知識人のための36章

白井京月

1.センチメントな主権議論

巷では「憲法改正」についての議論が盛んだ。しかし、自民党の憲法改正案を読んだ人がどれだけいるのだろうか。自由には「公益及び公の秩序を害する場合を除き」という制限がいたるところで加えられる。誰が公益や公の秩序を決めるのかは明白だ。マスメディアは、9条や96条に話題を誘導するが、自民党が天賦人権説を破棄したいと明言していることにこそ注目したい。自民党は、西欧近代 の人権理論を離れて、日本の伝統や神話の独自性を明確化したいのである。


もちろん私はこのような改正案には反対だ。これは国益に反している。もしもこの憲法が成立すれば国際社会から非難を浴びることは確実であり、日本は再び世界から孤立する。いま、帝国(合衆国)陣営は「人権」を錦の御旗にして世界戦略を推し進めている。そのような中で「人権」に異を唱えようとしているのが今の自民党の憲法改正案なのだ。


こんな穿った見方もある。本当は人権もそれに関する理論もどうでもよいのではないのか。自主憲法という言葉で大衆を酔わせて、国民を集合的アイデンティティに陶酔させることで権力を強化しようとしているだけではないのか。


4月28日には主権回復の日の式典が行われる。これは歴史を知るうえで重要なことだろう。いろいろな議論があるのは知っているが特に反対はしない。むしろ「主権」という言葉が日本人のコンプレックスになっているのだなということを強く思う。しかし、主権とは何だろう。主権は一般に、対外主権、対内主権、最高決定力の三つだと言われる。現在の議論は、このうちの対外主権、すなわち国家が外に対して独立し国家間は対等であるという点に焦点が当てられている。


だとするならば、今の合衆国支配の世界にあって、EU諸国ですらどれほどの主権を持っているのだろう。21世紀の今、国家の独立性にこだわるなど時代錯誤なのである。


世界を知っている政治家たちがそんなことを理解していないはずがない。それでいながら、大衆の心をつかむために「独立」という言葉を使い、国民意識を高揚させて行く。目的は国内におけるヘゲモニーの強化だ。それ以外に何が考えられるだろう。


昔は自民党の中にもリベラル勢力があった。では、今の自民党の中にリベラル的なものがあるだろうか。そして今の日本には勢力と言えるだけのリベラル政党がない。そんな中で、9条という理想を掲げて陶酔するというのはセンチメンタルなナルシストだ。だが、威勢よく「真に自立した国家」などと叫ぶのもまたセンチメンタルなナルシストだ。それが悪いと言わない。人間とはセンチメントな存在だ。しかし、そういった感情を前面に出して議論することに何の意味もないことは明白だろう。時間の無駄。しかし、テレビは嬉しそうにそんな議論(?)を喜々として放送する。


重要なことは、護憲派も改憲派も、どちらもセンチメンタルであることを、そして国民もまたセンチメンタルであることを自覚したうえで「私の思い」ではなく「国益」を重視した議論を展開することだ。9条の精神が重要なのか、自主憲法というプライドが大事なのかという議論では話にならない。そんな感情論では国際社会で生き残れない。


まずは対外主権より前にに対内主権の議論をする必要がある。つまり国民主権をどう考えるのか、と。国民主権である以上、すべての責任は国民にある。政治が悪いというならば、それは国民の責任に他ならない。いまこそ主権者の自覚が強く求められているのだが、これがどうにも頼りない。民主主義に対する自覚に欠けた国民による民主主義の末路など考えるまでもない。


(2013年4月16日)

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