吸血鬼と雪女《side:美鶴木科戸》

 位空様?

 どうしてここに。


 そう尋ねる前に手を引かれた。

「え」

「おい、位空」

 ぐいっと引っ張られて、背中でナキの声を聞いた。

 そのまま有無を言わせず拐われる。

「あー……悪い」

 何故か謝るナキの声が聞こえた。


 吸血鬼が姿を変える話は有名だが、今日の位空はこの間見たときより年上に見えた。二十代後半……身長も高く声もやや低い気がする。

「位空様」

「うん、どうかした?」

 答える位空の声は優しい。なのに科戸はそれ以上何も言えなくなってしまった。

 怒っている気がする。

 位空は科戸の腕を掴んだまま人混みを避けるように手近な温室に入っていった。『関係者以外立入禁止』と札がかかった温室内は人の気配が無くしんと静まり返っていて、科戸の背丈より高い植物がところ狭しと並べられていた。

 そこでやっと手が離れる。掴まれていた腕がまだ熱い。

「あの、位空様……」

「嬉しいな。今日は顔を見て話をしてくれるんだね」

「え?」

「この間はあまり目を合わせてくれなかったから」

 位空がこちらの顔を覗き込んでこようとする。気恥ずかしくなって顔を背けると声がかかった。

「ああ、逸らさないで」

 戒めるように位空は科戸の頬を触れた。

「……」

 硬直する科戸をじっと見て指先を滑らせる。

「困ったな。白い首筋が目に毒だ」

「……」

 科戸はとっさに温室の扉の位置を確認した。扉は位空の背後にあって、外に出るには彼を躱していかないといけない。距離にすると二、三メートルといった所だが……。

「遠い……」

「何が?」

「扉……」

「逃げたいの?」

「いえ……すみません。何だろう……」

 科戸は口を押さえた。

 無意識に考えが漏れていた。

 普段なら言わなくていいと判断して表出しないはずの言葉が、思考の波間をすり抜けていつの間にか口に出ていた。

 しまりの悪い蛇口みたいに、ポタポタと言葉が落ちてくる。

「位空様が怒ってるみたいに見えて……それで」

「怖い?」

「怖い……怖いくらい綺麗で……」

「ふふ、ありがとう」

「……」

 話そうと思っていないのに言葉が出てくるのは吸血鬼の力の一端だろうか。

 しかも口が弛んでいるだけでなく……科戸の凍らせたはずの心、ガチガチに固めた警戒心や緊張感、そういったものが溶け出してきているのを感じる。

 つまりどういうことかと言うと……今、科戸は位空に対して行為のようなものを抱いているということだ。頭がじんじんして、目が離せない。

「どうかした?少しぼんやりしてるね」

 微笑みながら彼は言葉を紡いだ。心地の良い声を聞いているだけで足元がふわふわしてくる。

「おっと」

 まるで雲の上に立っているような心地だ。バランスを失ってふらつくと腰に手を回され抱きとめられた。

「立てない?僕に掴まって」

「何か……」

「ん?」

「声……聞いてるとくらくらします……」

「気持ちいいね?」

 気持ちいい?

 一瞬、頷きかけた。

 自分の物ではない思考が、じわじわと紙を濡らしていくみたいに侵食していく感覚。

 科戸は首を振った。

「気持ち悪いです、エレベーターに乗ってるみたいな浮遊感……」

「うん。僕らの声はね、そういう風にできてる。人を惑わせる。僕らは本来悪い妖怪だからね。大人数でいる時はさほど気にならないと思うけど……今は二人きりだからね。耳によく馴染むでしょう?僕に懐いちゃいそうかな?」

