エルージュティアの竜劇

Kirsch

第1話 エルージュティアの悲劇 序

 降り注ぐ血の雨が、大地を侵食する。巨大なそいつにとってはただの飛沫程度にしか過ぎないであろう一滴の血液。彼が撒き散らした血は、雲を真っ赤に染めあげ大地を侵す猛毒として、豪雨となり降り注いでいた。


 真紅に染った街を、あまたの人々が駆け回る。逃げ惑う人も、諦める人もさして結末に変わりはなかった。


 業火の中をもがくような人々の姿。まるで世界を呪い、神を呪い、自身をも呪って朽ちていくようだ。深く深く、真っ赤な地獄の奥底へと全てが溶け落ち、最後に残るものが何なのか。それは誰も知ることがないだろう。


 姿を変えて空へと昇るもの、原型を留めず名称もない何かとなって地へ消えゆくもの。全てを呆然と眺めたそいつは、酷くつまらなそうにぽつりと呟いていた。


「ここも外れか……」


 大地は既に朽ちた。空を見上げれば、そいつは歪んだ笑みを浮かべているように見えた。


 きっとそれは気まぐれに行われた所業。この悲劇の中で唯一生き残ったこの、レフィーレア・ウェルシュタレイムが後世の君へと託す。もう二度と繰り返されないようにと。神を屠り、全てを終わらせられるようにと。



 目の前で語られる、この大地に残された悲しい伝説。もしも、この街でそんなことが起こったならば、許せないだろうと思った。引き起こしたそいつを絶対に許すことはないと。


「聞いているのかい? 」


 長身の男から、齢十歳程の少年クオトラへ声が掛る。桃色の髪を額の中央で分け、柔らかく微笑む青年。伝説を語る姿から、どうやら人に教えることは慣れているようだ。


「ん、あぁ、聞いてるよ」


 クオトラはいつの間にか握られた拳を開き、青年の方へと向き直る。街を駆ける馬の音や人々の喧騒、何より青年の言葉が、クオトラを現実に引き戻した。


「なら良いんだけど。もう少し興味を持って聞きなさいな。この土地に住む以上は他人事じゃないんだから」


 彼は呆れたようにため息をつき、その手に持った革質の本をぱたむと閉じる。表紙には『エルージュティアの悲劇』と掠れた文字で書かれていた。


「でも、そんなもの伝説なんでしょ? 実際に起こった訳じゃあるまいし、別に皆が知っている必要は無いと思うんだけどな」


 怒っているつもりは無かったが、話を聞いていたクオトラは態とらしく頬を膨らませる。そして直後には、忌々しそうに青年の本を睨む。


「確かに伝説ではある。だけどね、こうやって後世に残されているってことは、少なくとも誰かが必要とした情報なのかもしれないよ? 例えば幾度となく起こっているのに、生き残りが居ないから、起こってないんじゃないかって、言われてるだけでね」


「怖いこと言わないでよ。第一そんな大事件ならとっくに……」


 クオトラはそこで言葉を濁す。そして何か脳の隅に引っ掛かるものの存在に気づく。考えない方がいいと制止する脳を無視して、引っ掛かるものが何かかを探す。


「ほら。クオトラだって聞いたことぐらいはあるんじゃないか? 過去に集落がまるまる消えたって話」


 彼の言葉に記憶がつつかれ、母親から注意されつつも、聞かないようにしていた嫌な話を思い出す。


 丁度数日前の出来事。一度は暴れ狂う竜による被害だと言われてるが、それ以外の三度は原因も分からずに、限られた地域だけから根こそぎ人間が消えたと言われている。エルージュティアの悲劇。伝説を綴った内容と、今この大地に起こっている出来事はあまりにも辻褄があっていた。


 クオトラはそんな事実を理解すると、細い腕が鳥肌立っていることに気づく。


 青年は少し悪どい笑みを浮かべ、クオトラの顔を覗き込む。青年の、思考が透けた表情を見たクオトラは、一度睨みつけると、自身を覗き込む青年から顔を逸らすようにそっぽを向く。


 青年はくすりと笑う。そして銀や緑の装飾に彩られた真っ白なローブの内側へ、大事そうに革の本を仕舞い込んだ。


「ルーシュさんのいじわる……」


 クオトラがそう言って、今にも泣き出しそうな眼を擦り、肩を震わせる。想像してしまった故に怖い

からか、それとも言い合いに負けたことを認めたくなかったからなのか。それはクオトラの固く握りこまれた拳が、全てを表していた。


「ちょっと! レウェルシュさん! 」


 タッタッタッと、大地を駆ける音と共に、青年を呼ぶ声。クオトラが声のする方向へと目を向けると、近所に住む三つ上の少女、フレーリアがそこに居た。彼女は、金色の髪を肩までの長さに揃え、青い服に身を包んでいる。


