第3話 邂逅
『目覚めなさい』
心に直接語り掛けてくるような、とても暖かい声。誰の声だろう。
かなり久しぶりに良く眠っていた気がする。最近はよく眠れなくなっていたからな。叶うならこのまま、この心地の良い眠りをずっと味わっていたい。
『早く目覚めなさい』
この声を聴いていると、心が安らぐ。言う通りに起きなければいけないような気がしてくる。
ただ、この眠りから目覚めることが今の俺にできるだろうか。
無理だ。
こんなに心地の良い眠りは何年振りだ?
ニートになり、自分の人生に価値、意味を見出せなくなってからは、まともに安眠することなんてできなかった。
しかし、今の眠りは違う。
全てを許し、温かく包んでくれるような、そんな眠りだ。
まるで心が洗われるみたいだ。自分という存在が希薄になっていくようで、このままどこまでも沈んでいきそうだ。
『そのまま死んでいいなら、そのまま眠っててもいいですけど』
ん?
なんだろうか。とても不穏な言葉が聞こえた気がしたんだが。それに喋っている人の雰囲気が変わったような気がする。
声に温度とやらがあるなら、マイナス10度ぐらいの変化があったような。
いや、気のせいだろう。今は少しでも長くこの眠っていたい。
『私としては残念ですけど、そのまま魂が浄化されちゃうと今のあなたとしての記憶は消えちゃいますよ』
寝ながら冷や汗がどばどば出てきた。
たった今聞こえた言葉が不穏以外の何物でもないんだが。寝耳に水どころではない。
この言葉が本当なら、俺って消えちゃうわけ?
なんだか急に意識がはっきりしてきた。
え、俺って消えちゃうんですか。
『だから、そのまま寝ていたらって言っているでしょう』
なるほど、起きたら消えずに済むのか。
というよりも、なんで眠ったら消えるんだ。そもそもこの状況はなんだ。この声も含めて夢?
そういえば俺って何時から寝てるんだ? 寝る前の記憶がない。
『覚えてないですか? あなた死んだんですよ』
死んだ?
誰が?
え、俺が?
俺はこの通り、、、。
『仕方ないですね。少しだけ思い出させてあげます』
☆
父からの留守番電話があった。
『母さんが……車に轢かれた』
父が息を詰まらせる様に告げた言葉。
全身から血の気が引いた感覚。居ても立っても居られず家を飛び出して走り出す。だが、体力がなさすぎて何度も立ち止まってしまう。
走り続けられず、歩きながら考える。
病院についたら父さんと母さんに今まで迷惑かけたことを謝ろう。いきなり就職は無理でも、なにかバイトをはじめよう。
10年間の空白を取り戻すのは簡単じゃないかも知れないが、もう両親に迷惑をかけたくない。
そう、決意した。
そして。
そして、目の前に大型トラックが迫っていた。
☆
「うわあああああ!!」
一気に目が覚めた。
そういえば、確かに俺はあの時、あの瞬間に死んだはずだ。なら、なんで意識があるんだ。
『やっと起きましたね』
すぐ傍から、呆れたような声が聞こえてくる。
声の聞こえた方に視線を向けて固まってしまった。
眠りながら声を聴いていた時から女性だということはわかっていたが、想像の数十倍は美しい姿だったからだ。
腰まで伸びた美しい金髪に宝石のような青色の瞳。
身にまとった白いドレスが恐ろしい程に似合っていて、触れることができないような神聖なオーラをまとっている。
神々しいまでに美しい女性が俺の目の前にいた。
生まれて初めて、リアルで金髪碧眼の人を見たかもしれない。それよりも、こんなにも綺麗な人を見たこと自体初めてだ。
生まれて初めてというか、死んで初めてなのだがそんなことはこの際どうだっていい。
思わず息をのむ。
百人いたら百人が振り向くどころか、その場で跪いて拝み倒しそうなほどだ。なぜ、こんな綺麗な人が俺の前にいるのか検討もつかない。
『私は神様、女神っていうんでしょうか。早速ですが、あなたにお知らせがあって私はここにました』
サラッと言ったが、神様?
