同じ赤い誘導棒ゆうどうぼうで「あっちに停めろ」とでも言うがの如く、無言でホイッスルをピーッと鳴らし、車を停める場所を指し示した。

 男に指示された場所には組員のものと思しき10台ほどの車が既に停まっていた。

クラウンにアルファード、ベルファイア、CX-8……。どれもまばゆいばかりの光沢の白か、あるいは黒塗りのボディカラーで綺麗に洗車されピカピカに磨かれていた。

 一時期に比べるとヤクザ稼業は景気が悪くなり、昔のような高級外車には乗れなくなったと言われているがそれにしたってそこそこの値段のする高級車ばかりだ。

たまたま表の稼業で稼げているのか、それとも俺のような半グレ連中に上納させた金で潤っているのか……。

詳しくは分からないが浅井総業に限って言えば、それほど金には困っていないらしい。


 俺とみちるは車を降りると、ヘルメットを被り軍手をはめて小走りに男の元へと向かった。


「お疲れ様です。俺たちは何をすればいいですか?」


 男は俺たちを一瞥すると、ホイッスルをピッと鳴らし、右手に持った赤い誘導棒でプレハブ小屋の設置作業をしている辺りを指し示した。


「あっちに若頭わかがしら補佐の兄貴が居るから、行って聞いてこい。俺は忙しいんだよ!」


 男は口からホイッスルを外し、面倒くさそうにそう言い放つと再びホイッスルを口にくわえ、ピッピッピーッ!と吹き鳴らした。

邪魔だから早く消え失せろとでも言いたいらしい。実際、男の顔には流れる汗と共に苛立ちの表情が見て取れる。


               *


 俺たちが指示された方向に走っていくと、そこにはグレーの作業服に黄色いヘルメットを被り、手に持った拡声器で次々と周りに指示を出している別の男が居た。

左腕には黄色いビニールの生地に『現場責任者』と黒い字で書かれた腕章をしている。この男が若頭補佐に違いない。


「ハァハァ……、お疲れ様です。あの、俺たちは何をしたらいいですか?」


 背後から呼び掛けられた男が振り返る。あ、この顔は! 組事務所に行った時に俺たちをビルの中に案内した男だ! こいつ若頭補佐だったのか……。

男は神経質そうな目つきで俺たちを見ると「おせーぞ。いつまで飯食ってたんだ、お前ら?」と冷めた口調で言った。

一言でいえばやり手のビジネスマン風。そしてどこか冷めたような態度からは彼がヤクザであると言われなければ、まるで大手ゼネコンの社員であるかのような、そんな印象を受けた。


「え……っと、あの……」


「イヌイだ、イヌイ リョウヤだ」


 男はそう言って自分のヘルメットの左横を指さした。そこには『いぬい 良哉りょうや 血液型:A(RH+)』と書かれたラベルが貼り付けてあった。


「い、乾さん、俺たちは何を――」


 そこまで言いかけた俺に、乾が作業服左腕のペン刺しから油性マジックを取り出し顔に突きつけるように差し出した。


「小野寺、それに死神のお嬢ちゃん。現場ではヘルメットに名前と血液型を書くのが決まりだ。書いたら、お前らは作業員全員の食事と風呂の手配をしろ」


 顔の前に差し出された油性マジックを受け取り、ヘルメットを脱いで急いで名前と血液型を書く。みちるにペンを渡し再び乾に指示を仰ごうとした矢先、彼は作業服のポケットから封筒を2つ取り出して俺に渡した。中にはそれぞれ銀行の帯封が付いたままのピン札の札束がそれぞれ2つずつ、全部で4つ入っていた。

合計400万円。札束を見たみちるはヘルメットに名前を書く手を止め、驚きの表情を浮かべつつも、その目はひときわ輝いていた。


「親父からだ。これで100人、4日3食分の食事の手配と、あと日帰り温泉施設か旅館でも貸切ってこい。現場と風呂の間の送迎もするように言っておけ。1回30人くらいで3交代、24時間現場を回すから現場には1回で40人分の弁当の手配、残りの60人には貸し切った施設で飯を出す。いいな」


