膠着

21時付近


上岸地区 村岡家

 弟と母親が野犬の餌食になる様を目の当たりにした水希は、極度の緊張と疲労によって事切れるように寝入っていた。その眠りからようやく目を覚まして上体を起こすと、台所の方から何かを刻む包丁の音が聴こえている事に気付く。

「……お母さん?」

 朝の寝起きのような、意識がはっきりしない状態のまま立ち上がって台所へと向かう。そこには、漬物を刻んでいる祖父こと、修吾の姿があった。どうやら夕飯の支度をしているらしい。

 こちらの気配を感じ取ったらしく、修吾は振り向いた。

「…………ああ、起きたか。もうすぐ出来るから、待っていなさい」

 物憂げな顔だった。同時に、全てが夢ではなかった事を、水希は悟る。

「……夢じゃなかったんだね。お母さんだといいなって、ちょっと思っちゃった」

 言葉に詰まる修吾を余所に、水希は食器の用意を始めた。修吾は孫娘のそんな光景に悲しさを覚えるも、掛けるべき適切な言葉が見つからず、黙っているしか出来なかった。


 2人は、居間で静かに夕飯を済ませた。かつてここまで静かな食事があっただろうかと思うほど、辛い時間だった。普段なら家族で食卓を囲み、楽しい一時になっていた筈だ。それがもう二度と訪れる事はないと自覚するのを、2人は心の中で拒んでいた。

「……洗い物はやるね」

 何かをしていないとおかしくなりそうな状況に耐えかねた水希が立ち上がる。修吾もまた、気を紛らすかのように立ち上がって風呂場の掃除へと向かった。

 そのやりきれない静寂を、ふいに鳴り響く電話の音が打ち消した。一番近くに居たのは必然的に水希だったため、洗い物を中断して電話へ近付く。液晶には、見慣れた番号が映し出されていた。同級生で幼稚園の頃からの幼馴染である、本間ほんまさゆりの携帯番号だ。

「――さゆり!」

 消え失せていた何かが甦る感覚を覚えた水希は、急いで受話器を持ち上げた。この状況下において、肉親以外で気を許せる数少ない存在からの電話に心が踊る。

「もしもし、さゆり?」

『あぁ……良かった』

 さゆりの耳通りが良い声が聞こえた。心の底から安堵しているのが分かる。

「そっちは大丈夫?」

『みんな無事だよ。お祖母ちゃんの誕生日を祝おうって事になってたから、みんな家に居たんだ。お祖母ちゃんにはとんだ誕生日になっちゃったけど』

 彼女の祖母は今年で95を迎える、この岸菜町において最長寿となる女性だった。年齢の割には頭もはっきりしていて言葉もスラスラと喋れる。膝が悪いため自力での移動が少し困難だが、それを補って元気な人だ。

「そっか、落ち着いたらお祖母ちゃんに会わせてね。何かプレゼント用意するから」

『うん。水希の方は大丈夫?』

 思わず言葉に詰まる。どう伝えていいか分からない。母の明子とさゆりは幼い頃から面識があり、家に泊まった事も数多い。それに、彼女は健多が家族以外で唯一懐いていた存在だ。さゆりは4兄妹の末っ子のため、健多を弟のように可愛がっていた記憶が思い出される。

『……水希?』

 長い沈黙から何かを察したらしい。声のトーンが、まるで地に落ちたかのようになった。

「…………お母さんと健多がね……うん――」

 頭の中でようやく捻り出したその言葉を発すると、電話口からすすり泣く声が聞こえた。同時に、眠っていた事と食事で胃が満たされた満足感によって忘れていた悲しみが、フツフツと顔を出し始めた。

 気付くと、ダムから水が流れ出るかのように涙が溢れていた。2人は電話越しに悲しみを共有し合い、ひとしきりの間、泣き続けた。

 10分ばかりが経過し、お互いに正気を取り戻した2人は、もう1人の幼馴染の安否を気遣い始めた。それは2人よりも3つ年上で、先月に二十歳を迎えたばかりの男性だった。名を、清水恒平と言う。