普通なら何言ってんだこいつで済む話なのだが、それはできなかった。
理由はいくつかあるが、第一に目の前の女性は宙に浮いているのだ。ふわふわと。
ヒラヒラとスカートが揺れるがその中は決して見えない。浮いているから位置的には見えそうなのに。何故だ。
そんなことよりも、目の前にいる女性は本当に女神なのか?
状況から考えてもそうとしか思えないが。あれが見えないし。
よく考えれば疑う余地ありまくりなのだろうが、それができないほどに目の前の女性は綺麗だ。ゴクリと、自分の喉がなった気がした。
これが有無を言わさぬ美しさというやつか。
疑う余地のない神々しさが全開である。
これでこの人が悪魔とかだったら笑えない。あれだ、人を魅了するタイプの悪魔とかありうる。実際に俺は魅了されかけてる。
『私ほどの神に対して、悪魔とは随分な物言いですね』
「す、すいません、余りにも美しかったので……って」
この人、今俺の心を読んだのか? 俺声に出してなかったよな。俺はこの女神と出会ってから、今初めて声に出したが、ずっと会話が成立していた。
目の前にいる女神がそれを肯定するように俺に微笑みを向けてくる。
背筋にヒヤりと冷たいものが走った。なんだろう、この人がめちゃくちゃ怖い人に見えてきたんだけど。
女神なら心ぐらい読めるんだろうけど、俺は小心者なのだ。少し後ろに下がって距離を取ろうとしたのだが、それはできなかった。
今更になって気付いたが、殆ど身動きできないのだ。慌てて自分の身体を見て、ようやく自分が今まで眠っていたであろう場所がどこなのか気付いた。
「う、うわああああああああああああ!!!」
どろどろの真っ赤な沼だ。
底なし沼のように俺の体が少しずつ沈んでいっているのがわかった。
血のように真っ赤な底なし沼は、女神が俺に対して微笑んでいる今も、現在進行形で俺の体をより深くへと沈めようとしている。ゆっくりとだが、確実に沈んでいる。
俺の体は既に肩から上を残してその沼に沈められていた。
粘性の強い真っ赤なスライムのようなものが俺の体にまとわりついている。
なんでさっきまで俺はこんな場所で眠っていたんだ。
自分の危機的な状況に気付いた俺は、女神が俺に呼び掛けていた内容を思い出した。
女神は俺に『そのまま死んでいいなら、そのまま眠っててもいいけど』と言っていた。
俺はすでに死んだはずだ。
俺がただ寝ぼけていただけじゃなければ、女神は魂が浄化されるとか記憶が消えるとか言っていた。
俺の想像通りならここは、この沼は死んだ者の魂が行き着く場所なんじゃないか?
俺は死んだって女神が言ってたんだ。ならこの予想はあってると思う。
このまま消えるのか、新たに生まれ変わるのか知らないが、俺という存在は確実に消えるだろう。
この沼にこのまま沈んでいけば、俺は消える、のか?
俺が……消える。
家族に迷惑しかかけてこなかったニートが消えるんだ。それもいいんじゃないか?
俺みたいな奴はこのまま消えた方がいい。
それが一番良い気がしてきた。
そうだよ。俺なんて生きてても何の意味も……。
死を受け入れようとしていたからか、頭の中に走馬灯のように過去の記憶が浮かんでくる。
まさか死んでからも走馬灯を見ることになるとは思わなかった。
大学を卒業し、就職した企業で上司に人格を否定されるような叱責を受ける毎日。
無駄にプライドが高かった俺は家族に相談することもできずに、その日々に耐えることができなかった。
そのまま俺はプライドと一緒に一年という短い期間でぽっきりと折れてしまったわけだ。
走馬灯でも惨めな気分になるなんて、俺に生きている意味なんてあったんだろうか。10年という時間は決して短くない。
やっぱり俺はこのまま消えた方がいい。
不意に二人の顔が浮かんだ。
迷惑をかけ続けた俺を最後まで見捨てないでいてくれた、両親の顔が。
『ここで話すのもなんですからね。私なら、あなたをそこから出してあげることができますけど』
まるで悪魔の契約を持ち掛けられているような気分だ。
世の中、きれいな花には毒が、甘い言葉には裏があるのは理解している。
それでも。
『どうします?』
美しい微笑みとともに差し伸べられたその言葉に、俺は頷いていた。
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