5 家路に並ぶ

 一通りの試着を問題なく終えて、目的の買い物を果たしたあとは帰路についた。


 夕暮れ時が近づきはじめた街並みは、昼時に比べれば、行き交う人の数もやや少なくなってきている。買った物をまとめた包みを手に、来た道を戻るレヴィンの影を、傾きかけた陽が歪に引き延ばしていた。


「手は、」


 それまで黙ってレヴィンの少し後方を歩いていたユキが、不意に声を発した。立ち止まって振り返れば、赤みを帯びはじめた陽射しが目に入る。まぶしさに細めた視界の中で、ユキがまっすぐこちらを見ていた。


「手?」


 拾った音を無意識に繰り返してから、はっとする。少し前に聞いたばかりのユキの言葉を思い出した。


 ――手をつなぐのも好きだ。触れていると、安心するから。

 ――おまえと一緒にいられて、嬉しいだけだ。


 言葉を飾ることを知らない人間の言うことは、ちょっとした暴力にも近いということを思い知った瞬間だった。レヴィンはこれまで、こんなにまっすぐ必要とされたことはなかった。


「…………つなぐか?」


 無意識にこぼれた声は小さく、雑踏に紛れてしまいそうだった。これではユキに届かなかっただろう。荷物で塞がっていない方の手を差し出して言い直そうとしたとき、開いていた距離を小走りで埋めたユキが、その手を取った。


「つなぐ」


 素直で率直なユキの言葉に、ふっと笑みがこぼれた。自分のものより小さな彼女の手が、たしかな温度をもって触れている。それを温かいと感じたとき、自分の内側が思いのほか冷えていたことに気づかされた。


 黒髪の少女は、迷いのない瞳でこちらを見ている。

 あの雨の森で、彼女を見つけた。ただそれだけの理由で、レヴィンはユキの特別になれた。雛鳥のすりこみのように簡単に。


 本当に不安で寂しいのは、たぶん自分の方なのだろう。愛情も優しさも、優しい人たちからたしかに与えてもらってきたはずなのに、ときどきどうしようもなく居場所を見失いそうになる。


 だから、ユキがまっすぐ求めてくれることに安堵を覚える。必要とされているのだと感じるたび、ここにいてもいいのだと思える。彼女が隣にいてくれることに、救われている。


 胸に沸いたまとまりのない感情を、それでもかたちにしたい衝動がこみあげてきて、唇が動いた。


「……俺も、おまえがいてくれて嬉しい」


 率直さというものは伝播するものらしい。らしくない自分の言葉に恥じらいながらも、伝えられた満足感に、レヴィンは肩の力を抜いた。不安定に渦巻いていた感情が、たった一言に集約されて、きれいにおさまった気がした。


 ユキは見開いた黒い瞳にしばらくレヴィンを映したあと、こぼれるように笑った。人形のように整った顔が、はっきりと喜色に綻んで、血の通った少女のそれになる。

 そこから二人は、並んでゆっくりと家路を歩いた。



◆◆◆◆◆



 ユキとレヴィンが街へ出かけたその夜、エルマはユキの部屋にいた。


 寝台の他には小さな机と椅子、空きの目立つ棚がひとつずつ置かれているだけの室内は、ユキがこの屋敷で暮らすようになった日、エルマとゼルマが急ごしらえで用意したときから変わっていないように見えた。持ち主の主張がない簡素な空間ともいえるが、掃除は行き届いている。


 この屋敷では、私室の掃除は各自が行っている。まだユキが来る前、三人だけの暮らしの中で、自分の部屋くらい自分で片付けられるからとレヴィンが決めたことだった。


 ここでの生活をはじめて間もなく、それを知ったユキが自分も、と言い出したので、エルマは掃除の仕方を教えた。それから一月が過ぎても部屋が変わらない状態を保っているということは、彼女がきちんと掃除を続けているからなのだろう。


 エルマは微笑んで言った。


「まあ、そのワンピースも可愛らしいですね」


 エルマの目の前には、今日買ってきたばかりの深緑のワンピースを身につけたユキが立っている。整った顔に浮かんでいるのは相変わらずの無表情だが、別段、不機嫌なわけではないし、お着替えを迫ったわけでもない。


 夕食の席で今日の買い物の話を二人から聞いていたエルマが、「新しいお洋服を着たユキ様、早く見たいですね」とつぶやいたら、ユキが「なら部屋に来ればいい」と誘ってくれたのだ。


