第5話.熊と踊る
長机が勢い任せに叩かれる。
そこに載せられていた書類や木簡が、ばらばらと落ちた。
それを拾う受付の若い男たちは、げんなりとした顔つきだ。
「何度も言っているだろう。試験を受けられる年齢は法令により定まっている。三十を越えたお前に受験資格はないのだ」
「そんな決まり、知るか! 俺は試験を受けたいと言っているんだ!」
ずんぐりむっくりとした人影が、唾を飛ばして叫ぶ。
横から覗き込めば、想像通りというべきか。
無精髭を落ち着かずに撫でつけ、ぼさぼさの脂ぎった髪の毛をした人物が、抗議の叫びを上げていて――。
(……え? この人も女官を目指してるの……?)
容姿は、完全に中年男のそれに見えるが――。
そこまで考えたところで、依依はぶんぶんと首を横に振った。
(駄目ね、私ったら。ここは私の住んでた田舎とは違うもの。都にはいろんな女人が居るんだわ)
田舎者の依依の常識では計り知れないことは、きっとこれからも数多くあるだろう。
ならばこんなことでいちいち衝撃を受けていては話にならない。
咳払いをした依依は、血気盛んな女人の肩をとんとんと叩いた。
「おじ……おばさん、ごめんなさい。ちょっとどいてもらえる?」
「ああっ!?」
女が煩わしげに振り返った。
昼間から酒を飲んでいるのか、赤ら顔をしている。そんな彼女ににこりと依依は笑いかけた。
「私も試験を受けに来たんです。早く受付を済ませたいから、どいてほしくて」
「てめぇっ。喧嘩売ってんのか」
「いいえ。絶対に勝てる喧嘩は売らないから」
「ふ、ふざけやがって――」
「ふざけてません、本気です。弱い者いじめは性に合いません」
それを聞いた受付の、右の男が噴き出す。
よくよく見れば左の男も、何か堪えるように肩を震わせていた。
そんな彼らの反応が、女には耐えられなかったらしい。
口汚い罵声を上げて、依依に掴みかかってくる。
胸元を掴もうとしたその手を、依依は最小の動きで躱した。
だがあまりにも敏捷で、ごく静かな動作に、女の感覚が狂ったのだろう。
勢い余って、そのまま地面の上に倒れそうになった身体を――寸前で、依依は片手で引き上げてやった。
片手で支え続けるにはなかなか重いので、くいと引っ張り、風に遊ばせるように女の手を揺り動かす。
くるくるくる、と何度か踊るように二人で軽やかに回転する。
舞踊のような軽やかな足取りを見せる依依に、見物人たちが「おお」と声を上げた。
女の声が大きかったので、ずいぶんと野次馬が集まっていたらしい。
(でも、のんびり踊っている場合じゃないみたい)
この女人以外に、他の受験者らしき姿はない。きっと試験の開始時刻が迫っているのだ。
そう気がついた依依は女の足元が安定してきたところで、動きを止める。
そのときになって、ようやく助けられたと理解が追いついたのか、女は呆気に取られた顔をしていた。
「な、なんの真似――」
「可愛い人。怪我には気をつけないとね」
「……えっ……」
ぽっ……と女が頬を染める。
その表情を、依依は微笑ましく見つめた。
(うん、やっぱり熊みたいでちょっと可愛い)
子を産んだ雌熊は手のつけられないほど凶暴なのである。
しかし扱いを間違えなければ、むやみに手を出してはこないのだ。
女が大人しくなると、遠巻きに眺めていた見物人たちが歓声を上げている。
これでは何やら見世物のようだ。苦笑いしつつ、依依は受付に向き直った。
彼らもしきりに感心している様子だ。
「素晴らしい身のこなしだ」
「まさかあれを口説くとは畏れ入ったぞ……!」
「あの私、試験を受けたいのですが」
会話の切れ目にそう告げると、さすがに職務を思い出したらしい。
「名と年を教えてくれ」
「
深々と頭を下げる。
名前を書けということか木簡を差し出されるが、
「いい、文字は俺が書いてやろう。字は分かるか?」
左の男が気遣ったようにそう言う。
依依は頷き、名前に使う漢字を伝えた。
(文字が書けるなんてわざわざ言う必要もないか)
だが親切にしてもらっているのだし、今さら明かす必要はないだろう。
「登用試験はもう間もなくだ。右にある控え室で手早く着替えて、その横にある演習場に並ぶように」
「あんたならきっと合格する。健闘を」
演習用だという服を受け取ると、軽く肩を叩かれた。
絡んでいた女人を撃退したのがよっぽど好印象だったらしい。
「あの。が、頑張ってね……!」
隣で見守っていた熊っぽい女人も、つぶらな目を潤ませて応援してくれた。
微笑みを返し、朱塗りの小さな門をくぐる。
図体の大きな女人の影に隠れ、『武官登用試験受付』と書かれた垂れ幕を見落とした――などとは気がつかないまま、溜め息と共に周囲を見回す依依である。
(ここが宮城……)
しかしここは宮城の敷地内でも、かなり端っこに位置するらしくあまり飾り気がない。このどこかに純花が居ると思うと気が急くが、今は我慢することにする。
控え室はすぐに見つかった。見張りらしい男たちの間を抜けて、控え室に続く引き戸を開けた瞬間だった。
気絶しそうになった。
(く――――臭ぁいッ!)
曲がりかけた鼻をぎゅっと片手で塞ぐ。
しかし無謀であった。蒸気のように立ち籠る、もわんもわんとした何かが容赦なく依依を責め立て、軽々と意識を奪い取ろうとしてくる。
室内からこちらをジロリと睨みつけてくるのは、どれも屈強な男――ではなく、女ばかりで――涙目の依依を見やる彼らは、どこか小馬鹿にするような笑みを浮かべている。
どうやら依依が怖じ気づいていると思っているらしい。
「へっ、見ろよ。入り口で震えちまって、まぁ」
「女みたいな顔しやがって。家に帰って母ちゃんの
(違うから。あんたたちの体臭がきついだけだから!――ていうか私、女なんですけど!?)
いろいろ言い返そうにも呼吸ができないので、心の中でそう反論することしかできない。
若晴との女二人暮らし。お洒落とは無縁であるが、清潔さは心がけてきた。
旅の最中も川で
ひとりずつに「最後に髪と身体を洗ったのはいつだ」と胸ぐら掴んで怒鳴りたいところではあるが――もちろん、そんな場合ではない。
それに彼女たちだって女なのだ。若輩の依依にそんな説教をされたら、自尊心が傷つくことだろう。
(でもまるで、汗臭い男に囲まれたかのような臭気……)
なぜか、村の男衆たちのことを思い出してしまう。
そうして気圧されて立ち止まっている間にも、全員が着替えを終えて演習場のほうに向かってしまった。
「う、うう……」
吐き気を覚えながらもなんとか依依は気合いを入れる。
これも双子の妹・純花に会うため。そのためならば、これしきの試練は乗り越えなくては。
ふらつきながらも空いている籠の前に立った依依は、そこで服を着替え、慌ただしく演習場に向かうのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます