短編「季節の言葉」
カイセ マキ
第1話 野菊
マサトが4才のとき、父親にいった。
「弟が欲しい」
父親は笑ってうなずいたようだった。
マサトの家は、食堂をしていた。
父親が料理を作り、母親がホールと事務。
いわゆる「町中華」という食堂で、ラーメンや炒め物などを中心に出していたが、お客さんに、
「かつ丼が食いたい」
と言われれば作り、
「今日はグラタンの気分だな」
と言われれば作って出す(そもそも、グラタンの気分ならそういうお店にいくべきだろうが)。
そんな食堂であり、両親だった。
店は、お客さんでいつも賑わっていた。
「まーくん、もうすぐお兄ちゃんになるんだって」
「うん」
お客さんによくそんなことを言われた。
母の大きなお腹を触って、お腹に耳を当てて。
もうすぐお兄ちゃんになる。
「もうすぐ」「もうすぐ」と言われながら、そう思いながら、その日はやってくる。マサトはとうとう「お兄ちゃん」になった。
マサトを「兄」にしてくれたのはしかし、弟ではなかった。
マサトに、妹ができた(後に弟もできる)。
「妹(弟)に親をとられる」という気持ちは、どの兄や姉もが抱くだろう。
マサトもご多分にもれず。
「服着せて」
「歯磨きできない」
など。赤ちゃんにかえってみる。
妹が生まれてくれば、自分は「お兄ちゃん」になるのだと思っていた。
でも、何かが違う。
なかの良い幼なじみにはお兄ちゃんがいた。
その幼なじみのお兄ちゃんと自分の「お兄ちゃん」は、何か違う。
幼なじみのお兄ちゃんは、かっこよかった。
まさに「お兄ちゃん」だ。
マサトの「お兄ちゃん」は、違う。お兄ちゃんぽくない。かっこよくない。
妹のせいじゃないか?
自分に似て顔が丸く、ぽっちゃりした妹。
妹が自分に似ているせいで、マサトはかっこいい「お兄ちゃん」になれないのじゃないか。
マサトが小学6年になると、妹が小学1年になる。
小学生になった妹は、兄たちと一緒に学校にいくことになった。
兄は、少し戸惑う。かっこいい「お兄ちゃん」にしてくれない妹を連れていくことが。
一緒にいたくない。一緒にいるところを友だちに見られたくない。
兄妹(きょうだい)に見られたくない。
マサトは、妹とあまり話をしない。
外では。家の中でも。
「マサト、メグミの宿題みてよ」
母親が兄にいう。夕方から夜、両親は子どもたちの面倒など見ていられない。
「うん」
両親、主に母親から「妹の面倒をみろ」と言われる。
「お兄ちゃんなんだから」
ときどき、父親にも言われる。
祖母にも言われる。
「お兄ちゃんでしょ」
鉛筆を机に突き立てて折ったことがあった。
マサトは、妹とあまりくっつきたくない。でも、妹はなにかと近づいてくる。
「おにいちゃん、あそぼ」
「おにいちゃん、おしえて」
「おにいちゃん、え、かいて」
おにいちゃん、おにいちゃん。
マサトは、友だちと遊ぶのに妹を連れていくことはない。
ある日、学校が終わった後。マサトが友だちと公園で遊んでいた。
友だちの家でゲームして遊ぶことが多く、外で遊ぶのは久しぶりだった。
公園で、サッカーボールを蹴ったりして遊んでいた。
マサトは、サッカーがあまり得意ではない。
走るのも遅かった。
小学校近くの銀行に、運動会の徒競走を走るマサトの写真が、なぜだか飾られたことがあった。
真ん中に、走るマサト一人が写った写真だった。
いかにもさっそうと走っているように見える、躍動感溢れる写真は、実のところ単独ビリッケツで走るマサトだった。
マサトは、すこぶる恥ずかしい。
公園で友だちと遊んでいる。
そこで、妹が、祖母と一緒に歩いているのをみた。
「めぐみちゃん来てるぞ」
「ん」
「いいの、いかなくて」
「いいよ」
かわいた返事だった。
祖母と妹は見えた、でも、見ないように気を付けた。
「ほら、お兄ちゃん」
祖母の声が聞こえてくる。そっちを見ないで友だちと遊ぶことの難しさ。
そっちを見ないようにすると、「そっち」どころかほとんど顔を動かすことができなかった。
「おにいちゃん」
きたきた、やっぱり、きちゃった。
妹が近づいてくる、すぐ近くにくる。
こんにちわ、こんにちわ。
祖母の挨拶に、友だちがこたえる。それはとてもありがたいことだ。
「おにいちゃん」
妹が、マサトの前に立った、マサトのお腹の前に。
妹は笑っている。マサトの顔に向かって手を伸ばした、何かを持っていた。
花のようだ。小さな花、5つ。
「野菊、とったのよ」
お兄ちゃんにあげるって。