 位空の声はだんだんと小さくなっていく。聞き取りにくいくらいの囁き声。それなのにさっきから周囲の音が聞こえない。温室の外には人がたくさんいたはずなのに。

 位空の声しか聞こえない。

 彼の声を聞くために全神経を集中させて、その他の雑音をシャットアウトしている。

「科戸さん」

 名前を呼ばれただけで背筋が痺れる。

「お返事して?」

「……」

 くらくらする。くすっと笑う声。

「さっきから時々呼吸を忘れてる。だからくらくらするんだよ。ちゃんと息をして」

 優しい声が科戸の頭に響いて気持ちいい。だけどまだ冷静な頭の片隅が怖いと叫んでいる。そんな科戸の脳味噌を位空の声がクチュクチュと掻き混ぜてくる。

「大丈夫。僕の声だけ聞いて」

「……」

「貴女が懐くのは僕だけだよ」

 ぞわりとした。

 本当に彼の声だけに従って、

 今までの科戸の全部が捩じ伏せられて、

 それを悦ぶような、そんな。


 科戸の心の奥底で、黒い何かが蠢いたのを感じた。


「……っ」

 ピシッ!と音がした。

 科戸は甘い腕を振りほどき位空の身体を押し退けるとフラフラと温室の壁に寄りかかった。

「あ……私……」

 位空を見ると彼の手が凍っていた。

 科戸がやったのだ。

「残念。落ちてこなかった」

 冗談なのか本気なのか、位空はそんなことを言った。ダークグレーのスーツが氷付けになっていることなど気にした様子もなく、美しい吸血鬼は科戸の顔を見ると柔らかな笑顔を浮かべた。科戸は困惑する。

「……ごめんなさい」

「ん?」

「手が」

「ああ、本当だね」

 位空が手を振ると今度はパキン、と音がして氷が割れた。割れた氷が地上に落ち粉々に砕け散る。

「透明な綺麗な氷だ」

「佐久間さんに連絡を……」

「どうして佐久間刑事?」

「傷害罪だから」 

 位空が微笑む。

「どうして?人に慣れない猫みたいで可愛かった」

「……」

「俺のそばにいるときに俺以外の名前を呼ばないで」

 科戸はどうしていいか分からず、位空を見ることしかできない。多分情けない顔になっているだろうと思う。戸惑いながら言葉を紡いだ。

「私は……あまり行間を読むというのが得意ではありませんので、何か仰りたいことがあれば率直に言っていただけると助かります。……すみません」

「率直に?」

「あの……怒ってらっしゃるんですよね?私がナキ様と一緒にいたから」

「んー、怒ったのかな?僕は。まぁでもそうだね、怒ったのかもね」

「誤解させてしまい申し訳ありません。偶々ここでお会いして、一緒に行動しました。誓って人様の恋人に手を出したりしません。ですが不快な気持ちにさせてしまったなら心から謝罪します。すみませんでした」

「……。ん?」

「え?」

「ごめん、何の話」

「ナキ様と位空様は恋人同士だと……この間このかさんのお宅で……」

「……ああ。あったね、そんな設定」

「え?」

「いや、こっちの話。ああ、それで僕が怒ったって?」

「……違うんですか?」

「玄葉さんは昔から誰彼かまわず懐にいれる人だから。あれで案外人の世話を焼くのが好きなんだよね。人嫌いみたいな雰囲気醸し出してる割に」

「……?」

 どういうことだろう。科戸がナキの傍をウロチョロしていたから怒ったのではないのだろうか。

 てっきり『焼きを入れられる』シチュエーションだと思ったのだが。

「えと、じゃあ私がまだこのかさんに付きまとおうとしたからですか?」

「ん?どういうこと?」

「和泉さんに頼まれてるんですよね?このかさんはちゃんとしたお家の、きちんと育てられたお嬢さんだから……私のような正体の分からぬ不吉な人間が側にいるのは相応しくないと……」

「そんな風に自分を卑下するような物言いは貴女にしてほしくないな」

 思いのほか真剣に位空が言った。

 底の知れない翠緑色の瞳が無言でこちらを見ている。ただでさえ気まずいのに黙られると更に居心地が悪い。時間にして数秒の沈黙が今の科戸には耐え難い。いたたまれない空気に根を上げて再び意味もなく謝罪しようとした時、ようやく位空が口を開いた。