 キッと据わったアンバーカラーの瞳は、強い意志を持って青年を睨みつけている。今にも飛びかからんとする低い体勢と、獲物を威嚇するように荒く息を吐く口。しかし、可愛らしい整った容姿が邪魔して迫力が感じられない。それでも怒っているという事実は、確かだろう。


「どうしたんだい、フレーリア。私たちは、ただ話をしていただけだよ。それよりその他人行儀な呼び方は止めて、いい加減ルーシュって、呼んでくれないかな? 」


 レウェルシュが柔らかい笑みを浮かべて、フレーリアへと言葉を返していたが、フレーリアの表情に変化はなかった。


「いやっ! クオトラをイジめるレウェルシュさんなんかだいっきらい! ちゃんと謝るのを見るまで、ルーシュさんなんて呼んであげないんだから! 」


 レウェルシュは困ったような表情を浮かべると、左の前髪を留めている髪飾りへと手をやる。やれやれと言った表情が見え隠れしていた。それでも瞬時に悲しむような表情を作っていたのをクオトラは見逃さない。


「弱ったなぁ。クオトラ〜ごめんよ。別に悪気があった訳じゃないんだ。機嫌を直しておくれよ」


 レウェルシュは顔の前に両手を合わせる。そしてクオトラの顔を覗き込もうとしているのか、屈んで視線を合わせてきた。


「べ、別に怒ってなんかないよ。ルーシュさんが悪い訳でもないし。ただ、なんか……上手く言い返せなかったのが悔しかっただけだから」


 クオトラは、今にも流れ落ちそうな涙を堪えてレウェルシュを見る。


「そうだったんだね。じゃあ続きを話そうか? 」


「いや、いい。僕だってエルージュティアの人間なんだし、伝説くらいは知ってたよ」


 クオトラの言葉を聞いたレウェルシュの表情が一瞬曇ったように見えた。しかし直ぐに柔和な表情に戻ると何かを確かめるように、小さく頷いた。


「そうかい。クオトラは勉強熱心だからね。知ってるに決まってるか。ごめんね」


 はははっと笑う。褒められたクオトラも気分は悪くない。満更でもないが、その表情を見られたくないとまたもルーシュから顔を逸らす。


「フレーリア、仲直りしたよ。これでいいかい? 」


「ちゃんと謝ってくれたから許してあげる! でも次は許さないからね、ルーシュさん」


「やっと呼んでくれたんだね! 」


 歓喜の声を上げ、その場で跳びはねるレウェルシュ。

 下手すれば一回りは離れているであろう青年が、少女の一言で大袈裟に喜んでいた。


「それよりも、ルーシュさん。わたしね、聞いたことがあるの。白の大地と赤の大地の伝説。でも詳しくは知らないから教えて欲しいの」


 跳び上がっていたレウェルシュが、急に冷静になる。


「そうかい。今の子達はちゃんと教わっていないんだね。いいよ、話してあげよう。」


 昔ね、遠い遠い昔。この世界を作った"神様"は大きな体を持った半身が白銀、もう半身が漆黒の竜だった。その竜は草木しかない大地に種を蒔き、沢山の動物を創り出した。"神様"は動物たちの中で、最も竜種に近い二足歩行の生き物に智慧を授けた。"神様"から与えられた知識を用いて、人間は大地を繁栄させた。


 けれど、人間達は強欲すぎた。手に入るものは何でも手に入れようとするし、そのためにはどんなものでも壊そうとした。"神様"は考えた。どうしたら彼らがもっとその強欲さを繁栄に活かしてくれるかと。


 そうして"神様"は大地を四つに分断し、それぞれを嵐雲と呼ばれる、神の力で作った雲で切り離した。まるで人々に試練を与えるようにね。だけれど、それでは後世に続く人々には、他の土地の存在が分からないと思った"神様"は、赤の大地とその隣にある白い大地との間、嵐雲の一部に小さな穴を作ったんだ。他にも大地があるんだぞって思わせるためにね。


 そしてさらに"神様"は、それぞれの大地に自分の子である"神竜"を配置して、統治させることにしたんだ。今呼ばれている、白、赤、青、緑はそれぞれの大地にいる神竜の体躯色を表してるみたいだね。


