第1話 絶望の赤い月
「伝説だって?そんなの本当に起こるわけがない……」
クオトラは自分にそう言い聞かせるように呟いたが、胸の中にはじっとりとした嫌な感覚が広がっていた。何度も夢に見た光景が脳裏をよぎる。あれがただの話だったならどれほど良かっただろう……でも、もし……。クオトラは拳を握り締め、自分の震える手を必死に隠した。
「聞いているのかい? 」
長身の青年から、齢十歳の少年クオトラへ声が掛る。桃色の髪を額の中央で分け、柔らかく微笑む青年。流暢に伝説を語る姿から、人に教えることが得意なように思える。
「ん、あぁ、聞いてるよ」
クオトラはいつの間にか握られた拳を開き、青年の方へ向き直る。街を駆ける馬の音や人々の喧騒、何より青年の言葉が、クオトラを現実に引き戻した。
「なら良いんだけどね。もう少し興味を持って聞きなさいな。この土地に住む以上、クオトラも語り継がなきゃいけないんだから」
青年は呆れたようにため息をつき、手に持った革の本をぱたんと閉じた。表紙には『エルージュティアの悲劇』と、掠れた文字で書かれている。
「でも、そんなの伝説でしょ? 実際に起こったわけじゃないなら、みんなが知る必要はないんじゃないかな」
怒られたことに反抗するように、クオトラは頬を膨らませる。青年の本をじっと睨みつけた。
「確かに伝説だ。でもね、こうやって残されているってことは、誰かが必要としたんだろうね。例えば、何度も繰り返されているのに、誰も気づいていないだけかもしれない。あるいは、この本の著者が唯一の生き残りだからかもね……」
「怖いこと言わないでよ。第一、そんな大事件があったら誰でも知ってるはずだよ……」
クオトラはそこで言葉を詰まらせる。何かが脳の隅に引っかかる感覚。それが何かを思い出そうとするが、考えない方がいいと制止する自分の心に気づく。
「ほら、クオトラだって聞いたことぐらいはあるだろう? 過去に集落が丸ごと消えたって話」
青年の言葉に、クオトラの記憶が刺激される。母親に聞かないよう注意された嫌な話を、彼はふと思い出す。
直近では、数日前にも似た出来事が起きていた。一度は暴れ狂う竜のせいだとされたが、その他の三度の事件は原因が分からず、限られた地域の人間が根こそぎ消えたと伝えられている。エルージュティアの悲劇。伝説と、今の大地で起こっている現実が、あまりにも一致している。
クオトラはその事実を理解すると、細い腕に鳥肌が立つのを感じた。
青年は少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、クオトラの顔を覗き込んできた。クオトラはその表情を睨みつけ、すぐに顔を逸らす。
青年はくすりと笑い、銀や緑の装飾に彩られた真っ白なローブの内側に、本を大事そうに仕舞い込んだ。
「ルーシュさんのいじわる……」
クオトラは涙がこぼれそうな目をこすり、肩を震わせた。想像してしまった恐怖か、それとも言い返せなかった悔しさか。彼の固く握った拳が、そのすべてを物語っていた。
「レウェルシュさん!」
タッタッタッと駆け寄る足音が聞こえた。クオトラが声のする方向を見ると、近所に住む三つ年上の少女、フレーリアがそこに立っていた。彼女は肩までの金色の髪を揃え、青い服に身を包んでいる。
フレーリアのアンバーカラーの瞳は怒りに満ちており、低い体勢でまるで獲物を狙うような鋭い視線を青年に向けている。だが、整った可愛らしい容姿がその迫力を幾分か和らげている。
「どうしたんだい、フレーリア。私たちはただ話をしていただけだよ。それよりも、その他人行儀な呼び方はやめて、ルーシュって呼んでくれないかな?」
ルーシュが優しい笑みを浮かべながら返答する。しかし、フレーリアの表情に変化はなかった。
「いやっ! クオトラをいじめるレウェルシュさんなんか、大っ嫌い! ちゃんと謝るまで、ルーシュなんて呼んであげない!」