清水家

 ここもまた、悲しみの渦中にあった。清水恒平は玄関先で項垂れ、バスタオルに包まれた血まみれの愛犬を抱き締めている。

「……ゴメンな、テツ」

 テツは、岸菜町でたった一頭のシェパードだ。凛々しい表情だが穏やかな性格で、上岸地区の住民たちにとっては人気者である。

 だが、その人気者の命は今、消え去ろうとしていた。

「…………テツ」

 散歩から帰るその途中、悲劇は訪れた。地区長宅の前で襲撃を受け、何とか自宅に辿り着くも別の犬たちと遭遇。テツは数匹の犬を相手に果敢に立ち向かい、主人の恒平を文字通り命懸けで護ったのだ。

 自分も命からがらに傷だらけのテツを家の中に引き込むと、テツは玄関先に座り込んで動かなくなった。タイルに沿って広がっていく血だまりに驚くも、このままでは病院に連れて行く事も出来ない。せめてもと止血を試みたが、血が止まる事はなかった。

 タオル越しに感じていた鼓動の感覚が、次第に遠のき始める。

「……眠いか、テツ。もういいぞ。ゆっくり休んでいいからな」

 そうしている内に、テツの鼓動は止んだ。動かなくなってしまった愛犬を抱き上げ、階段の下に置いてある貰い物の業務用冷蔵庫にそっと安置した。

 居間へ戻ると、両親と兄が死んだ表情をしていた。恐らく自分も、同じような顔をしている事だろう。

「…………テツ、眠ったのか」

 兄の問い掛けに、ただ頷いた。壁に背を持たれて座り込み、茶箪笥の上に置いてある写真を見る。テツがまだ小さい頃、兄と自分、そして幼馴染の水希、さゆりと一緒に撮った写真だ。

「……2人にはまだ言わない方がいいか」

 兄がそう漏らした。水希とさゆりも、テツとよく遊んでくれていた。4人と1匹でよく森の中を走り回っていた事を思い出す。

「無事だといいな。連絡は?」

「どっちも通話中だ。少なくとも、家族の誰かは無事だと思う」

 何もかも分からない上に納得のいかない事だらけだ。野犬たちはどうしてここに現れたのか。どうして集団を組んで、人々を襲っているのか。どうして、こんな思いをしなければならないのか。そんな行き場のない怒りだけが溜まっていく。


群馬県警機動隊 第2小隊長 小原こはら警部補

 自分たちの受け持ちを沼田署のPCに任せた我々は、第1小隊と狙撃班が形勢しているこの阻止線に到着した。予め持参していた防毒マスクを装着し、輸送車から降りて分隊ごとに整列を始める。

 先に到着していた投光車の灯りが、道路を塞いでいる小型警備車を通り越して上岸地区を照らしていた。その灯りの中に居る第1小隊の首脳陣に近付く。

「第2小隊、現着しました」

 こちらへ振り向いた小隊長の伊庭警部補と狙撃班長の江住巡査長は、生気のない顔付きだった。まるで何かを覚悟しているかのような、そんな雰囲気を感じる。分隊長や小型警備車の左右で盾を構える他の隊員たちもまた、悲壮な空気に包まれていた。

「現時刻を持って、第1小隊は阻止線を第2小隊に移譲。これより我々は上白井運動場に設けられている防疫拠点にて検査を受けます。隊員の生命に危機が及ぶ場合、一切の躊躇無く発砲を下命するようお願い致します」

「引継ぎ確認、第2小隊は現時刻を持って第1小隊より当該阻止線を移譲されました。直ちに行動を開始すると共に、隊員の生命に関して最大限の安全策を行使するよう務めます」

 引き揚げ始める第1小隊に代わり、我ら第2小隊が前面に出た。そこへようやく駆け付けた銃器対策部隊も加わる。

「……伊庭」

「八幡さん、後を頼みます。ガスマスクするのを忘れないで下さい」

 第1小隊の隊員たちは、一切発言する事もなく人員輸送車へ乗り込んでいく。小型警備車の上に陣取っていた狙撃班の2人も、やり切れない表情のままライフルを肩にかけて歩いていた。

「八幡警部。距離のある内に倒す事をお勧めします。接近されると、それだけ感染リスクが高まります」

「……忠告、感謝する」

 正しく苦虫を噛み潰すような顔の江住が発した言葉には、とてつもない重みがあった。誰もがここを後にしていく彼らの後姿に釘付けとなっていたが、自分たちの任務を思い返し、気持ちを切り替えていった。