 夜にだけ月の光を通して見える神竜の体躯。この大地では赤色が見えるから、人々は赤の大地と呼ぶことにしたのさ。



「これが世界の始まりの伝説ってやつだよ。昔は誰でも教わるような、話だったんだけどね」


「ルーシュさん、この話、なんか話し慣れてる感じがする。みんなに聞かせているの? 」


「そんなことは無いよ。昔ね、大好きだった人がよく話してくれたから覚えているだけなんだ」


「へぇ。ルーシュさんの好きな人……かぁ。なんか気になるけど、どうせイジワルなルーシュさんは教えてくれないんだろうから、聞いてあげない! 」


 フレーリアの反応に、虚をつかれたようでルーシュは驚いた表情を浮かべた。


「それより、わたし、白の大地でも悲劇が起こったって聞いたことがあるの。ルーシュさん、それってエルージュティアの悲劇みたいなものなの? 」


 フレーリアが問いかけると、ルーシュは今までで最も眩しい笑顔を浮かべる。


「そうだね。でもね、根本的な問題はちょっと違うから悲劇とは言われてないって聞いたことがあるよ。悪いのは白い竜じゃないんじゃないかってね。でもそんな伝説を詳しく知ってるのは、白の大地の人間だけなんじゃないかな」


 ルーシュが微笑む。場違いなんじゃないかと思えるその表情に、クオトラは恐怖に似た感情を抱く。


「そうなのね。ルーシュさんでも流石に知らないのかぁ。残念」


 フレーリアは思っていた以上のことが聞けずに、わざとらしく落ち込んでいた。


「僕も知らないことはいっぱいあるんだ。お役に立てなくてごめんね」


「謝ることじゃないわ。でも、折角ならもっと詳しく知りたかったなあ」


 フレーリアは後ろに手を組み不満足そうな顔でルーシュの周りを歩く。


「すまないね」


 はははと、ルーシュは愛想笑いをする。


「もうこんな時間かぁ」


 気がつくと、遠くから鐘の音が響いてくる。このアルフィグの街には、景観を壊すほどに大きな教会があり、大きな鐘が据え付けられている。


 教会から響く夕方を知らせる鐘の音に、街から人々が波を引くように消えてゆく。何故か分からないが、とても寂しく感じられたクオトラがため息を吐くと、その頭をしなやかで大きな手が撫でていた。


「ほーら、今日はもう帰る時間だぞ。急いで帰らないと、怒られるんじゃないかな」


「分かってるよ、明日もここにいるんだよね? 」


 クオトラがルーシュへと問いかける。


「そうだね。明日があれば……。もし信じるものが救われる世界なら良かったんだけどね」


 クオトラは呆然とルーシュを見つめる。ルーシュの横顔は酷く悲しげで、それでいて真剣で。あまりに突拍子の無い言葉に、三人の時間だけがゆっくりと進んでいるように感じていた。


「ごめんごめん。また明日僕はここにいるよ、会えるといいね」


 ルーシュはにっこりと微笑んで、ゆっくりと歩き出す。その様子に、気を取られていた二人が時間を取り戻す。


「う、うん。また明日ね」


「明日はクオトラのこといじめちゃダメだからね! 」


 それぞれがそれぞれの帰路へと着く。あれだけ騒がしかった街は、日が沈むよりも先に、別の場所に見える位に変貌していた。クオトラがふと、空を見上げる。青い空は夕焼け色に染まり、白かった雲は赤黒い色へと姿を変えている。薄らと姿を見せた円状の月は燃えているように揺らめき、辺りにある星々はそれに合わせて鼓動しているようだった。


 不吉な様子に身を震わせる。そして逃げるように家へと駆け込むクオトラ。そんなクオトラを玄関で待っていたのは、鬼の形相を浮かべた母親であった。


「クオトラ、今日は早く帰りなさいって言ったでしょう? 」


 母親の言葉は表情に似合わず、優しいように感じられた。


「今日は鐘が鳴り終わるまでには帰りなさいって言ったでしょう? 何も起きないとは限らないんだから」


「ごめんなさい」


 クオトラが感情のない声を返す。窓から見える空は日が沈みきったのにもかかわらず赤く、大きな異形の姿が現れていた。


「あんなにはっきり見える夜なんだから、死竜達が暴れ出してもおかしくないでしょ。毎日じゃないんだから、言った日くらいはちゃんと帰ってくるようにしなさい」


「ごめんなさい、お母さん」


 クオトラはそう言うと、そそくさと玄関から逃げる。そして奥の部屋へと入ると、扉を閉めてベットに寝転がった。母親の言っていることが分からないわけではない。それでも、今まで何も無かったのだ。ただ怖い伝説があるというだけで、小言を言われるのが納得出来なかった。


