第133話.求婚


「むっ――」


 何が起こったか分からず、頭の中が真っ白になる。


 こくん、と喉を滑り落ちていくのは水の感触だ。口移しで飲まされるその液体が冷たいのか、熱いのかすら、依依には分からない。

 最後に、惜しむように下唇を食んで、ゆっくりと唇が離されていく。飛傑は壊れ物を扱うような手つきで、再び依依を布団に寝かせた。


 触れ合っていたのは、そう長い時間ではなかったはずだ。それなのに依依にとっては、永遠に等しく感じられた。

 飲み込みきれなかった水が一筋、依依の唇から顎にかけて滴り落ちる。濡れた顔を袖で拭いがてら、飛傑が口を開いた。


「これも、同じだが」


 薬を口移しで飲ませたのとまったく同じなのだと、飛傑は言い張る。


「依依、どちらのほうが嬉しかった?」


 そのくせ、そんなことを気にして首を傾げてくる。

 長い黒檀の髪が、彼の肩を滑り落ちて、依依の頬を撫でる。そのくすぐったい感触に、依依は身動ぎすることすらなかった。


「……少し意地悪しすぎたか」


 困ったように飛傑が微笑む。

 というのも、依依は口を半開きにしたまま、完全に固まっていた。理解の範疇を超えた出来事に、頭が回らず放心している。


 そんな依依の濡れて光る唇に、飛傑の指先が触れる。そうして彼は愛おしげに囁いた。


「そなたは、本当に可愛い」


(かわっ……)


 いよいよ依依は白目をむいた。

 前にもそんなことを言われた気がする。いや、あれは聞き間違いだったか。どっちだったか。

 先ほどから飛傑は何を言っているのだろう。そもそもどうして、接吻をされたのだろう。


 考えがまとまらないままの依依に、さらに飛傑は畳みかけてくる。



「余の妃になってくれ、依依」



「き…………」


 とうとう依依は絶句した。

 全身の力が抜けていく。度を超えた意地悪は、まだ続いているのか。そう思いたいけれど、飛傑の目元はほんのりと赤く染まっている。冗談だと笑い飛ばすには、今の彼は真面目すぎたし、余裕がなかった。


 本気なのだ。

 何が何やら分からないが、飛傑はどうやら本気で、依依を妃にと望んでいる。


「そ、れは……」

「それは?」

「無理です」


 次に言葉を失ったのは飛傑だった。

 だが彼のほうは、拒絶を覚悟していたのだろう。美しく整った顔を歪めながらも、理由を問うてくる。


「余のことは、嫌いか」


「嫌いとか好きとか、そ、そういうことじゃなくて……っ、だって陛下は、純花の夫じゃないですか」


 姉妹揃って娶った男の話、みたいなのは聞かないでもないが、依依個人としては理解しかねる感覚である。

 ふむ、と顎に手を当てた飛傑が事も無げに言う。


「なら、灼家に灼賢妃を返せば解決するな」

「なんてこと言うんですか!」


 依依は愕然とする。

 深玉も口にしていたことだ。後宮を辞するとき、上級妃は家に戻されるか、官吏に下賜されるかの二択しかない――と。


 飛傑は純花のことを、冷たく切り捨てるつもりなのだろうか。

 いくらなんでもひどすぎる。責めるような目で見つめれば、飛傑は咳払いをした。


「むしろ返すと伝えれば、灼家は大喜びだろう。現当主も雄も、灼賢妃のことを気にかけている」

「へぇ……」


 初耳であるし、朗報でもあった。わざわざ後宮まで雄が会いに来ているのは気になっていたが、彼らはそれだけ純花のことを気にしてくれていたのかと、依依は少し嬉しくなる。


 しかし、それなら大丈夫です、なんて問題ではない。




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