26.不動の星

「さあ、入れ、アマリア。今日からおまえの店だ。ここにある道具や家具は好きに使っていい。戸締まりと火の元には気をつけろ」


「わあ……すごい……。ありがとうございます、コスタ子爵」


「礼なら墓の中の前店主に言え。必要なものはだいたい奴が遺していったが、足りないものは自分で補充しろ。レシピや台帳はここ、天秤や香炉はここ、ロウソクや火薬はここだ。火薬はもう湿気って使えな……お、まだ火が点くな」


「それ、何ですか?」


「着火具だ。携帯できて便利だから大切に使え。ここを回すとふたが開く。火薬を詰めて蓋を閉じて、ここを下げると火皿に火薬が適量だけ落ちる。引き金を引くと、石の摩擦で点火する」


「す、すごい、未来の道具……!」


「フリントロック式の銃の仕組みを応用してるだけだ。やってみるか?」


「いいんですか」


「これはもう、おまえのものだ」


「じゃあ、えっと、こうして、こうですよね、点いた!」


「火薬は気をつけて扱えよ。爆発したら上の階の住人もろとも店が吹っ飛ぶからな。それから、香薬の種を保管する棚には香薬師協会から新しい錠前が……」


「コスタ子爵、これ、すごいです! もう一度、試していいですか? 私、ロウソクに灯してみたいです!」


「……おい。……おいおいおい、何本ロウソク使う気だ」


「うわー、すごい! あっという間に、こんなに明るくなっちゃいましたよ! あ、火薬が切れた」


「火薬の無駄遣いだから、そろそろやめろ。あと、この店を燃やしたら怒るからな」


「こんな素敵なお店、絶対に燃やすわけありません。コスタ子爵には感謝してもしきれません。成人するまでの5年間、なるべくご迷惑をおかけしないように気をつけます」


「俺にだったら、迷惑はかけていい。感謝もしなくていい。未成年とはそういうものだ」


「じゃあ私、頑張ってすごい新薬を開発して、いつか恩返しします」


「返さなくていい。俺がおまえに望んでるのは——毎日元気でいてくれ。そして、いつでもいいから、生まれてきて良かったと思ってほしい。それだけだ」




     *




巡礼宿の宿泊客のほとんどはすでに寝静まっていた。早寝し、夜明け前に町を出て小一時間ほど歩き、コンポステーラで日の出を迎えるのが祝祭の日の定番なのだ。オリオンとエンリケも眠そうな顔で寝床のある大部屋へ向かった。


アマリアはルイシュに連れられて暗い階段を上った。たどり着いたのは巡礼宿の屋上だった。低い柵から身を乗り出して下をのぞくと中庭が見下ろせた。緑色の紫陽花が咲き、中央の池に数羽の水鳥が浮いている。


「おい、危ないぞ。落ちたらどうする」


ルイシュはアマリアの腕をつかむ。その表情は堅く強張っていて、今朝のようなコンスタンサにまつわる昔話が展開されるとは到底、思えないほどだった。


アマリアは怖くなって自分の肩を抱いた。それを見てルイシュは勘違いした。


「寒いか? これを着ろ」


ルイシュは上着を脱ぎ、アマリアの肩にかけた。日中とは打って変わり、屋上には涼しい風が吹いていた。


「すみません」


寒かったわけじゃありません、とは言えず、アマリアは彼のぬくもりが残る上着を有難く胸の前でかき合わせる。至福だ。一生、脱ぎたくない。アマリアはつかの間、恐怖を忘れた。


「さっき、オリオンと何を話していたんですか?」


アマリアはたわいのない話を振って、本題を先延ばしにした。その真意に気がついているのか、そうではないのか、ルイシュは落ち着いた様子で応じた。


「アルメイダの密輸手口について詳しく聞いていた。奴ら、香薬の種を“ヌーシャルテルのワイン”と呼んで流通させているらしい。隠語というやつだな。かなり組織的に、堂々とやっているようで驚いた。王妃殿下やマガリャンイス伯爵夫人を断罪することはできないが、アルメイダは必ず捕まえて裁かなければ」


香薬師協会会長が香薬の種の転売や密輸の容疑で捕まれば、大きな騒ぎになるのは明白だ。協会は人々からの信頼を失い、その営利主義的な性質が改革されるかもしれない。アルメイダが表舞台から退場すれば、教皇庁への種の輸出を阻む者もいなくなる。