 親父というのは平沢の事だろう。ヤクザの世界ではさかずきを交わした瞬間から、上の者と下の者は親子・兄弟の絆で結ばれるのだ。


 乾は作業着の右の胸ポケットからスマホを取り出すと、何やら操作をしてから画面を俺に見せた。


「それとな、手配が着いたら俺に電話を寄こせ。これが俺の番号だ」


「はい、わかりました」


 俺は慌てて作業服の左のポケットからスマホを取り出して乾の電話番号を登録した。


「時間がねーぞ! 急げよ!」


 彼はそう言って俺たちに背を向けると、再び拡声器で指示を出し始めた。


               *


 車に戻った俺はスマホを手にマップアプリで近隣の温泉や日帰り入浴施設を検索した。左腕のクロノグラフを見ると時刻は既に16時45分を指していた。


「小野寺さん、大丈夫ですか?」


「うん……。やるしかねぇだろ」


 60人という大人数が収容出来て食事もできる入浴施設か旅館……。

検索の結果、幸いにも隣の角田かくだ市に良さげな温泉旅館がある事が分かった。


「よし、隣の角田市に良さげな温泉旅館があるぞ」


「良かった! 何とかなりそうですね!」


 俺はカーナビに温泉旅館の電話番号を入力し、直ぐに車を発進させる。

後輪が巻き上げた土埃つちぼこりが舞い上がるのがルームミラーに写っていた。


「あ、あの、小野寺さん。その旅館に電話で貸し切りできるかどうか確認しなくても大丈夫ですか!?」


 助手席のみちるは驚いたような顔をして、俺がアポイントも無しに旅館に向かう事に対し疑問を呈した。


「こういうのはな、お手軽に電話で済まそうなんて考えちゃダメだよ。第一、3日間施設を貸し切りたいなんていきなり電話で言ったところで、イタズラと思われて断られるのがオチだ」


「でも、勝算はあるんですか?」


「任せておけって。俺はこう見えて振り込め詐欺で数千万荒稼ぎした男だぞ! それに、平沢組長が出してくれた400万円があるだろ。そのうち300万でもドンと目の前に出して、今すぐ現金で支払うって言えば何とかなるよ。

現場に出す弁当も同じさ、残りの100万のうちの幾らかで今すぐ現金で払うって言えばなんとかなるだろ」


「……上手く行くといいですね」


「あぁ、そうだな」


               *


 目的の温泉旅館は現場から8km程しか離れていない角田市東部にある角田中央公園に近い立地で、『道の駅かくだ』が隣接していた。

 角田中央公園は陸上競技場や総合体育館、温水プール、市民球場など多彩な施設を備えた大きい公園で、休みの日などにはきっと多くの家族連れなどで賑わうのだろう。

 しかし、この大きな公園や道の駅に隣接した立地とは言え、特に観光の目玉となるような名所・史跡があるわけでもなく、かといって公園や道の駅の利用者がこの旅館に宿泊するとも思えない。

先ほどスマホで検索したところ天然温泉が売りらしく、恐らく温泉目当てで来る客を当て込んでの事なのだろうが

そうだとすれば立地的には日帰り入浴施設にした方が正解なのではないだろうか?

 そんなことを考えているうちに旅館の看板が見えてきた。


 進行方向に見える『天然温泉の宿 四季彩亭しきさいてい』と書かれた看板の下には、取って付けたように『日帰り入浴・お食事のみのお客様大歓迎!』と書かれた看板が付け加えられていた。

日帰り入浴施設の方がいいという俺の読みは間違ってはいなかったようだ。


 旅館の正面にある駐車場に車を停め、俺とみちるは入口に向かった。自動ドアが開くと「いらっしゃいませ」という、やや覇気の無い男の声が聞こえてきた。

 俺たちは声の主が居るフロントへと向かう。カウンターの中にいたスーツ姿の40代半ばくらいの男が顔を上げ俺を見ると、一瞬迷惑そうな表情をした。

 左胸に『フロント 高橋 義行』と書かれたネームプレートを付けた男は、すぐに営業的な笑顔に変わり「いらっしゃいませ。日帰り入浴ですか?」と静かに言った。


「今日から4日間、こちらの旅館を貸切りたいのですが」


 俺がそう言うと、男はポカンとした表情に変わり、そしてその場に数秒間の沈黙が流れた。


「え、えーっと……。『貸し切り』とおっしゃいましたか?」


 彼は自分が聞いた言葉を確かめるようにゆっくりとそう言った。


「はい、こちらの旅館を今日から4日間貸切りたいんです。一度に60人分の食事と、あと休憩や仮眠も出来るようにして欲しいのですが」


 俺が真顔でそう言うとカウンターの中の男は、こういう場合はどう切り返したら良いのか? とでも言いたげな困惑が混じった笑顔を浮かべた。


「も……、申し訳ございませんが、あいにくと貸し切り営業は行っておりません」


 男はそう言いながら右の眉毛をピクピクと痙攣けいれんさせた。

 無理もない。アポイントも無しに、突然金髪に顎鬚あごひげを生やした作業服姿の若いチンピラ風の男と、これまた作業服姿の若い女の子の2人組がやってきて開口一番に「旅館を4日間貸し切りたい」などと言うのだ。

