第27話.後宮の外へ
「――まったく、あなたは何を考えてるんですか!」
翌日の朝。
朝餉の粥を食べ終えた依依は、座布団の上に座らされ、
後宮の妃嬪たちというのは夜更かしに慣れていて、朝は遅いものなのだが、依依は鶏が鳴くより早く目を覚ますので、女官たちもそれに付き合ってくれている。
しかしそれがありがたいかというと、微妙だなぁと依依は思っていた。
「信じられませんよ、三階から飛び降りるなんて! 運がいいから怪我もしないで済みましたが、場合によっては大変なことになっていたんですよ!」
(この座布団、ふっかふかで座り心地がいいわ。家で使っていたせんべい座布団とは大違い……)
「聞いてるんですか、楊依依!」
注意が逸れているのに気がついたのだろう、林杏がぷりぷりしている。
その横で
彼女は口を聞けないのだと、依依は二日前に教えてもらっていた。
それにしても林杏は、明梅の分も説教するかのような勢いである。というのもこのお説教は、昨日から延々と続いていて、未だに終わる気配が見えないのだ。
「林杏……」
「なんです!?」
「林杏って、声が大きいわね」
「あんたのせいですけど!?」
事実を指摘したら、また噛みつかれてしまった。
林杏は若い女官だけれど、顔を真っ赤にして金切り声を上げてと、こんな調子で怒鳴っていたら血管が一、二本切れてしまうのではないだろうか。彼女の身体がちょっと心配だ。
そのとき、依依の耳が近づいてくる足音を拾った。
「林杏、明梅。誰か宮殿に入ってきてるわ」
説教逃れの嘘と思ったのか、林杏は途中まで胡散臭そうな顔をしていた。
しかし彼女にも足音が聞こえたらしい。
「勝手に入ってくるなんて……!」
歯噛みして、慌てて部屋を出て行く林杏。
通常であれば、客人は宮殿にて担当の女官が出迎えるもの。
しかし、この
(前は、六人の女官が居たのだものね)
しばらく経つと、林杏に連れられてひとりの女官がやって来た。
年齢は三十歳近いだろうか。依依が後宮で見かけた中では、最も年嵩かもしれない。
特別に美人というわけではないが、隙のない身のこなしで部屋に入ってくる。
「……皇妹つき女官が、どうしてこんなところに……」
林杏がぼそぼそと口にしている。
(こうまい?)
それってなんだっけと思っていたら、その女官がきれいな角度で頭を下げる。
「
(将軍様の!)
なんと、昨日の今日でもう宇静は動いてくれたのだ。
つまりこの女官こそ、依依が後宮を出るための協力者ということだった。
「将軍? 後宮の外? どういうことですか」
唖然としている林杏に、依依は事の次第を説明する。
すると林杏も明梅も、一応は納得してくれたようだった。純花の行方は彼女たちも気になっていたのだろう。
「それと、大きな声でお名前を呼ぶのは避けたほうが賢明かと。誰に聞かれているか分かりませんよ」
指摘された林杏が黙り込む。
この女官は依依同様、かなり耳がいいようだ。依依の名を口にする林杏の声が聞こえていたのだろう。
「では、こちらにお着替えくださいませ。それと化粧品をいくつかお借りします。よろしいですね?」
一応、問いかけの形を取ってはいたが断りようがない。
女官に手渡された服を、まじまじと依依は見た。
「……宦官服」
春彩宴のときに何度か見かけた衣装だ。
それを見た林杏が、ちょっと縮こまる。
昨日から彼女を怒らせてばかりの依依は、気遣うつもりで優しく言った。
「大丈夫よ林杏。私の股間をぱんぱんした件は、もうなんとも思ってないからね!」
その直後、顔を真っ赤にさせた林杏が怒鳴り散らしたことは言うまでもない。
女官に連れられて、宦官へと変装した依依は後宮を出た。
それなりに緊張していたが、拍子抜けするほど呆気なかった。というのも、後宮に入るときには見張りによって、宦官であろうと細かな検査をされるのだが、出るときはそこまで厳しく見られることはないのだ。
宦官や宮女は後宮内外の出入りが激しいため、そこまでの時間をかけられないのだろう。
(つまり、また後宮内に戻るのは大変なんだろうけど)
はた、と依依は気がつく。
そういえば宇静に頼んだのは、純花の様子を見たいから後宮の外に手引きしてほしい、というところまでだ。
(もしかして、戻るのは自力で頑張らなきゃいけないのかも?)
急に不安になってきた。
いざというときは縄を使えば、高い塀を越えられるだろうか。やろうと思えば、できないことはないだろうが……。
「私が案内できるのはここまでです。清叉寮の方向は分かりますね?」
立ち止まった女官に、依依は頷く。
「問題ないわ、ありがとう」
「お礼は結構です。私は将軍に頼まれただけのことですので」
澄ました顔で答えられる。
あまり関わりたくないのだろう。一部の事情は知っているようだが、彼女が依依に対して名乗ってもいないのは、この件に深入りしたくないからだ。
「それでも、ありがとう」
もう一度頭を下げた依依は、ひとり清叉寮のほうへと歩きだした。
宮城から外れたこのあたりは、武官の頃によく仕事で歩いていたため地理を把握している。
きょろきょろしていると不審がられるため、「お使いを頼まれてます」という顔をして寮に向かっていると……なんと、寮の扉の前に
依依よりも年下に見える童顔の清叉軍の副官が振り向き、なんでもないようににこりと笑いかけてくる。
「お久しぶり。待ってましたよ。宦官の格好だとまた印象が違いますね」
「ええっと……」
「さ、誰かに見つからないうちにどうぞ」
どうやら彼も事情に精通しているらしい。
人気のない裏口を示された依依は頷いて、素早く寮内へと入る。
それにしても、と思うのは。
(意外とお喋りなのね、将軍様って)
武官が妃の身代わりをしているのはけっこう大事だと思うのだが、宇静はあまり気にせずいろんな人に喋っているようだ。
……とか呑気に思う依依は、彼女の身の安全のために、必要最低限の信頼できる人間に宇静が事情の一部を明かしたことなど、まったく思い当たることはない。
「来たか」
そして依依を出迎えたのは、そんな冷たい響きで。
壁に背を預けたその人を目にして、依依は目を見開く。
(将軍様!)
依依はとっさに後ろに飛び退り、首を隠した。
昨日、彼に首の脈を狙われたのは記憶に新しいのだ。
警戒する依依に、宇静がいつもの怒った顔つきで言い放った。
「何を遊んでいる。……さっさと行くぞ」
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