「それにしても、ユキ様がこんなふうに誘ってくださるとは思わなかったので、嬉しいです」

「エルマが喜ぶと思ったから」


 無表情のまま、淡々とユキが言う。本当にただそう思ったから口にしただけなのだろう。この少女の、こういう飾らないところがエルマには好ましかった。


「私が喜ぶと思ったから、誘ってくださったんですね」

「前に、女装させたときの話をしていただろう」


 ほっこりしていたところに耳を疑うような言葉が返ってきて、エルマは自身の記憶を深く探った。


「……ああ、レヴィン様に妹の服を着させた話のこと、でしょうか……?」


 こくりとうなずくユキを見て、エルマはひとまずほっとする。女装させたなんて……すごい表現だった。たしかに間違っていないし、間違っていない。間違っていないのだが、すごい表現だった。額に汗が浮かんでくる。


「エルマはそういうのが好きだと思って」


 どうしよう、とエルマは思った。この少女の頭の中で“そういうの”がどういう定義になっているのか、知りたくない。


「私は、お姉さんみたいな人でありたいんです」


 動揺して、とにかくなにか言わなければと強く思ったせいか、言う予定のなかった言葉が口から漏れた。


「お姉さん?」


 聞き返すユキに、エルマは苦笑する。話題の転換ができたのは幸いだが、冷静に聞くと、とても幼い言葉に感じられた。最初から誰かに聞かせるつもりだったなら、もう少し違う表現に変えていただろう。けれど口にしたことを濁すのは、あまり好きではなかった。


「私たちの母がレヴィン様の乳母をしていたことは、ご存知ですか?」


 ユキはうなずいた。


 実のところ、ユキに対してレヴィンがなにをどこまで話しているのかを、エルマは把握している。だからこれから話すのは、彼が話すと決めた線引きを超えない範囲の内容にとどめるつもりだった。


「私とゼルマを含めて、我が家には五人の子どもがいましたが、レヴィン様との距離が一番近かったのは私たちです。歳が近かったこともあって、幼いころはいつでもレヴィン様と一緒にいました。きょうだいのように、と言っていい関係だったと思います。それこそ、妹の服を着せて遊んでしまうくらいには」


 くすりと思い出し笑いがこぼれた。


「成長するにつれ、自分たちが本当のきょうだいとは違うことも、近しく一緒にいられるのは、レヴィン様が成年を迎えるまでだということも知っていきました。けれど、幼いころに一度そうだと思い込んだことは、容易には変えられないものです」


 だから自分は――自分たちは、この屋敷でレヴィンと共にいられる道を選んだ。そのために必要なことは厭わなかった。その結果として、今の暮らしがある。


「本当のきょうだいにはなれなくても、それでもレヴィン様は、弟のように大切な存在なんです。幸せであってほしいし、彼の大切なものを、私も大切にしたい。そう思っています」


「……だからか」


 ささやくような声がして、エルマは、心の内を探るように話しているうち、無意識に俯いてしまっていた顔を上げる。


「はじめて会ったときからずっと、エルマは優しかった。それは、お姉さんだからなのか」


 ユキの黒い瞳が、柔らかく自分を映していた。

 きっと、これもまた思ったことを口にしただけの言葉なのだろう。媚も衒いもない、ただの感想だった。だからこそ、まともに響いた。


 まだなにも知らなかった、幼いころ。レヴィンは素直で、聞き分けのいい子どもだった。けれども病弱で、すぐに熱を出してしまうから、体調面では目が離せない、手のかかる子どもでもあった。


 さっきまで熱にうなされて心配させられたかと思えば、熱が下がれば退屈だから早く遊びたいと言って、エルマを呆れさせた。あどけなくて、甘ったれで、かわいい――エルマの弟だった。


「……お姉さんにはなれないんです。本当のきょうだいでは、ありませんから……」


 それでも、共に過ごした時間は消えない。抱いた情はなくならない。たとえつながりが途切れ、見えなくなったとしても。


「だから、お姉さんみたいな人でありたいんです」


 本物になれないのなら、偽物でいい。どんなつながりでもいいから、もう一度、と望んだ。そうして少しでも、彼が幸福に近づくための力になれたら――


「……ユキ様は、レヴィン様とずっと一緒にいたいですか?」


 答えをわかっていながら、エルマはそう聞いた。

 彼女の予想を違えることなく、ユキは迷わずうなずき返してくる。こんなふうにまっすぐに求めてくれる誰かと、レヴィンは出会えたのだ。そのことがなにより嬉しかった。


 叶うことなら、彼女の望みが、この先もずっと変わらないままであってくれたらいい、とエルマは思った。

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