「第1第2分隊は両翼に展開。第3分隊は小型警備車の屋根に上がれ。接近して来た場合は発砲を許可する。第4分隊は後方警戒と後詰に備えろ」

「各自、交替で拳銃を確認しろ。危ないと思ったら躊躇わずに撃て」

 さっきよりはかなりの戦力が揃った。第1小隊が射殺した野犬は計3匹。上岸地区の入り口にはまだ5匹近い数の野犬がこちらを睨んでいる。あれが全部こちらに向かって来たとしても、火力で捻じ伏せる事は出来るだろう。


岸菜町役場 3階会議室 対策本部

 県の危機管理室が持ち込んだモニター群によって、関係各所とテレビ会議を行う用意が整っていた。このテレビ会議に新たに加わるのは、渋川医療センターの感染症医師こと赤平弘至あかひらひろし。日本検疫衛生協会東京診療所の当直医師、大久保恵おおくぼめぐみ。衛生環境研究所、感染制御センター感染制御係長の若瀬正二わかせしょうじ。日本獣医生命科学大学獣医学部、松本まつもと教授。同学部、大峰おおみね准教授の計6人だ。

「各位、映像の状況は如何でしょうか」

 全員から問題ないとの返答があった。助役の高井が舵取りを行い、行政・警察・消防・医療・専門家を交えたテレビ会議が始まる。

「それではこれより関係各所での合同テレビ会議を執り行ないます。映像に遅延が発生する場合も御座いますので、聞き取れなかった場合はその都度に申し上げて下さい」

 まず、一番最初に行った会議と同じ内容を説明していく。見るに耐えない乱闘騒ぎは起きないものの、結果としてこの状況を許した行政に対して猟友会の反応は終始冷たかった。

「説明は以上となります。皆様方のご意見を頂ければ幸いです」

 衛生協会の大久保医師が挙手した。

『状況は分かりました。こちらで所有しているワクチンの提供に問題はありませんが、数が圧倒的に足りないのは明白です。取り急ぎ、協力を募って医療従事者及び警察消防関係者の分を確保します。正確な人数が分かり次第に情報をお願いします』

 続いて松本教授が挙手する。

『発症している野犬の数が20数匹と言われましたが、群れで行動しているとなるとグループの中で交配している可能性もあります。そちらで把握している以上の数が、実際には存在していると考えた方がいいでしょう』

『野生動物への感染にも十分注意して下さい。下手をすれば鳥類にも飛び火する恐れがあります』

 松本の隣に座る大峰が補足を加える。その言葉で役場の人間たちは表情を固くした。確かに可能性は考えられる。まだ把握仕切れていない場所に、上岸地区を襲った集団とは別の集団が居るかも知れないのだ。

 しかも他の野生動物へ感染する恐れまである事が、彼らの危機感を急速に煽っていった。

『人獣共通感染症である事を鑑みて、関係者と動物類の接触は断固として戒めて下さい。念のため、ペットもケージに入れられる場合はそうするように通達をお願いします。外飼いの犬猫に関しては、辛いでしょうがこの際割り切って頂く他ないでしょうね』

『同感です。お互いを護るためには最善の策かと』

 感染症医師の赤平と感染制御係長こと若瀬が同じ見解に辿り着いた。これを受け、役場の中で寝ていた地域猫をケージに隔離。上岸地区と対を成す菜ノ川地区の住民たちへも通達を出した。

「県内で狂犬病が人間に感染すれば、対応出来る病院はそう多くないでしょう。そちらの設備は4類感染症に対応可能でしょうか」

 保健所の栗田が赤平に尋ねる。その問い掛けに、赤平の表情は歪んだ。

『他の4類でしたら何とかしてみせる自信はあります。ですが、狂犬病となると難しいですね……』

 4類感染症とは、狂犬病を始めとしてA型・E型肝炎。インフルエンザ、マラリア等の比較的馴染み深い物もあれば、全く聴いた事のない病気も存在している。

 感染症はこの他に1類から5類までの振り分けがあるが、狂犬病が抜きん出て厄介なのはその致死率が発症すればほぼ100%である点と言えるだろう。これに関しては1類の病気にすら引けを取らない恐ろしさだ。

