第7話 共鳴する命
ふわっと浮かんでいるような感覚。まるで空を飛んでいるかのようだ。
ゆっくりと瞳を開けると、目に映ったのは木目の天井。ぼんやりとその模様を辿っていると、いくつかの装飾が見えた。それがただの木板ではないと、なんとなく理解した。
「クオトラ……クオトラ!?」
聞き覚えのある声。それなのに、なぜだろう――その声の主が思い出せない。
「クオトラ!」
体を起こす。みしみしと軋むように痛む体を無理やり引き起こすと、目の前に金髪の女性が立っていた。肩まで切りそろえられた髪、碧眼。どこかで見たことがあるような、ないような、記憶の断片が浮かぶが、靄がかかったようにぼやけていて、掴みきれない。
「誰……だ?」
朦朧とする意識の中で、ぽつりと呟く。その声を聞いて、金髪の女性――いや少女が目を潤ませた。彼女を泣かせてはいけない、そんな誰かの声が頭の中で叫んでいる。
だけど、突然の出来事にどうすれば良いのか分からず、僕はただ黙り込んだ。
居心地の悪い沈黙。クオトラは自分の体を確かめる。動く、声も出る。意識はまだぼんやりとしているが、少なくともこれは夢ではない。
「夢じゃ……ないのか?」
自分自身に問いかけるように、呟く。体に響く感覚がどこか懐かしく、つい口を開けたり閉めたりしてしまう。
「夢じゃ……ないわよ」
目の前の少女が震える声で答える。その声に、心が揺さぶられた気がした。あぁ、僕はこの言葉を待っていたんだ。そんな気がした。安堵が胸に広がり、気づけば涙が頬を伝っていた。
「フレーリア……」
「もう、覚えてるのか覚えてないのか、はっきりしてよ……」
彼女は涙を滲ませながらも、微笑んだ。その笑顔がどうしようもなく愛おしく感じられるのに、彼女とどんな関係だったのかはまだ思い出せない。記憶を掻き回して探すが、答えは見つからなかった。
「私はフレーリア・トレブカペル。アルフィグの街で起きたエルージュティアの悲劇から生き延びた者の一人よ。体は少し変わってしまったけど、幼馴染みの目覚めを、七年間待っていたの」
七年。あまりにはやすぎる時の流れ。だが、クオトラには全く実感が湧かなかった。まるで昨日のことのように、記憶は欠けたままだ。
「僕は……クオトラ・アタラネルヴァ。ずっと、僕を待っていてくれたの?」
「そうよ。倒れてから、動かなくなったあなたを、ずっと……毎日不安でいっぱいだった」
ふわりとフレーリアがクオトラに抱きつく。彼女の腕は痩せたクオトラの体を強く抱きしめ、離れようとはしない。どうしたら良いか分からないまま、クオトラはなんとか彼女の体を抱き返した。
「僕は……長い夢を見ていた。誰かの、長い夢を」
「聞かせて」
フレーリアの震えが少しずつ消え、柔らかい声で問いかける。その声に誘われるように、クオトラは微笑み、自分ではない誰かの物語を話し始めた。
夢の中で、自分が人間ではなかったこと。いつしか人間になってしまったこと。怒りに震え、無力感に押し潰され、やがて暴走し、何か大切なものを失ったこと。そして、その夢の中で、彼に出会ったこと。
まるで他人の話のはずなのに、ルーシュという男の半生を語るのは、驚くほど容易だった。
「長い夢ね」
「うん。とっても」
柔らかく、温かな温度がクオトラの体をほぐしていく。七年間、凍りついていたクオトラ・アタラネルヴァという存在が、ようやく動き始めたような気がした。
しかし――
突然、胸の奥から激しい鼓動が鳴り響く。
「離……れて……」
内臓が溶け、喉から溢れ出しそうな感覚。クオトラはフレーリアを振り払い、荒く息をつこうとするが、呼吸をすればするほど、体はどんどん熱くなっていく。
いや、熱いなんてもんじゃない。体の内側から燃え上がるような、全てを焼き尽くすような感覚だ。気づけば、体中に耐えがたいほどの感情が押し寄せていた。
許さない。許すな。許してはいけない――
僕か、僕じゃない誰かが、頭の中で絶え間なく叫んでいる。耳を塞いでも、内から響くその声は止められない。
「やめて、やめてくれ……どうにかしてくれ!」
「クオトラ! クオトラ!」
誰かが僕を呼んでいる。しかし、その声も掻き消されていく。真っ白い光が僕を照らし、その強すぎる光に僕の影すら消え失せていく。
「許すな」
気づけば、僕はそう呟いていた。誰の声かも分からない。苦しい。苦しくて、どうしようもなく苦しくて、胸に手をやると――そこには、白く輝く炎が燃え上がっていた。
「帰ってきてくれたと思ったのに……。帰ってきてよ……」
悲しそうな声が聞こえる。それがフレーリアの声だと分かっても、感情の波に飲まれてそれ以上の理解ができない。
体が変わり始める。背中から白く光る何かが生えてきた。それは人間のものではない。僕の体が、変わってしまう。その姿はきっともう、人間じゃない。
「クオトラ……」
フレーリアが恐る恐る近づく。今にも暴れだしそうな状況のクオトラだったが、思いの外我慢が利いた。フレーリアがもう一歩と、クオトラに近づく。
辞めてくれとクオトラの残滓が弱々しく叫ぶが、それもきっと届かない。
荒い吐息が繰り返され、クオトラは苦しく喘ぐ体を起こす。背中から生えた白い何かが、まだ足りないとクオトラの生命を侵食する。
