3-6
(どうしよう……。フィル様は私にそういう部分を見られたくないはずよね)
家族として暮らすにあたり、彼に負担をかけないためにも適切な距離というものがある。
フィルはお尻の痣を隠すために他者に裸を見られることを嫌うし、スーやレグルスとのふれあいについても、セレストの前ではやや遠慮がちだ。
そのあたりには触れないようにするのが、良好な関係を継続させるために必要だ。
セレストは気配を押し殺し一度一階へ移動する。それから今度はわざと音を立てて勢いよく階段を駆け上がる。ノックするより前に、誰かが近づいているのだと彼に察してもらうためだ。
「フィル様、お茶の時間ですよ!」
そう言いながら、明るい声を心がけて扉を叩く。
「あぁ、ありがたい。すぐに行く」
やたらと低く、渋い声で返事が返ってきた。
「ではお待ちしていますね」
セレストは素知らぬふりでリビングルームに戻った。フィルが遅れてソファに腰を下ろしたとき、ちょうど紅茶とお菓子が運ばれてきた。
アンナが用意してくれた紅茶は、元々屋敷にあったものだ。フィルやセレストは、毎日それを口にしていたはずなのに、香りが違う。
「美味しい……。同じ茶葉なのにどうして?」
「気に入っていただけて嬉しゅうございます。ポットを温めたり、蒸らし時間を正確に計るとそれだけで味と香りが変わりますよ。あとでお教えいたしますね」
「ありがとうございます」
セレストは紅茶と一緒にお菓子をいただいた。今日のお菓子は栗の入ったカップケーキだ。フィルが七番街の菓子店で買ってきてくれたものだった。
甘くて、少しだけ渋みもある大人の味だった。
「……フィル様、ちょっとだけお願いがあります」
カップケーキを食べ終えたところで、セレストは例の件をフィルに告げようとする。
「どうしたんだ?」
「私、剣術を習いたいんです。モーリスさんに教えていただきたいのですが、よろしいですか? 剣術だけではなく、星神力の使い方ももっと上手くなりたくて……ほかにも……」
「……」
フィルはすぐには反応してくれなかった。少なくとも快諾できる内容ではないという様子だ。
「だめですか?」
剣術だけではなく、星神力を使った術ももっと学びたいし、知識もたくさん必要だ。具体的にどう動けば未来を変えられるのかわからないからこそ、できることはすべてしなければ気が済まない。
「だめだ……と言いたいんだが……」
フィルは顔をしかめ頭を掻いた。そして、アンナやモーリスがリビングルームにいないことを確認してから、再び口を開く。
「正直、君の語るおかしな術――仮に、邪法と呼ぼうか? 邪法について、現段階で阻止できる手立てがない。鍵となる人物に探りを入れることが難しいし、そもそも今、存在している可能性はほぼない。なにをすればいいかわからないから、強くなりたいというのはわかるつもりだ」
セレストは頷いた。
ミュリエルは今の時点でセレストを蔑んでいるが、憎むようになるのはセレストが星獣使いになった時点だ。もし以前から邪法が存在し、ミュリエルがそれを知っていたらすぐにでも試すはず。そう考えると、今の時点で邪法は存在しない、もしくはあの二人は知らないということになる。
誰が、いつ、どこで邪法を生み出すのかさえわかっていない状況ではフィルもセレストも動けない。
それに相手は王族だ。仮に真相がわかったとしても止められない可能性だってある。
「この先なにが起きても負けない力がほしいんです」
セレストは真剣だった。またあんな思いをするのはごめんだった。後悔しないためには努力が必要だ。
「だが、全方向に警戒していたら切りがない。……君はまだ十歳で、無理をすれば成長に悪影響を及ぼす。これから八年、ずっと張り詰めていたら心が壊れる。それは忘れないでいてくれるか?」
過度に肉体と精神を追い込むのは逆効果だとフィルは諭す。
「……はい」
「それなら剣術はモーリスに習うといい。星神力の使い方は俺が教える。週に一度は休息日を設け、睡眠は八時間以上、食事は三食、おやつも二回……守れるか?」
「必ず守ります!」
フィルは理解を示してくれたが、やはり過保護だった。でもこれほど家族を大切にしてくれる人をセレストは知らない。