男にとっては、まさに青天の霹靂へきれきというヤツだろう。


「みちる。を出してくれ」


「はい、小野寺さん!」


 みちるがマリークワントのショルダーバッグから封筒を2つ取り出して俺に手渡す。俺は封筒から帯封の付いた札束を3つ取り出してカウンターの上に置いた。


「300万円、今すぐこの場で現金で支払います。……お願いします! 時間が無いんです!」


 男は大きく目を見開いてカウンターの上の札束と俺の顔を交互に見つめた。


「ちょ、ちょ、ちょっとお待ちくださいね。い、今、支配人に確認をして参りますので」


 彼はそう言い残すと、まるで逃げるようにカウンターの奥の部屋に小走りに入っていった。

 俺はみちるの方を向き、彼女に「な、上手くいっただろ?」と言わんばかりに目配せをした。みちるは笑いを堪えきれずに右手で口元を覆い小刻みに肩を揺すっている。


               *


 少ししてカウンターの奥の部屋から紺色のスーツに赤いネクタイの装いをした初老の男性が姿を現した。ジャケットの左胸には金色のネームプレートが付いていて黒い字で『総支配人 植田 兼人』と書かれている。べっこうで出来たメガネフレームの奥には優しそうな瞳があった。


「お待たせ致しました。当館の総支配人を務めております植田うえだでございます」


 彼はそう言って、俺の顔とカウンターの上に置かれた300万円の札束を交互に見た。

俺は唾をゴクリと飲み込んで、総支配人と名乗る男に切り出した。


「先ほどもお話しましましたが、こちらの旅館を今日から4日間貸切りたいんです。この通り、今すぐ現金で300万円お支払いします! なんとか、お願いします!」


 そう言い終えて総支配人に頭を下げた。顔を上げると、目の前の彼は顎に手を当てがい何やら考えているようだった。


「……分かりました。お客様のご要望にお応え致します。ただし、既に宿泊のご予約を頂いているお客様が2組様いらっしゃいますので、そちらのお客様の受け入れは致します。それで宜しければの話ですが」


「はい、それで構いません」

「やったー!!」


 俺とみちるは思わずそう叫んで、互いに手を取り合って喜びをあらわにした。


「い、いいんですか、総支配人!」


 フロント係の男が裏返った声でそう言い放つ。


「高橋君、今日から4日間、当館はこちらのお客様の貸し切りになる。表の看板に『7月28日火曜日まで貸し切りの為臨時休業』と貼り紙をしください。

既に宿泊のご予約を頂いているお客様の分を差し引いても部屋や食事の提供に問題は無いだろう?」


「た、たしかにそうですが……」


「では、早速準備に取り掛かってください。それとご予約のお客様にも一本電話でご連絡を差し上げるように。急いで!」


「は、はい!」


 フロント係の男は慌てた様子で奥の部屋へと姿を消した。

この総支配人、温厚そうな顔をしているが、こう見えてなかなか打算的な男だ。もっとも、俺の読み通り慢性的に宿泊客が少なくて少しでも客室の回転率を上げたいというのが旅館としての本音に違いない。

俺達の見た目からして胡散臭い印象は受けているのだろうが、現金で300万円の売り上げが上がることを天秤にかければ、多少のリスクも止む無しといったところだろう。


「あの……、それとまだお願いがありまして……」


「はい、どのような事でしょうか?」


 総支配人が微笑みながらそう返事をした。


「現場と――、あの、ここから8kmほど離れた現場とここの旅館の間で30人ほどを送迎して頂きたいのと、現場に40人分の弁当を3食分4日間配達して頂きたいのですが……」


 総支配人は「うーん……」と言いながら再びあごに手を当てて考え込んだ。


「もちろん旅館の貸し切り料金とは別に料金をお支払いします! 30万! ……いや、50万円でどうでしょうか?」


 総支配人のメガネが天井照明の光を反射してキラリと光った。


「かしこまりました。30名様の送迎とお弁当の件もお引き受けしましょう。但し、現金で50万円。今、この場でお支払いいただきます。それと今晩の分のお弁当は流石に急すぎるので、お引き受けすることが出来ませんが、それでよろしいでしょうか?」