「皆伝説に踊らされてばっかみたい。大人たちはみんな怖がりなんだ」


 ぶつぶつと不満を吐くクオトラは、ふと窓の外へと目を向ける。満月の夜。いつもと何も変わらない光景。それを想像していたクオトラは、思いもよらぬ光景に驚き、後方へと倒れ込む。


「え、何……あれ」


 真っ赤に染まった世界を泳ぐ無数の怪物。そんなことは有り得ないと、思い込んでいたクオトラは現実から逃げるようにベットの下へと潜り込む。


 がたがたと、自分の力では止められない震え。クオトラは体が強ばり、己を己で抱き締めることしか出来なくなっていた。


「クオトラ、家から出るんじゃないからね」


 遠くからそんな声と、扉が開閉する音。


「待っ」


 追いかけることすらままならない。


 クオトラの声が届くことはなく、誰かが出ていったという事実が、クオトラの震えを更に加速させる。


 得体の知れない、大地を揺らす声が響く。クオトラの脳裏には、先程まで聞かされていた『伝説』が鮮明に自身の中で再生されていた。


「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」


 ぽつぽつと、水音が聞こえる。無意識にびくりと、大きく体が震えた。そして背中に張り付いていたベッドが、大きくバウンドした。


 外からはオーオーと、人とも獣ともとれない声が響いてくる。知らない恐怖、見えない恐怖。何も分からないという現状が、とにかく恐ろしいと感じたクオトラは、震える身体を無理やり起こしてベッドの下から這い出る。


 見るべきではないと、制止する脳を無理やり黙らせてクオトラはゆっくりと外を見る。


「え」


 さっきまで夕焼け色に染っていた橙色の街並みは、真紅色に変わっていた。きっと空から落ちる真っ赤な雫が、全てを変えてしまったのだろう。


 地上にはドロドロとゼリー状になって原型を留めない何かが転がっている。それが何かはよく分からない。よく分からないはずだが、ゼリーの中にくすんだ白色の何かが突き刺さっているのが見えてしまい、それが元々何であったかを理解していた。


 恐怖が狂気に変わりそうで、クオトラは口を抑える。溢れだしそうな感情をなんとか飲み下すと、次に溢れてくるのはどうしようも無い怒りだった。


「どうして。どうして僕達がこんな思いを……」


 空を覆う異形の姿は異常な程に鮮明で、大きく口が開かれた竜の姿は、笑っているようだった。窓から見える見慣れた景色が、今は見る影もない。街で唯一の本屋も、わざわざ都会から買いに来る人もいると言われていたパン屋も、きっともう行けないだろう。


 透明な窓に薄らと反射した自分の顔。クオトラの顔は酷く歪み、外の赤を吸い込み真っ赤に染まった涙が頬を伝っていた。


「許さない、絶対にこんなことをした奴は許さない……」


 怒りに拳を固める。そうしたところで、どうともならない事は考えなくとも分かっている。それでもそんな事が気にならないほど冷静さを欠いていた。


 クオトラはその異形の姿を、鮮明にその目へ焼き付けようと、窓へと手を掛ける。開けるつもりなんて毛頭も無かった……。しかし、窓は唐突に弾けた。その様子はまるで窓そのものが爆弾になったかのようで、割れた破片は凶器となって激しく飛び散った。


 幸いなことに細かく割れた破片は、クオトラの右手に吸収され、命へ直接関わることは無かった。


 だが、空との境が無くなったクオトラの前頭に一滴。真っ赤な雨が雫となって落ちた。


「うがァァァァああぁぁああぁあ」


 焼かれるような感覚に、クオトラは転げ回る。真っ赤な雫はたったの一滴だというのに、まるで生きているかのようにクオトラの表面で蠢く。そして顔の表面を這って、前頭から右目瞼の上まで垂れた。


 精神を、肉体を、得体の知れない大きな存在が塗り潰していく。


「やめろ、やめろ、やめろ、やめろやめやめ」


 クオトラは自分が奥へ奥へと追いやられ、どこか遠くへと消されそうになる感覚を味わっていた。指先が、頭が、段々と赤黒く染まり溶けていく。


 自身の体が変貌していく様子に、クオトラは絶望する。もうおしまいなのだと悟り、ゆっくりと重い瞼を閉じる。それなのに、勝手に遠くなると思っていた騒音が、眠りに落ちることを邪魔する。しかも遠くなるどころか、どんどん声が鮮明になっていくように聞こえて、クオトラは閉じたはずの瞼を開く。

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