第10話 白い悪夢2


 環は白い闇の中をひたすら走り続けていたが、どうしても霧を抜けることが出来なかった。


(またこの夢!)


 異世界に来てから、夢の中でずっと霧の中を逃げ惑い続けている。

 焦燥を感じながら環は背後を振り返る。深い霧の中、追っ手の姿はどこにも見えない。前も右も左にも、脅威に感じていた気配は感じられないような気がした。足を緩めて気配を探る。


(逃げられた? そうだといいんだけど……)


 行く宛てもなく逃げ続けるのはとても疲れる。目覚めている間もしんどいのは、この夢が影響してるのではないかと思えた。


(せめて夢の記憶が残っていたら、ギムレストさんに相談できるのに……)


 ギムレストは普段と違うことがあれば相談して欲しいと言っていた。もしかしたらこの夢も、ピアスの呪いに関係しているのかもしれない。

 それなのに、この夢は目が覚めている間はぼんやりとしか思い出せない。環は歯痒い思いをしていた。


(もう少し離れよう……)


 そう考えて足を踏み出したとき、右手のそでがツイと後ろに引かれた。ぞわりと肌が粟立つ。とっさに振り返ると、霧の中から伸びた真っ白い手が、環の袖を掴んでいた。


「――ひっ」


 生気の感じられない骨ばった白い手は、儀式陣を開いていた手に重なって見えた。縫いつけられたように動けない環の前で、ベールがめくれるように霧が動き、白い手の持ち主が姿を現す。


「――――っ!」


 環は声にならない悲鳴を上げた。


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 異世界に召喚されて三日目の朝が来た。環は鈍い痛みを訴える頭を押さえながらベッドに身を起こす。


「あぁ、もう、朝なのね……」


 夢見が悪いのか、どうにも頭が重い。かすみがかかったような感じがずっと続いている。夢の中で何かに追いかけられていたような気がするが、起きると思い出せない。

 緊張が続いていて、ストレスが溜まっているのが原因かもしれないし、昨日の一日中馬車に揺られ続けて、体の疲労が取れていないのが原因かもしれない。年のせいとは思いたくない。どちらにしろ、心身ともにストレスフルになっている自覚はあった。


「はあ」


 ベッドを降りて、備え付けられたバスルームに入り、洗面台で顔を洗う。鏡はないのに、置かれた水差しには魔法だか何かがかかっていて、常に新鮮な水がたたえられている。

 進んでいるのか、遅れているのか、よくわからない世界だと思った。マディリエに聞いたところによると、下水道の設備はあるということなので、結構しっかりした都市構造になっているようだ。サスペンションは無かったが。


「サスペンション……」


 そう、馬車の下を確認した限り、減衰力を発揮しそうな構造は無かった。割れ物を運ぶときはどうしているのか気になるが、なにより、あの乗り心地を誰も改善しようと思わなかったのか。この世界の人間にとっては、マッサ-ジチェアに座っているような心地良い揺れ程度にしか感じられないのか、時間が許せば聞いてみたいと思う。


 環はベッドルームに戻って、マディリエに用意してもらった服に着替える。十畳くらいのスペースに小さな暖炉、その前にベッドと壁際に空のチェスト、小さいサイドテーブルと椅子、そして狭いがバスルーム付きの部屋が、環に与えられた部屋だった。


「今日は確か話せるのよね?」


 話す相手はギムレストかヴィラードのどちらかになるのだろうか?

 出来ればギムレストの方が助かる。ヴィラードは対応に気が抜けなくて疲れるからだ。

 彼の、弱っている女を感知するセクハラセンサーは、はなはだ迷惑なことに天下一品だった。少しでも気を落とした素振りや、困ったり、悩んだりしている姿を見せると、すかさず側に来てなぐさめられていた。何を言っているのかカケラもわからなかったのは幸いだったかもしれない。