何より、これまで横流しされていた香薬の種が市内に流通するので、種の価格は下がり、治療費も下がるだろう。サルースの杯はアルメイダに奪われてしまったが、アマリアが国王に協力することで種の生成量を増やすことができれば、治療費はさらに下がる。


「話というのは、おまえの今後のことだ」


アマリアが晴れやかな気持ちで明るい未来を想像している隙に、短気な男は話を切り出した。ルイシュは屋上の石段に腰を下ろし、アマリアに隣へ座るよう促す。アマリアの身体に再び緊張が走った。


「明日、王女殿下にお会いしたら、殿下からもお話があるが、先に話しておく」


ルイシュの口調は、まるで仕事の話でもしているかのように淡々としていた。


「おまえは王室から、結婚して子供を産むよう求められる。香薬の種を生成する力を持つ子孫を未来へ残さなければならないということは、おまえにも分かるだろう?」


無事にポルトへ帰ることができたら、アマリアは今まで通り香薬屋を続けるつもりでいた。公爵位の継承やジュネーヴ行きを免れさえすれば、それが叶うと思っていた。


だが、少し考えれば分かることだ。アマリアに特別な力があり、それが親から子へ受け継がれるものである以上、王室がアマリアを放っておくわけがないのだ。動揺し、己の考えの甘さに自己嫌悪し、アマリアは何も言えなかった。


「香薬屋はやめなくていい。生まれた子には王室が乳母や教育係をつける。おまえは出産後も店を続けられる」


アマリアの表情が曇ったのを見て、ルイシュは慌てて付け足した。額に汗をかいている。こんなに緊張している後見人をアマリアは見たことがなかった。


「それで、結婚相手のことだけどな。せめて好きな男と縁組をしてやろうと思って、昨日、コエントランにおまえの、す、す、好きな男を聞いた」


こえんとらんに、おまえのすきなおとこを、きいた。アマリアは口の中でルイシュの言葉を繰り返した。頭の中は真っ白だった。


「え、あの、それ、それって」


「俺が無理やり聞き出したから、あいつのことは恨むな」


ルイシュが気まずそうにあさっての方へ顔を向けたので、アマリアはコエントランが事実を正しく伝えてしまったことを悟った。恥ずかしい。今すぐ消えたい。全身が燃えるように熱い。


「あの、わ、私、す、すみません」


一介の香薬師が王宮伯に恋をするなんて身の程を知らないと呆れられただろうか。でも出会った時、ルイシュはまだ大臣の副官で爵位も子爵だったから、だから、ええっと、だから何だ? アマリアの頭の中は人生で一番とっ散らかっていた。ルイシュはおかしそうに小さく笑った。


「べつに謝るようなことじゃない。もしも、おまえがアルガルヴェ女公爵になっていたら、そういう未来もあったかもしれない」


そういう未来とは、アマリアとルイシュが結婚する未来ということだ。アマリアは聞き間違いかと思い、後見人の顔をまじまじと見た。彼は笑いを引っ込め、目を伏せた。


「貴族の婚姻の多くは、互いの利益になる相手と結ぶものだ。アルガルヴェ女公爵の配偶者になることは、俺にとってもコスタ家にとっても悪い話じゃなかった。だが、そんなに、うまくはいかないものだな」


うまくはいかない。そう言ったルイシュの声は低く、かすれていた。女公爵になる道はアマリアが自ら蹴った。ルイシュと結婚できたかもしれない未来を、アマリアは自分の手で閉ざした。愕然とした。


「おまえは自分のなすべきことが分かっている女だ。望む相手と結婚するためにそれを投げ打てるわけがない。そして俺もおまえと同じだ。職務を捨てることはできない」


アマリアが香薬屋を畳み、コスタ王宮伯夫人になることはない。ルイシュが大臣職を辞して、アマリアと下町で暮らすことはない。そんなことは、この恋が実らないなんてことは、彼と住む世界が違うなんてことは、初めから分かっていた。彼を好きになった3年前のあの日から、分かり切っていた。けれど、それを彼の口から彼の言葉で聞かされるなんて、地獄だ。


「残念だが縁がなかったな」


ルイシュは切なげな声で言った。彼がどんな顔をしているのか、アマリアの目には見えていなかった。月光も星光も滲み、世界が歪んでいた。もう二度と太陽が昇ってこない気がした。この世の終わりだと思った。


「子供を産めばいいだけなら、私をあなたの妾にしてください。私はそれで構いません。ルイシュさん以外の人なんて考えられません」


両目から涙がぼたぼたとこぼれ、見苦しい悪あがきの言葉が唇からこぼれた。妾にしてくれだなんて、エンリケに焚き付けられなければ出てこなかった発想だ。しかし、迷いはなかった。それしかないと確信していた。