祖母の声は聞こえた。
マサトは花を受け取った。妹が、笑った。
「とう!」
マサトはそれを、空に向かって放り投げた。
投げた。それは、捨てた。
妹は泣いて祖母のもとへと走っていった。
夜、マサトは両親にひどく怒られた。
「めぐみにあやまりまさい」
「マサト、ちゃんとあやまれ」
「ごめん」
その「ごめん」は、ちゃんとした「ごめん」だったかどうか。
夕飯をさっと食べると、両親はまた1階の店に戻る。今日の始末と明日の仕込みのために。
祖母が自分の部屋に引っ込む、居間に兄と妹の二人きりになる。
こたつに体半分突っ込ん寝ている妹の寝顔を、兄は、じっと見つめた。
何時間ほどか後。マサトが目を開ける。
暗闇。家は、静まりかえっている。
夜中である。当たり前であろう。
当たり前ではなかった。
家には、マサトと祖母の二人がいるだけだった。
両親と妹は、病院にいった。
妹が高熱を出して、親が病院に連れていった。
誰かに見られているような闇の中、ささやき声が聞こえるような闇の中で、横になって目を閉じると……。
マサトはじきに、眠りに落ちていた。
起きたとき、父親は家にいた。母と妹は、いない。まだ病院にいた。
青空がまぶしかった。白い雲がまぶしかった。風が、まぶしかった。
学校から帰ってくる。車があった。お店はやっていた。お客さんはいない。時間的に、いつものことではある。
二階にあがる。
居間には祖母がいた。
祖母だけがいた。
「おかえり」
祖母の顔は、いつもと変わらなかった。いつもの「おかえり」だった。
母と妹は、いない。
それはすなわち、そういうことだろう。
マサトは、居間を出て、急ぎ階段を降りた。
すぐに、階段を大袈裟に上がってくる、
「おばあちゃん、」
おばあちゃんに一つ質問をして、答えをもらって再び、マサトは階段を転げ落ちるように降りていった。
マサトは走った、昨日の公園に向かって。
北風に抗って、走った、時間を巻き戻すように。
時間を1日、巻き戻すように。
○
「ここ歩くの、何年ぶりなんだろ」
川沿いは風が強く吹く。
実家には毎年二度は帰ってきている。いわゆる「お盆と正月」に、両親に顔を見せるようにはしている。
両親は健在、元気に食堂を切り盛りしていた。
今は弟も厨房に入って料理を作っている。
朝飯を食べて9時を少し過ぎて。
ちょっと歩いてくる、と言って実家を出た。
言葉の通り、歩きたかったのだが、どこか行きたい場所があったわけではなかった。
何かに引き寄せられるように。何かの「あと」をたどるように。
フラフラと歩いてきた。
10月最後の日曜日。天気はいいが風がやや強い。
家を出たると、とたんに寒さを感じた、陽気の良さよりも。
ジーンズにジャージの上着を着て出たのだが、風と寒さに驚き、上着にさらにフリースを重ねて歩き始めた。
実家から20分ほど歩いている。すぐ左手の土手下に川が流れている。
実家の周りは、ここ5年ほどでずいぶん建物が増えた。
かつて田んぼや畑だったところに、ドラッグストアやスーパー、パチンコ屋が建った。
住宅も増えた。
「ふぅぅ」
大きく息を吐き出した。
この辺りは、あまり変わってないようだ。
川があって、近くに公園がある。
家を出たときは、特に目的地もなかった。
なんとなく足がこちらに向いた。
「あそこにいってみよう」
と、すぐに向かう場所は決まった。
妹からもらった花束を放り投げたあの日のことは、今でもときどき思い出す。
妹の泣き顔と、離れていく背中と。
祖母の困ったような顔と。
「おい!」
といった友だち。
あの後、気まずくなったのは家の中だけではなかった。
友だちと、遊んではいたが、透明な、柔らかいゴムのような壁があった。触ると痺れる、鼻をつけるとちょっと匂う、ような、見えない壁が。
壁はすぐに消えたが、「壁ができた」という記憶はなくならない。その後の人生に、小さくない影響を及ぼす。
マサトは、思い出して笑う。
「おい!」という声とともに、風に流れた野菊の花を拾いに走った友だちが、いたな。
川原の土手の草むらに、野菊は咲いていた。
しゃがんで、小さく頭をさげつつ、幾本か折りとった。
腕時計を見る。
そろそろ帰ったほうがいいだろう。
今日は妹の結婚式だ。
野菊の花束を、渡そうか、どうしようか。
妹は覚えているだろうか。
妹の旦那になるあいつは、覚えているだろうか。
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