 昨日の馬車に乗る前もそうだったし、馬車が休憩で止まった際に、這々ほうほうの体で車外に出て、新鮮な空気を弱々しく吸っている時もそうだった。

 その度にマディリエが凍りつくような態度で追い払ってくれるのだが、マディリエに迷惑をかけすぎるのも悪い。要は環がヴィラードに隙を見せなければいいのだ。

 おかげで、休憩中は始終笑顔を貼り付けて、平気な態度を取り繕う必要に迫られた。これが疲労に追い打ちをかけた。馬車での移動は環にとって非常に辛いものになった。


「こんな感じでいいかしら……」


 環は自分の姿を見下ろす。

 淡いブラウンのノーカラーブラウスは、ボタンの代わりに胸元に通された紐で靴紐のように緩めたり締めたり出来るようになっている。その上にオレンジ色の糸で刺繍された黒いボディスを身に着け、下はダークオレンジのロングスカートで、スカートの裾にも黄色と白い糸で刺繍が刺してある。靴は柔らかい革のショートブーツだ。

 全体を見た環の心に、ふと疑問が浮かんだ。


「……なんか、全体的に黄色系じゃない? ヴィラードさんの色合いに近いような……」


 濃い金髪とオレンジの目が服装に重なる。そういえば昨夜、この服を渡してくれたマディリエの顔が、若干引きつっていたような気もする。


「……いや、まさか。いやいやいや、ないない。ありえない。はぁ、ちょっと疲れてるのね、私……」


 ヴィラードが環のために、自分の色の服を用意した。という気持ち悪い想像をしてしまった。疲労で想像以上に神経質になっているようだ。

 非常事態においてネガティブ思考はいけない。あの短時間で、こんな服をわざわざ用意できるわけはない。たまたまだ、偶然に過ぎない。環はそう自分をたしなめた。


 マントのフードを被るので、髪の毛は邪魔にならないように編み込み、うなじの部分で内側に織り込んだ。編み込みは細かくきっちり行う。ゆるふわ系はいけない。万が一にもヴィラードのセクハラセンサーを刺激するような要素は排除しておくに限る。ゆるふわ系はきっとヴィラードの好みだろう。環の勘が、そう警鐘を鳴らす。自意識過剰とはわかっていても、一抹の不安を拭いきれない環は、身支度に慎重を期した。


 自前のハンドミラーを覗き込むと、顔色の悪い自分が映っていた。疲労というより、血の気が引いて青白くなっているような感じだ。環の体感としては疲労の方が強く、貧血の意識はない。

 全く異なる環境に来たものだから、体が順応出来ていないのかもしれない。呪いを受けていると言われた精神的なストレスが影響しているのだろう。それから馬車移動の肉体的ストレスも。


 環は色の変わったピアスに触る。この血色が駄目だ。なんというか禍々まがまがしくて憂鬱になる。呪われているので当然かもしれないが。せめて同じ赤でもルビーやガーネットのような透明度があれば良かった。見てて楽しい綺麗な色だったら、ストレスも軽くて済んだかもしれない。

 ピアスを見ているだけで気分が下がりそうになったので、これはいかんと視点を顔に戻した。そして自分に言い聞かせる。


「油断は禁物。無理せず、焦らず、自覚している以上に体に注意を向けて、そして必ず家に帰るのよ」


 そう宣言して鏡の中の自分に、無理矢理ニコッと笑いかける。そうすると、最初よりも顔色はマシになった気がした。


「よしっ!」


 軽く両頬を叩いて気合を入れ、顔色を誤魔化すために、薄くフェイスパウダーを乗せた。


 窓の外を見ると、昨日いた町と同様に裏庭になっていた。三階なので、取り囲んだ塀の向こうが見える。塀の向こう側には映画のセットのような街並みがあった。もちろん高層ビルなんてものはない。似たような造りの明るい黄土色のレンガ造りっぽく見える街並みが広がっていた。


 レンフィックという町に行くと言っていたので、ここがそうだと思うが、まだ馬車移動が残っているなどと言われたら絶望しかない。

 せめて気分転換に外に出られたらいいのだが、洞窟を出てからこっち、人目を避けているように思える。虜囚というわけではないが、厳しく管理されている気がする。自分の置かれた立場について、あとで直接聞いてみたい。


 身支度を済ませた環は、手帳を持って部屋を出た。そこは廊下ではなく、リビングスペースになっている。

 壁の一角には立派なマントルピースがあり、中央には四人掛けのテーブルと窓辺に布張りのカウチソファがあって、廊下に続くドアと、部屋の反対側には、もう一つのベッドルームがあった。スイートルームのような造りだ。ただし豪華というわけではない。