「噛んであげられると良かったんだけどね」

「え?」

 何でもないことのように告げられた不穏な台詞。

「噛む?」

「貴女の首を噛んで、交じり合って、僕専用にしてしまえば……和泉さんももう疑ったりしないのに」

「……」

「知らない?知っているよね。博識な貴女のおばあ様はそれも教えてくれたはずだよ。吸血鬼はね、妖怪の血なら何でも腹におさめることは出来るけど、僕らにだって好みはある。特別に気に入った相手には印をつけて自分専用にしてしまうんだ。そして血の契約を結び吸血鬼の眷属となった者は、主である吸血鬼には逆らえない。嘘も吐けない。例え貴女がこのかさんに悪意を持っていたとしても僕が命じれば手出しすることはできない。……それが吸血鬼と契約するということだ」

 眷属となった混血の首元には印が浮かぶという。それは眷属を望む者にとっては誇りであり、望まぬ者にとっては呪いになる。

 不意に科戸の脳裏にチョーカーをつけたナキの姿が浮かんだ。

「ナキ様……」

「ふふ。そうだね。あの人はね可愛いくて可哀想な人なんだ。まだ年端もいかぬ頃に悪い吸血鬼に噛まれてしまった。あ、噛んだのは僕じゃないよ?」

 内心、えっと思った。てっきり彼の首に印をつけたのは位空だと思っていた。

「でもね、彼が彼たる所以はここからでね。絶望どころかブチ切れたんだよね。彼を噛んだ吸血鬼に『こんな呪い引きちぎってお前を殺しに行ってやる』って啖呵をきる少年だった。ね?可愛い人でしょう?」

 クスクスと笑いながら位空は続ける。

「だからもう一度、今度は僕が噛んであげた。そうしたら吸血鬼の支配を上書きできるかと思って」

「そんなことをしたら……」

「結果的には成功したよ?でも三ヶ月ほど昏睡状態に陥って死にかけていたかな。そんな訳で玄葉さんの首には不本意な契約印が二つある。前代未聞過ぎて流石に目立つからいつも隠しているんだよ」

「……」

「最初の吸血鬼の支配はなくなった訳ではないから、あちらの支配と僕の命令が相反する時は気が狂う程の苦痛に苛まれるはずだけど……玄葉さんは生粋のマゾヒストだから耐えられるみたいだ。普通は身体がもたないと思うんだけど」

 吸血鬼と契約する方法は知ってる?と聞かれて、科戸は首を横に振った。

「死ぬ直前ギリギリまで血を抜いて代わり吸血鬼の血を入れるんだ。血を受け入れられる器だけが眷族になれる。……だから僕に貴女は噛めない。貴女の身体を僕の力を満たせばきっと死んでしまうだろうから」

 科戸は吸血鬼の血を受け入れる器ではないということだ。平凡な妖力しか持っていないCランクの混血だから。

「……このかさんに危害を加える気なんて一ミリもありません。証明する術はありませんけど……」

「心を見せて?」

「……それは」

「できないんだ?」

 位空の瞳の奥に酷薄な色が混ざった。傲慢で美しい表情に科戸は息をのみ、まるで時が止まったかのように動けなくなった。

 