 俺は総支配人の顔を凝視した。握りしめた両の拳に汗をじっとりとかいているのがハッキリと分かる。


「はい、それでお願いします」


 そう言って、俺は封筒から残りの100万円の札束を取り出し、帯封を切って50万円を数えてカウンターの上に置いた。


「ただいま領収書をお切りしますので少々お待ち下さいませ。領収書のお名前はどうなさいますか?」


 総支配人が顔色一つ変えずにそう言った。


「あ、浅井総業(株)でお願いします。深い浅いの浅いに、井戸の井で浅井です。但し書きは貸し切り代金、及び弁当代金でお願いします」


「かしこまりました」


 そう言い終えて総支配人がカウンター奥の部屋に姿を消すと、隣のみちるが「ふーっ」と深いため息をついた。彼女も俺と同様に緊張していたのだろう。


「小野寺さん、上手く行きましたね」


「あぁ、でもまだ今晩の分の弁当40食を確保しなきゃならねーぞ。そこらのコンビニを手当たり次第に回って弁当を買い集めねーとな」


「はい、まだ一仕事残ってますもんね」


 彼女はそう言ってニッコリと微笑んだ。


               *


 総支配人から1,000円分の収入印紙が貼られた領収書を受け取った俺達は、彼に丁重に礼を言って旅館を出た。みちるは手にした領収書をマジマジと見つめている。


「どうした、みちる? 領収書がそんなに珍しいか?」


「だって200円の収入印紙が5枚も貼り付けてありますよ! こんな領収書初めて見ました」


「あぁ、総支配人もこんな領収書切ったのは初めてだって言ってたもんな。大体普通の企業や店舗じゃ1,000円の収入印紙なんて、ほとんど使うことが無いから置いてないだろ。それにな、一応10万円の収入印紙ってのもあるんだぞ」


「10万円! 一体何に使うんですか? そんな収入印紙! それにしても、小野寺さん詳しいんですねー」


 みちるが尊敬のまなざしで俺を見つめている。


「10万円の収入印紙は億単位の土地取引とかに使うんだよ。俺に詐欺のイロハを教えてくれた師匠が地面師じめんしやって稼いでたからな」


 みちるのまなざしが急に胡散臭いものを見るような目つきに変わった。


「悪どいですねー。そんなことやってたら地獄に堕ちますよー」


「地獄行きかどうか決めるのは閻魔庁長官だろ。アホな事言ってないで、ホラ! さっさとコンビニ回って弁当買い漁るぞ」


「へーい」


 そう言って彼女は車に乗り込んだ。俺達は角田市内を走り7店舗のコンビニを回ってなんとか40食分の弁当と、ペットボトル入りのお茶を買い集めた。レガシィのカーゴルームは弁当とお茶が満載になっている。

 車内に漂う美味しそうな匂いに、不覚にも俺の腹時計がグーっと鳴り、あるじに空腹である事を告げた。


「わりい、腹が鳴っちまった」


「仕方ないですよー。それに私もお腹が空きましたもん」


 左腕のクロノグラフを見ると、時刻は既に18時を回っていた。

俺はハザードを点灯させて車を路肩に寄せた。センターコンソールに置いているスマホを手に取り、先ほど登録したばかりの乾の番号に電話をかけた。遅くなってしまった事を詫び、これから10分ほどで現場に戻る旨伝えて電話を切った。

助手席で事の成り行きを見守っていたみちるが心配そうに俺に話しかける。


「乾さん、怒ってました?」


「いや、おせーぞって言われたけど、怒っている風ではなかったな。それに良くやったって褒められたぜ」


「そう、良かった! じゃ、現場に急ぎましょ! 私たちもお弁当食べましょうよ」


「そうだな、急ごうか」


 俺は空腹をこらえつつ、現場に向けて車を発進させた。


               *


 コンビニを回って買い集めた弁当と飲み物を満載して現場に到着すると照明車が数台用意されていて、その高く掲げられたアームの先端からはいくつものLED照明が現場一帯を煌々こうこうと照らし出していた。