『この感染力の強さを考慮に入れると、ウイルスが変異している可能性も十分に考えられます。そうなるとBSL-3の施設では手に余るでしょう。我が国ではBSL-4の病原体を扱える施設がまだ少ないのが現状です。何処か近場へ一時的にでも調査のための研究拠点を設けるとなると、やはりここは政府関連施設がよろしいかと想われます』

 BSLとはバイオセーフティレベルの略で、数値が上がるほど危険である事を示している。特にBSL-4となると天然痘やエボラウイルスの研究に使用されるため、万一に施設外へ流出した場合を想定し周辺住民への説明や理解は必須と言えた。

 2018年に長崎大学がBSL-4の研究施設を建設しようとして周辺住民とトラブルを引き起こし、長崎地裁に情報公開の訴えを出した例も見られるぐらい繊細で取扱の難しい問題となる可能性を孕んだ事柄なのである。

『国立感染症研究所に大学の同期が居ます。もし野犬の死骸が入手出来れば、そこからゲノム解析が出来るかも知れません』

 大久保医師の提案によって、まず相手を知る事から踏み出していく方針に固まった。同時に、これ以上の感染拡大を防ぐ事、矢面に立つ人間の感染リスクを下げる事も方針の1つとして決定される。


 取りあえずでも方向性が見え始めた所で、第12旅団の先遣班が到着した。役場の駐車場に姿を現した軽装甲機動車が異質な雰囲気を醸し出している。

「各員は待機。須藤すどう二曹は一緒に来てくれ」

「はっ」

 軽装甲機動車の助手席から降りた田川一尉は、小型トラックに乗っていた化防隊の須藤二曹を伴って役場に踏み込んだ。特に歓迎されるような雰囲気ではなかったが、白昼色の照明に照らされる迷彩服が黙っていてもその存在感を際立たせる。

「失礼致します。県庁及び県警本部からの要請により参りました、陸上自衛隊第12旅団情報収集先遣班、指揮官の田川一等陸尉であります」

「第12化学防護隊の須藤二等陸曹と申します。私どもは化学兵器や生物兵器への対処能力を有しており、今回の事態に際しまして機材等を使用してのご協力が出来れば幸いと考えます」

「助役の樋口です。ご足労を頂き、大変に恐縮です。あちらの方へどうぞ」

 樋口は、彼らを渋川署の隣へ案内した。席に着いた2人へ高井が資料を配り終わると、警察消防への挨拶を済ませる。

「広域消防本部、警防部長の宇野です」

「渋川署次長の猪又です。応援、感謝致します」

「県機隊長、佐川です」

「宜しくお願いします。現場はどのような状況でしょうか」

 猪又がこれまでに至る大まかな現状を説明した。第1小隊と狙撃班の感染疑惑。第2小隊及び銃器対策部隊の布陣。手配済みの救急車の数。周辺病院のベッド数。そして、このテレビ会議の事も。

「一尉、待たせている3人を呼んで来て宜しいでしょうか」

「そうだな。彼らの意見も聞きたい所だ」

 席を立った須藤は、小型トラックに残された3人を呼んで戻って来た。この4人は一般大学の感染症病理学を卒業してから自衛官になった珍しい連中で、他の化防隊員や他部隊の人間に比べその知識は遥かに蓄積がある。

「す、済まない。遅れた」

 そこへ、スーツを着た1人の男が乗り込んで来た。役場側の空気がザワつき始め、助役の樋口と高井がその男に近付く。

「懇親会は」

「中止だ。町がこんな事になっているのに、呑気に酒なんか飲んでいられるか」

「ご無事で何よりです」

 どうやら、町長ご登場のようだ。高井から事情を聞いていた猪又は別として、消防の宇野や保健所の栗田らの目付きが険しくなる。猟友会の代表は今にも撃ち殺してしまいそうな眼光を向けていた。

「お集まりの皆様。私が岸菜町の町長、牧田です。大変なご協力を頂いて恐縮です。共に事態の解決へ向けて歩んでいきましょう」

 薄っぺらいと誰もが感じている。だが、無視する訳にもいかない。この男が樋口や高井を上回る決断と気配りが出来る事を祈るだけだ。役場側以外の人間の多くがそんな感情を抱いたまま、会議は進行していった。

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