 例え血の契約を交わしていなくても、この人の前で嘘を吐くのは至難の業だろう。

 彼が微笑むなら……君の話が聞きたいな、なんて優しく言われたら、もっと褒めてもらいたくなって何でも話してしまう。そんな魅力を持った人だ。

 ……秘密を暴かれたくないのなら正気が残っているうちに自分の喉を掻き切る必要がある。


 再び刻が動き出したのは、ガチャッと温室のドアが開きナキが姿を見せた時だった。

「ここにいたのか人さらい」

「人聞き悪いな」

「おい大丈夫か、セクハラされてないか?訴えるか」

「や……大丈夫です」

 ホッと息を吐く。愛想笑いの一つも浮かべない人なのにナキがいるだけでピリピリした空気が霧散した。

「これ忘れもん」

 ナキが片手を上げる。その指先にぶら下がった小さな紙袋。

「あ、すみません。ずっと持たせてしまって。ありがとうございます」

「なぁ」

「はい」

「あんたコレどうやって渡すつもりなんだ」

「あ、えっと、郵送しようかなと思ってます」

「ああ、じゃあ俺が届けといてやるよ」

「……」

 科戸は瞬きして、それから急いで首を振った。

「いえ、悪いです」

「届けて、そんでこのかの様子も見てきてやる。気になってんだろ」

「それはそうですけど、でも」

「連絡先交換しとくか」

「うーん!?それはどうなんですかね」

 位空様の前で?

 それはどうなんだろう……。

 恋人の前で堂々と連絡交換とは。いや、目の前だからいいのだろうか?心に疚しいことがないということの証明……でも何となく位空の方が見られない。ナキはカラリとしてそうでもなさそうだが、位空の方はとても嫉妬深い人なのではないだろうか……。これだけ美しい人でも不安になったりするんだなと科戸は驚きつつも微笑ましい気分になったが、その敵意の先が自分だというのはやはり困る。

「いやー……あのですね。やっぱり悪いですし、何て言うか、色々」

「何で。届けてやるよ、面白いから」

 面白いとは。

 どこら辺に面白いポイントが。

「いや、っていうか、えーと……何と言ったらいいか……」

「科戸さんが困ってるよ」

 位空の声が聞こえた。意外なことに笑いを堪えたような声だったので、とりあえず科戸は安堵した。……もう怒ってはなさそう、かな。それならいいんだけど。

「玄葉さんはこのかのさんの様子を確認したら僕に連絡を」

「これから行けってか。明日でいいだろ」

「プレゼントは鮮度が大事だから」

「いや、マグカップだから。鮮度とかねぇから」

「気持ちの鮮度だよ。渡したいと思った時に渡しておかないと、後になったら面倒臭いとか、やっぱり気に入らないかもとか、色々悩みが生まれてくるだろう?」

「あー……まぁそうか。という詭弁で納得しといてやるよ。植物園ここの帰りに寄るけど、俺も買いモンしてぇから」

「何買うの」

「花の苗」

「可愛いね」

「死ね。……おい、科戸」

「えっ、はい」

「つー訳だから」

「え、はい。え?」

「これ届けとくわ。そこの変態に変なことされそうになったら迷わずぶん殴れよ。じゃあな」

 ひらひらと手を振ったナキはあっさりと温室を出ていってしまう。

 取り残された科戸は呆然と立ち尽くした。凄い速度で話が進んでいった。

「科戸さん」

「は、はい」

「もう少し植物園を見て回る?」

「いえ、大丈夫……です」

 そんなことをしたら今度はナキに怒られ……何故かあちらは怒らないような気もするけど、同じ轍は踏まないようにしなければ。

 このかへのプレゼントが買えたなら科戸がここにいる理由はなかった。科戸はナキと違って植物にはそれほど興味がない。本が好きだから花言葉は少し覚えているけれど。

「そう?それじゃあ行こうか」

「え?」

 どこへ?

「家まで送るよ」

「……いやいや、大丈夫です」

「嫌われたかな?僕の車には乗りたくない?」

「いえ、そういう訳では……って、ああ!お金!」

「お金?」

「マグカップのお金……。ナキ様に渡してないです……」

「ああ。玄葉さんに連絡してみるよ。スマホは……車に忘れてきてしまったな。取りに行こう」

「え、はい。……。……?」

 一緒に駐車場に向かうことになっている?

「あの……」

「ほら、走って!」

「え!?」

「今追いかければまだ追いつけるかもしれないし」

 位空が科戸の手をとった。半ば強制的ではあるが、戸惑いながらも科戸は走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る