「何を言ってるんだ」


ルイシュは怒ったような目でアマリアを見下ろし、その涙に気がついて狼狽えた。アマリアは泣きじゃくりながら後見人へ食ってかかった。


「ご自分が後見人を務めている元孤児を妾にするのは体裁が悪いですか?」


「そういうことじゃない。俺はおまえには、ちゃんと幸せになってほしいんだ」


「ちゃんと、って何ですか? コンスタンサさんだって、王様の妾だったんじゃないんですか?」


「違う。コンスタンサは死ぬまで陛下を想っていたが、あのふたりは決してそんな関係じゃなかった」


「私だって、ずっとルイシュさんを想っていたいです。ずっと好きでいたい。ただ、それだけなのに……」


膝を抱え、そこに顔を埋め、アマリアは泣いた。本当は大声を上げたかったが、声を殺して泣いた。ルイシュを困らせるだけだと分かっていたが、涙が止まらなかった。つらい時に思い出すルイシュからの手紙の文面も、今は頭に浮かんでこない。


ルイシュは泣き続けるアマリアの肩をそっと抱いた。彼の手は夜風になぶられ、冷たくなっていた。


「俺がおまえにしてきたことを考えれば、俺はおまえに嫌われて、恨まれて、疎まれて当然だと、俺はそう思っていた。それに俺はおまえより14歳も年上だし、女に好かれたことが人生で一度もない。だから、おまえが想いを寄せてくれていたと知って、驚いた」


女性から慕われたことがないというのは彼の思い込みだろうとアマリアは思った。寄せられた好意に気がつかないだけだ。


「心底から驚いたが、とても嬉しかった。おまえの気持ちに応えられればいいとも思う。だが、俺にとっておまえは宝だ。何より大切なんだ。いい加減なことはしたくない」


「いい加減でも私は構いません。他の人なんて嫌です。何でも構いませんから私をあなたのものにしてください」


顔を膝に埋めたまま、絞り出すように、アマリアは言った。しつこい女だと思われても、はしたないと軽蔑されても、彼を翻意させることができるのなら何だってする。


「そうできたら、よかったのにな」


ルイシュの手がアマリアの髪に伸びた。短い金髪を撫でる彼の手は優しかった。こんなに優しいルイシュをアマリアは知らない。大切になどしてくれなくていいから、ぞんざいにしてくれていいから、そばにいさせてほしかった。


「しかるべき相手を国王陛下が選んでくださるはずだ。おまえはいい妻になり、いい母親になるだろう。古い恋はいつか消え、今感じている胸の痛みも必ず癒える。ただ、時が過ぎゆくのを静かに待てばいいだけだ。何も心配は要らない」


想い人からの慰めの言葉は、かえってアマリアの胸の傷を深めた。アマリアがどれだけ言葉を尽くして愛を語っても、どれだけ彼を説得しても、どれだけ泣いても怒っても、ルイシュの考えは変わらないだろう、そんな気がした。つまるところ、アマリアとルイシュは対等ではないのだ。後見人と元孤児という間柄では仕方のないことかもしれないが、主導権はルイシュが握っている。それが悲しかった。


盲目的にルイシュを信じるアマリアをエンリケは笑い、思考停止せず自分で考えろと言った。「そうでなきゃ、いつまで経っても君はあいつと対等になれないぞ」と。これは彼と対等であろうと努力してこなかったことへの報いなのだろうか。


「俺がおまえを初めてコンスタンサの店へ連れて行った日のことを覚えてるか? おまえが店中のロウソクに火を灯した、あの夜だ」


ルイシュは唐突に思い出話を始めた。それは3年前、アマリアが孤児院を出た日のことだ。夕暮れ時、アマリアはルイシュとともに彼の馬車に乗り、孤児院長のセルジオに見送られて孤児院を去った。


下町にあるコンスタンサの香薬屋へ着くと、ルイシュはアマリアと大家を引き合わせた。コエントランが2階の居室へ荷物を運び込む間に、アマリアはルイシュに連れられて隣人たちへ挨拶をして回った。地上階にある香薬屋へ足を踏み入れる頃には日が没していた。


ルイシュはランタンで暗い店内を照らし、備品や消耗品の収納場所をアマリアに教えた。そしてアマリアは、彼が使い方を指南してくれた最新式の着火具に取り憑かれた。棚に入っていたロウソクを全部カウンターに立て、壁のランプや燭台に刺さったロウソクもろとも、すべてに火を灯した。