その様子はバラエティ番組の夜間ロケを彷彿ほうふつとさせた。

 先ほど指示された場所に車を停め、乾が指揮を執っていたプレハブ小屋の設置場所に行くと、そこには既に2階建ての大きなプレハブ小屋が2棟建っていて中には明かりが灯っていた。

 俺達が弁当と飲み物の入った段ボールを両手で抱えながら、手前のプレハブ小屋の1階に入っていくとそこはパイプ椅子や折りたたみテーブル、ホワイトボードなどが運び込まれすっかりと工事現場の現場事務所となっており、一番奥の席でヘルメットを脱ぎ煙草をふかしている乾の姿があった。

 紫煙しえんと汗と土埃の混じった匂いの中俺は乾に呼びかけた。


「乾さーん、弁当と飲み物買ってきましたよ!」


「おう! ご苦労さん。 皆に並ばせるから、そこのカウンターで配ってやってくれねーか」


 プレハブ小屋入口のカウンターでみちると2人、作業員の連中に弁当とペットボトルのお茶を配った。乾が拡声器で呼びかけた事もあり、プレハブ小屋の前には数十人の作業員が列を成している。

 列の中に見覚えのある顔があった。俺達が最初に現場に到着した時に赤い誘導棒を持ちホイッスルを吹き鳴らしていた男だ。

 なんだか気恥ずかしい気持ちで弁当を手渡し「お疲れ様です」と声を掛けると、男の方も俺達に気付いたらしく、ハッと驚いたような顔をした。


「おう、……さっきはすまねぇな。暑いし忙しいしでついイライラしちまってよ……」


「いえ、こちらこそ、お忙しいところすいませんでした」


 全員に弁当を配り終え、俺とみちるもプレハブ小屋の2階で弁当を食べることにした。


               *


 弁当を食べていると、現場に続けざまに大型の観光バスが入って来た。1台はバスの側面に大きく「角田市 天然温泉の宿 四季彩亭しきさいてい」と書いてあるので、先ほど俺達が300万円で貸し切った温泉宿の送迎バスに違いない。

 もう一台の観光バスはどこのだろうか? 見たところ満席に近い乗客がいるようだ。


「お! 来たな、交代要員!」


 配られた弁当に手を付けずに煙草をふかしていた乾が大きな声を出して窓の外を見ている。


「乾さん、あれが交代要員ですか?」


「あぁ、この現場は24時間3交代で回すからな30数人の交代要員だよ。ふぅーっ、やっとこれで一息つけるぜ。 お前らも弁当食い終わったら一旦宿に引き上げるぞ」


 乾はそう言うと、額の汗を首から下げた手ぬぐいで拭った。


               *


 観光バスからぞろぞろと降りてきた作業員たちはプレハブ小屋の前で4列に整列した。男たちの目前には一人黄色いビニール生地の腕章をした男が立ち、拡声器で何やら注意事項などを伝えている。

 この声は……? 後長だ! 俺は乾と共に後長の元に行き彼が一通り話し終えるのを待った。


「お疲れ様です」


 俺と乾が声を揃えてそう言うと、後長は一言「おう、ご苦労さん」とだけ答えた。


「後長さん、平沢組長は来ないんですか?」


 俺の問いかけに、後長はタバコを箱から取り出す手を止めて答えた。


「組長はアチコチ駆け回ってて忙しいから、現場の方には顔を出せねぇかもしれないな。なにせこんだけ派手にやりゃあ、流石に役所や警察が黙ってねぇだろ。

そいつらを黙らせるためにも金ばらまいたり、イロイロと根回ししなきゃならねぇからな」


 確かにそうだ、計画的な河川工事ではなく突発的にそこそこの規模の工事、しかも24時間稼働の現場となれば、普通は役所や警察が黙っちゃいない。あちこち駆けずり回る平沢には申し訳ないが、これも美咲ちゃん救出の為だ。


「お前ら、そろそろ上がっていいぞ。あの旅館のバス、迎えに来てるやつなんだろう?」


「はい、ではお先に上がらせていただきます」


 乾がそう言って、プレハブ小屋2階の休憩室に駆け上がって行った。

俺達は温泉宿の送迎バスに乗って一旦現場を離れた。照明車が照らす河川敷で30数人が散り散りになってそれぞれ作業をしている。


「なんとか……、なりそうですかね」


隣の座席のみちるがそうつぶやいた。


「あぁ、なんとかなるといいんだけどな」


 宿について風呂に入った俺達は疲れもあってか、その日はすぐに眠りにつくことが出来た。


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