「もうやめて」
フレーリアが彼に寄り縋る。一瞬、時間が止まったかのようだ。彼女は悲愴な表情のクオトラに耐えきれず、目線を逸らすが、彼の命が儚く揺れていることだけは察していた。
彼女がそっと、クオトラの唇に口づける。苦しみに満ちていた体が、不思議なほどに静かになっていく。
クオトラの全てをかき消していた、恐ろしい程の激情が霧散していく。
「フレーリア……」
クオトラは彼女を見つめた。これが、彼の全てを溶かしていった。
「もう、どこにも行かないで……」
瞳を潤ませるフレーリア。クオトラはその表情を知らない。彼女はまるで自身の姉のように、どんなときも気丈に振舞ってくれていた。分からない。自信が彼女に抱く感情も、彼女が自分に向ける愛情が何なのかも。
夢に落ちている間、自身の知らぬ間に成長して、既に姿は互いにあの頃とは違う。そんなことは分かっていたが、心の中に残っていたクオトラ・アタラネルヴァが彼女の全てが欲しいと叫んでいた。
「ごめん、フレーリア」
クオトラは、背中に生えた激情の証を無理やり抜き取る。身体の内から生えていたそれは、驚くほど容易く抜ける。どろりと、背中から固まりかけた血液が零れ落ち不快な音共に地面を赤く濡らした。
細く、うねった細い棒は、鉛を思わせる質量感があり、床に置くと床が悲鳴をあげた。
クオトラが大きく息を吐くと、自信を飲み込みそうに蠢いていた胸部の光が、ゆっくりと収束していった。
「でもごめんフレーリア。僕はもうダメなのかもしれない」
何が起こっているのか分からない恐怖。まず生きていることすらも、不思議だった。あの時、人間とは思えない何かによる攻撃を受け、絶命を余儀なくされたと思っていたのに……。
「貴方……そうね。クオトラがどうしてそんな夢を見たのか。クオトラはね、ルーシュの心臓を食べさせられたのよ」
自身の鼓動では無い。胸部が自分の意志とは無関係に脈動している。
「だから僕は……ルーシュの夢を……。いや、違う。あれは夢なんかじゃなかった」
自分の中に、もうルーシュがいないことは分かっていた。だが、彼の残した記憶が知識となって、体の中に染み渡っているのを感じる。
「フレーリア、君の体は大丈夫なの?」
「ええ、私は何ともないわ。それよりも……」
フレーリアが続けようとした言葉は、クオトラの悲しそうな表情を見て止まった。彼女の瞳に、クオトラの内面に潜む苦悩が映っている。
「なんとなく分かるんだ。フレーリア、君はこれ以上、竜に関わっちゃいけない。もし関わり続けたら……あの街の人たちのように……」
フレーリアもクオトラが何を言おうとしているかを察し、彼から視線をそらした。
「なんとなく……私も感じてるわ。私は竜の血には耐えられないのよね。何ともないふりをしてるけど、体が拒絶している気がするの」
「逆に僕は……驚くほど馴染んでいるんだ。まるで最初から竜だったみたいに……。でも、内側では暴れ出そうな力を必死に抑え込んでいるんだ。許せない、許してはいけないって声が、ずっと頭の中で響いている。すぐにでも動かないと、頭がおかしくなりそうなんだ」
クオトラは頭を抑え、痛みに顔を歪めた。苦しくてどうしようもない。何とかしてほしいと弱音を吐きかけたが、それは何故か許されない気がしていた。
「私は、貴方がどうなっても……ずっと傍にいたいの」
フレーリアの言葉は祈りのようだった。
「僕は……」
クオトラは気まずそうに俯き、声が震えていた。言葉が詰まり、うまく伝えることができない。
「僕は……フレーリアに死んでほしくない……だから、来てほしくないんだ」
「嫌だ」
フレーリアの即答はまるで駄々をこねる子供のようだった。クオトラは驚き、彼女を見つめる。
「私は、もうクオトラと離れるのは嫌なの」
フレーリアの瞳には強い決意が宿っていた。彼女の視線はクオトラを逃さない。まるで「認めるまで折れない」と言っているかのようだった。
「お願いだ……」
「嫌よ」
クオトラは深くため息を吐いた。遠い昔の記憶が蘇る。彼女との言い合いで勝てた試しがない。
「その代わり、どんな状況でも命が危険になったら、君は逃げてくれ」
「出来ないわ」
即答だった。彼の最大限の譲歩は、完全に無視された。
「それができないなら、君を連れて行けない」
「じゃあ、貴方が危険な状態にならなければいいだけ。簡単でしょ?」
彼女はとんでもないことをさらりと言った。自分を制御することすら不安定な状態で、危険な状況にすらならないというのは無理な話だ。
「ちゃんと考えて喋ってる? 」
「ええ。でも今のは冗談よ。ちゃんと逃げるわ」
フレーリアは急に張り合うのをやめ、意地悪をしたかっただけのように、柔らかな笑顔を浮かべた。
それは、クオトラにとって忘れていた日常の一片だった。かつてのクオトラ・アタラネルヴァが大事にしていた何かが、彼の心に戻ってきた。クオトラは悲しみや怒り以外の感情、優しさや温かさを、ようやく思い出し始めたのだ。
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