 もう一つのベッドルームはマディリエが使っていたようだが、今は片肘のカウチソファでくつろいでいた。環は笑顔を浮かべた。


『おは、よう』

『あら、おはよう。…………朝ごはんにする?』


 マディリエの視線が環を上から下までチェックしたあとに、微妙な間があった気がしたが、この服のせいだとは思いたくない。


『ええと、あさ?』

『ああ、いいわ。カイも一緒に食べるから、呼んでくるわね』

『ん? カイ? い、い……』


 早い言葉に着いて行けず、首をかしげて考えていると、マディリエが手をひらひらさせる。


『いいの、いいの。待ってなさい』


 そう言って、部屋の床を指差すと出て行った。おそらく今のは「待っていろ」だと思う。環はテーブルに着いて息をついた。言語の学習を始めたのだが、これがまた難しい。


 元来、環は語学が得意な方ではない。しかし、そんな事情を会社は斟酌しんしゃくしてくれない。

 当然のように海外転勤を命じられ、必死になって文字通り体で覚えてきたのだ。環の学習方法は、ひたすら書いて、読んで、喋ってを地道に繰り返すだけだった。

 聞くだけで憶えられる系の方法は、語学にセンスのあるタイプでないと無理じゃないかと思う。少なくとも環は無理だった。

 だから今回もこうして単語を書きまくっているのだが、ノートの枚数には限りがある。尽きる前に日本に戻れれば万々歳だが、ギムレストは時間がかかると言っていた。


(ノートかぁ……)


 単語帳を作るために、この世界の紙を入手するべきか悩む。手配書を書くときにヴィラードが「紙をくれ」とギムレストに言っていたのだから、少なくとも紙はあるはずだ。その品質と入手方法を知りたい。


 しばらくして手に食事の乗ったトレーを持ったマディリエが、カイラムと一緒に戻ってきた。カイラムもまた、食事を持ってきている。


『おう、タマキ、おはよう。さー、飯にしようぜ』


 カイラムはそう言ってカラリと明るく笑い、テーブルに食事を並べ始めた。部屋を出ていく前にマディリエが言っていたのは、カイラムを呼んでくるということだったか、と理解する。


『おは、よう』


 環も笑顔で挨拶を返した。基本的にこの二人は仲良しで、環がいてもいなくてもポンポンと調子良く話をしている。

 他人に気を使わせたくない環にとって、この二人は丁度いい距離感を保ってくれる。踏み込みすぎず、構いすぎず、かといって放っておかれるわけではない。お目付け役なのだろうが、緊張せずにいられるのは、ありがたかった。


 良く煮込まれた見た目野菜スープと、ナッツっぽいものが練り込まれた、見た目パン・ド・カンパーニュというシンプルな朝食と片付けが終わり、しばらくすると扉がノックされた。

 カイラムが応対に出てギムレストが入ってくる。その手に見覚えのある青いネックレスを持っていた。例の翻訳ネックレスだ。


『どうぞ』


 と差し出されたので、単語はわからなかったが、遠慮なく受け取り、頭から被る。今のはどう考えても「早よ着けろ」的な意味だろう。今は五つの石全てが青く透き通っている。


「おはようございます。タマキさん」


 秀麗な白皙の顔に微笑みを浮かべたギムレストの言葉が理解できる。本当に凄い技術だと思う。


「おはようございます。ギムレストさん」


 環も挨拶を返した。やはり言葉が通じるのはホッとする。


「今日はまず、先日の続きで所持品の確認をさせて頂きたいと思います」

「ここで確認をするんでしょうか?」

「ええ」

「確認なさる方はギムレストさんだけですか?」

「はい、基本は僕です。差し支えがあるでしょうか?」

「いいえ、とんでもない。よろしくお願いします」


 聞き返すギムレストに、環はすぐさま否定をした。ヴィラードがいないなら一安心だ。


「それでは、お荷物を持ってきてください」

「わかりました」


 環が所持品を全て持って戻ると、ギムレストはテーブルに着いて行儀よく待っており、カイラムは後頭部で手を組んで深く背もたれに寄り掛かっている。マディリエは椅子に横向きに座り、背もたれに肘を乗せて頬杖をついていた。この二人は検査というより、野次馬といった格好だ。

