第2話
ナパージャ大陸の北の方にあるガウコの夏の朝は早い。山の端から光が盆地の方へと差し込むころ、農場に一つの人影が伸びた。その陰の主は目を眠そうにこすりながら井戸の方へ向かい水を汲みに行く。井戸まで来ると、慣れた手つきで井戸から水を汲みだし、まずは小さなたらい一杯に入れ、たらいごと頭上に掲げてひっくり返した。ひんやりと冷えた水がバシャン、と少年に降り注ぐ。濡れて目の上にかかった髪を首を振ってよけると、ばっちり目を覚まし、そのぱっちりとした目を見開いた。
よし、と小さく気合を入れ、今度は大きなバケツへと水を汲み始めた。汲み終わるころには既に、少し汗ばんでいたが、少年の朝の仕事はこれからが本番だ。
まず、ドラゴンたちを刺激しすぎないように、小屋の清掃を行う。先ほど汲んだ水で入念に汚れを洗い流した後は、汚物だめへとドラゴンたちのし尿を運ぶ。ドラゴンたちは賢くきれい好きなので隅に作った簡易トイレにきちんと排泄するのだが、肉食なのでその匂いは何年掃除をしても慣れるものではなかった。こぼしてしまうと大惨事なので、臭いで顔をしかめながらも慎重にそれを運んだ。小屋の掃除の次は、餌やりだ。近くの牧場から毎日送られてくる新しい肉を農場の入り口まで取りに行き、ドラゴンに与える、ということを何往復もする。
やっと朝の仕事が終わると、家族の皆と朝食だ。ドラゴンたちには肉を与えていたヒューゴだが、自身は滅多に肉にありつけず、朝は野菜と卵とパンで済ませる。
朝食が終わると、ドラゴンたちの訓練と運動のためにそれぞれのドラゴンの持ち主である、ヒューゴの父や兄たちが空を飛んだり火を吹かせたりする様子を小屋の近くから楽しそうに見守っていた。
昼食後も餌やり以外に特にすることはなく、夕ご飯が終わると小屋の点検をしてから床に就く。
ヒューゴはこの一見退屈でしかない仕事を毎日楽しそうにこなした。ドラゴンが大好きだから。彼の原動力はそれだけだった。その美しいフォルムと力強い四肢、優雅に飛ぶ姿などそのすべてが彼を魅了していた。
空を飛ぶ兄たちを見ては、いつか自分のドラゴンを持ってみたいと毎日のように願い続けていた。
ヒューゴが15歳になった日にその長年の夢がかなった。
ラース家では代々、男の子なら15歳になると自分のドラゴンが与えられることになっていた。
ヒューゴは勿論そのことは知っていたから誕生日の前日は、どのドラゴンが渡されるのかという期待で、眠れなかった。
朝になって、いつものように朝の清掃などを終えて食卓に着くと、父のいつもとは違う雰囲気に気が付いた。ヒューゴはワクワクを表に出さないように、それでもいつもより早く朝ごはんを食べ終えると、父が改まった様子で話し始めた。
「ヒューゴ、今日でお前も15だ。お前にもドラゴンを訓練してもらうことになる。あとで赤の小屋の前に来い。」
短くそう言い残して席を立つと、朝来ていた郵便物を持って、二階の書斎へと向かった。
ヒューゴは、ワクワクを抑えきれなくなりそうになっていた。せっかくもらうなら強いドラゴンがいい、そう思っていたヒューゴは赤の小屋と聞いて父の育てているほぼ成獣となったレッドドラゴンを任されると期待した。赤の小屋にはほかにもまだ若いドラゴンや雌のドラゴンもいたが、それのは生育には熟練した技術が必要とされるため、自分には回ってこないと高をくくっていた。
父が小屋の方に着いた頃を見計らって速足でヒューゴも小屋へと歩いて行った。息子に気が付くと手招きをして走って来るよう促した。
ヒューゴの横で父は黙って小屋の方を指す。
その先にあるものを見て、ヒューゴは自分の中にあった大きな期待が砕け散る音を聞いた。
「今日からお前にはあれを育ててもらう。」
指さした先には、ヒューゴの憧れたドラゴンとは対照的な、若く、いかにも育てがいのありそうなやる気のない目をしたオスのレッドドラゴンだった。
「と、父さん、これは一体…」
「お前は兄弟の中でもひと際多くのドラゴンについての知識を持っているし、兄ちゃんたちを見て育て方もよく見てきたはずだ。そんなお前の資質と経験を考えてこいつを任せることにした。」
「で、ですが…」
小屋の中央にいる立派なレッドドラゴンの方に目をやる。
「あれはもう十分に育っているからこれから育ててもお前の勉強にはならん。それにもうじき騎士団へと送る予定だ。」
「そ…うなんですね…。」
「あぁ、それと、こいつはまだ飛べないうえに火も吹けないから、基本的なことから訓練してやってくれ。」
伝えることだけ伝えると、父は立派な方のレッドドラゴンを連れ出し、飛行訓練に行ってしまった。
残されたヒューゴは再びレッドドラゴンのその眠そうな目を見て、がんばろうか、と声をかけると、とりあえず小屋からドラゴンを出して農場の散歩から始めた。
上空で様々な種類のドラゴンたちが飛び回っている中、地上では飼い主とリードでつながれたドラゴンが歩いている様はなんとも滑稽だった。
結局、一日目は散歩と火を吹くための呼吸練習、軽いランニングで終わった。
夕飯時に「散歩は楽しかった?」「透明な火は初めて見た」だのと兄弟たちにからかわれたのは言うまでもない。
初めてドラゴンに対して悩み事を抱えたヒューゴは、朝が来なければいいな、と思いながら眠りについた。
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