ロウソクの数はせいぜい15本ほどだったと思うが、前王宮香薬師から受け継いだ立派な香薬屋と、そこにたたずむ男の呆れ顔はアマリアの目には眩しいほど明るく煌めいて見えた。


「あの時はコンスタンサが死んでまだ2ヶ月も経っていなかった。俺はおまえの顔を見る度に罪悪感を覚えていた。孤児院を出たおまえを守っていけるのか不安でもあった。深く暗い森に迷い込んだような、そんな気分で毎日を過ごしていた」


アマリアはルイシュの話を膝を抱えたまま聞いていた。あの時、アマリアは生涯で最も浮かれていた。孤児院を出て自立し、自分の店を得て、新たな人生のスタートラインに立った瞬間だった。とはいえ、少し無神経にはしゃぎ過ぎた。急逝したコンスタンサとルイシュが懇意だったことは知っていたのに。


「はしゃいで、すみませんでした」


何も今ここで非難しなくてもいいじゃないかと思いつつ、アマリアは嗚咽まじりに謝罪した。ルイシュはやけに嬉しそうな笑い声を漏らした。


「叱っているわけじゃない。俺はおまえに感謝してるんだ。おまえがロウソクに火を灯して回った時、あの暗く淋しい店をおまえが明るく照らしてくれた時、俺の心の中にも火が灯った気がした。熱くて、星のように煌めく火だ。太陽や月のように昇ったり沈んだりする星じゃない。火星や金星のような惑う星でもない。昼も夜も同じ場所にある北極星のような、旅人の道標となる不動の星だ」


こんな歯の浮くようなことを言う人だっただろうか。アマリアはわずかに顔を上げ、ルイシュを見た。彼はこの上なく甘く柔らかな眼差しでアマリアを見ていた。


「おまえは俺に救われたと言ってくれたが、俺は逆だと思う。救われたのは俺の方だ。コインブラでもブラジルでもアルガルヴェでもポルトに帰ってきてからも、毎日セルジオ先生からの手紙を心待ちにしていて、いつもおまえのことを気にかけていた。3年前、初めて会ってからもそうだ。誰にも悟られないようにしていたが、金曜日におまえの店に行くのは俺の一番の楽しみだった」


ルイシュはアマリアの父親ではない。なぜ、単なる友人の娘にそこまで彼が肩入れしていたのか。アマリアは見過ごすことのできない疑問を抱いたが、口から出たのはもっと優先順位の高い言葉だった。


「そんなこと、今、言わないでください! 私のこと、拒絶したくせに!」


涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を再び膝に押しつけ、アマリアは泣きながら怒鳴った。素直に喜べなかったが本当は嬉しかった。週に一度のルイシュの来店はアマリアにとって至福の時間だ。それを彼も楽しみにしていた。こんなに嬉しいことがあるだろうか。


「すまない。今しか言えないと思った」


ルイシュはアマリアの身体に両腕を回し、強い力で自分の方へ引き寄せた。アマリアは彼の胸に顔を埋め、彼はアマリアの髪に顔を埋めた。ルイシュの胸から、彼の速い鼓動が耳に届いた。アマリアの心臓も同じリズムを刻んでいた。


「俺のような奴にはもったいないとは思うが、アマリアを妻にできたら、俺の人生はちょっと面白いことになっていただろうな」


面白いって何ですか馬鹿にしてるんですか私の気持ちを何だと思ってるんですか。そう言ってやりたかったが、言葉にならなかった。声を上げて泣き始めたアマリアの背中をルイシュは子供をあやすように優しく叩いた。アマリアが彼にしがみつくと、ルイシュは腕の力を強めた。


「おまえがどこの誰へ嫁ごうと、どんな生き方を選ぼうと、俺の願いは変わらない。毎日元気でいてくれ。そして、いつでもいいから、生まれてきて良かったと思ってほしい」


それは3年前に煌めくロウソクの灯りに包まれて聞いたのと同じ言葉だった。あの時のアマリアは彼の願いに「はい」と従順に答えたが、今はどうやっても承服しかねた。なんて勝手で、なんて重たい願いだ、そう思った。


「ありがとう、アマリア」


ルイシュはアマリアの背中を叩きながら、ため息のような声で言った。それが何に対するありがとうなのか、泣きじゃくるアマリアには問うことはできなかった。

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