 環の右側にギムレスト、正面にカイラム、左にマディリエという構図になった。席に着いた環にギムレストが口を開いた。


「タマキさん、鞄を開いて見せてくれますか?」

「開く? 中身を外に出さなくていいのですか?」

「ええ、凶器の有無についてはおさが確認していますから、今日は全体を上から見せて頂ければ結構です」

「わかりました」


 環がショルダーバッグの口を開いて差し出すと、ギムレストがうなずいて片手の杖を軽く上げた。


『我が目に映るは真実の軌跡。太古の昔から遥か未来まで巡り続ける不変の旅人よ。汝の物語を語れ』


 翻訳ネックレスをしているのに、今のギムレストの言葉は理解できなかった。スターサファイアの目を金色に染めて、ギムレストがショルダーバッグを覗き込んだ。


「…………」


 目を細めてじっと見ていたかと思うと、少し首をかしげた。


「魔術の品はないようですね。……タマキさん、鞄の下部が膨らんでいますが見せて頂いても?」


 そう言って、二気室になっているバッのグ下側を指差す。環のショルダーバッグは某アウトドアブランドのもので、登山用のバックパックにあるように靴を入れられるようになっていた。今は会社内で履いているパンプスが入っている。


「はい。出しますね」


 そう答えて、ベージュ色をした、エナメルの七センチヒールのプレーンパンプスを取り出した。シンプルだが美しいラインを描くヒールに一目惚れして買ったお気に入りの一品である。

 テーブルに置くのもどうかと思って、手で持ってギムレストに見せた。ギムレストがしばらく沈黙してから環を見る。


「これは……靴、でいいのでしょうか?」


 頭上に疑問符が見えるような気がした。


「はい。ご覧のように靴です」

「……これが、ですか?」

「ええ、もちろんです」


 肯定すると金色に光る目で不思議そうな顔をした。


「変わった靴だな」

「かかとが細すぎじゃないかしら?」


 カイラムとマディリエからも感想が飛んできた。


「皆さんそうおっしゃるということは、こちらにはこういう形の靴はないんですね?」

「見たことねーわ」

「ないわね。歩きにくそうだわ」

寡聞かぶんにして存じません」


 三者三様に否定してくる。確かに今環に貸与されているブーツのかかとも常識的な太さと高さだ。


「そうですか。それで検査はいかがでしょうか?」

「そちらは問題ありません」

「良かった。ありがとうございます」


 環がパンプスをしまおうとしたとき、カイラムが声を上げた。


「待った待った、それで本当に歩けるのか見せてくれよ」


 そう、興味津々の顔でリクエストしてくる。マディリエとギムレストも興味がありそうな顔つきをしていた。


「ええ、まあ、構いませんけど」


 環はショートブーツを脱ぎ、素足にパンプスを履いて立ち上がった。ヒールの高い靴を履くと、自然と背筋が伸びる。

 コツコツと聞きなれた音を立てて、軽く室内を歩いて見せた。端まで行って、くるりとターンして戻る。ダークオレンジのスカートとベージュのパンプスは色の相性も良い。黙って見ていた三人は、環がテーブルに戻ってくると何故か複雑な顔をした。


「ずいぶんと優雅に歩けるのですね。半信半疑でしたが、お見事でした」

「そんな大層な事じゃないんですが」

「異界には不思議な靴がありますね。勉強になりました」


 感慨深げに変わった褒め方をするギムレストに対し、カイラムとマディリエは頭を寄せ合う。


「これさ……」

「危険かもしれないわ」

「うん。なんか、こう、はじけちまうんじゃねーかな」

「見せないほうが賢明よね」


(弾けるって何が……?)


 よくわからないが不吉なことを言っている二人を見ると、マディリエが至極真面目な顔をした。


「悪いことは言わないわ。それは封印しておいた方が身のためよ」

「ふ、封印?」


 せっかくのお気に入りを、呪いのアイテムのように言われてしまった。環はきれいなベージュのパンプスを見下ろす。何度見てもラインが美しい、ただのパンプスである。呪われたピアスに比べたら清涼剤のような爽やかさだ。


「鼻息を荒くしたおさにしつこく口説かれたいというなら、止めはしないけ……」

「バッグに封印して誰にも見せません」


 環は食い気味に約束した。ある意味呪いのアイテムだった。安全保障に関わるなら背に腹はかえられない。名残惜しくてもバッグにしまい込む。


「危ないところだったな」

「確認しておいてよかったわ」


 満足そうにうなずく二人を見ながら、環はヴィラードを恨めしく思った。

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