「星獣や星神力についての研究――星神学は、ドウェインが得意なんだよな……。スノー少尉の影響もあると思うが」
「……スノー少尉ですか?」
「少尉の父君であるスノー子爵は研究者として有名な方だ。少尉も学者になったほうがいいというくらい優秀な人らしいぞ。……ドウェインは変人だが頭はいいんだよ」
「え……っと、スノー少尉はドウェイン様の副官ですよね?」
職務上の付き合いであるはずなのに、ドウェインが星神学に明るいのはヴェネッサの影響だという。それは、上官と副官という以上の付き合いが二人のあいだにあるという意味に聞こえた。
「あぁ、スノー少尉は、ドウェインの婚約者だ」
「婚約者!?」
「なんで驚くんだ? 公爵子息なんだから若いうちから婚約者がいてもおかしくない。スノー少尉はドウェインより一歳年上で、十に満たない頃から机を並べて共に学んだ仲だと聞いている。というか、婚約うんぬんで驚くなら君こそどうなんだ……」
十八歳で婚約者を持っているドウェインと、十歳ですでに結婚しているセレスト。どちらがより非常識かと言えば、圧倒的にセレストだ。
「そうではなくて、ドウェイン様だから」
かなり変わった人物だから、婚約者がいるという想像がセレストにはできなかった。けれどよく考えてみると、高位貴族の星獣使いで義理堅い人物だ。理想的な結婚相手なのかもしれない。
「あの二人は本当に仲がいいらしい。若くして軍に所属することになったドウェインを心配して、スノー少尉も軍人になったそうだから」
フィルのような例外を除けば、ほとんどの者が十一歳を過ぎた直後に星の間に出向いて、星獣に選ばれるかどうかを試す儀式を行う。星獣に選ばれたら正規の軍人になるかどうかは別にして、必ず国のために働くことになる。
一度目の世界でのセレストは軍には所属せず、国の管理下にある星獣使いという扱いだったが、軍人のフィルと行動を共にすることが多かった。
ドウェインは軍に所属する選択をして、婚約者のヴェネッサはそんな彼を支える道を選んだという。
「全然知りませんでした。そうだったんだ……」
なんだか素敵な関係であるとセレストは感じた。他人のことなのに、嬉しくなるのはどうしてなのだろうか。
「星神学についてはドウェインに頼めないか、近いうちに聞いてみる。七日後にフォルシー山のほうで演習があるというからそのあとになるが」
フォルシー山は都から数時間でたどり着く場所にある。麓には軍の施設があって、主に兵の訓練などが行われている。セレストも何度か訪れたことがあった。
ドウェインはその準備で忙しい中、エインズワース伯爵家の使用人の件で動いてくれた。
だから、これ以上煩わせるわけにはいかない。
「フィル様も参加されるのですか?」
「いいや、俺は行かない。……星獣使いが二人同時に都から離れるのは、あまりよくないからな」
一度目の世界では、十七歳頃までセレストはフィルと行動を共にすることが多かった。
スピカもレグルスも攻撃を得意とする星獣で、強い魔獣の討伐では連携しやすいという理由が一つ。もう一つはセレストが軍人ではなく、彼女自身に身を守る力がないからだ。
拐かされたり、不意を突かれ害されたりしたら貴重な星獣使いを失うことになる。
フィルとドウェインが同時に都を離れる場合――それは大規模な魔獣の被害が懸念されるときだけだ。
「そうなんですか」
「ああ、……スノー少尉が気になるのか?」
「ええっと。あの、スノー少尉というよりミモザのことが気になりました」
「星獣は意外と気難しい生き物だからな。レグルスも時々機嫌を損ねるぞ」
「早く原因がわかるといいですね」
「大丈夫だよ。ドウェインは心から星獣を大切にしている男だから」
ミモザが繊細な星獣だとセレストも知っている。フィルはあまり気にしていないようだし、主人であるドウェインが寄り添えば大丈夫だというのが彼の考えのようだ。
「はい」
そう言いながら、やはりセレストは胸になにかがつっかえているような心地だった。
自分でも原因がよくわからないから、問題ないと言い聞かせたのだった。
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