レウェルシュは困ったような表情を浮かべ、髪飾りに手をやった。やれやれといった仕草だが、一瞬、悲しそうな表情を見せたことをクオトラは見逃さなかった。
「弱ったなぁ。クオトラ、ごめんよ。別に悪気があったわけじゃないんだ。機嫌を直しておくれ」
レウェルシュは顔の前に両手を合わせ、屈んで視線を合わせてくる。
「べ、別に怒ってなんかないよ。ルーシュさんが悪いわけでもないし……ただ、上手く言い返せなかったのが悔しかっただけだから」
クオトラは涙をこらえ、レウェルシュを見つめた。
「そうかい、じゃあ続きを話そうか?」
「いや、いいよ。僕だってエルージュティアの人間なんだし、伝説くらいは知ってたよ」
クオトラの言葉を聞いたレウェルシュは、一瞬だけ表情を曇らせた。しかし、すぐに柔らかな表情に戻り、小さく頷いた。
「そうかい。クオトラは勉強熱心だからね。知っているに決まってるか。ごめんね」
レウェルシュは軽く笑い、クオトラも少し気分が晴れたように感じた。しかし、どこか釈然としない表情を隠すため、再び彼から顔を逸らした。
「フレーリア、仲直りしたよ。これでいいかい?」
「ちゃんと謝ってくれたから許してあげる! でも次は許さないからね、ルーシュさん!」
ルーシュは嬉しそうに笑みを浮かべ、軽く跳びはねた。その様子を見て、クオトラもようやく気持ちがほぐれていくのを感じた。
「それよりも、ルーシュさん。私ね、聞いたことがあるの。白の大地と赤の大地の伝説。でも、詳しくは知らないから教えて欲しいの」
その言葉を聞いた途端、レウェルシュはぴたりと跳びはねる動きを止め、真剣な表情に戻った。
「そうか……白の大地と赤の大地の伝説か。今の子たちは、あまりちゃんと教わっていないんだね。いいよ、話してあげよう」
ルーシュは少し考えたあと、話を始めた。
「昔ね、ずっと昔、この世界を作った"神様"は、銀と黒の半身を持つ巨大な竜だった。その竜は大地に種を蒔き、動物たちを創り出した。そして、竜はその中でも最も知恵のある二足歩行の生き物に、智慧を授けたんだ。それが人間さ。
人間たちは竜の智慧を使い、大地を繁栄させた。でも、やがて人間は強欲になり、手に入るものはすべて欲しがり、壊すようになった。"神様"は考えたよ――どうすれば彼らがもっとその力を正しく使うだろうか、と。
そこで"神様"は、大地を四つに分けて、それぞれの大地を嵐雲で隔てた。まるで試練を与えるかのようにね。そして、それぞれの大地に"神竜"を置き、その統治を任せた。今呼ばれている『赤の大地』、『白の大地』、『青の大地』、『緑の大地』は、その神竜の体の色に由来しているんだ。
夜にだけ見える神竜の姿。それは、月の光を通して大地に映し出されるんだ。この大地では、赤色に輝く神竜が見えるから、赤の大地と呼ばれるようになったんだよ」
ルーシュは話を終えると、ふっと微笑んだ。
「これが、世界の始まりの伝説だよ。昔は誰もが教えられる話だったんだけどね」
「へぇ、そんな話があったんだ……でも、ルーシュさん、この話、なんか慣れてる感じがするね。みんなにもよく話してるの?」
フレーリアが不思議そうに尋ねると、ルーシュは少し顔を赤らめた。
「昔……大切な人がいつも語ってくれたんだ。あの人の声が、まだ耳に残っている。だから、こうして語り続けているんだよ。あの時と同じようにね……」
「へぇ……ルーシュさんに好きな人がいたんだ……でも、きっと教えてくれないだろうから、聞かないでおくよ!」
フレーリアはからかうように言い放ち、ルーシュをちらりと見た。ルーシュは驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑いを浮かべた。
「それよりも、私、白の大地でも悲劇が起こったって聞いたことがあるの。ルーシュさん、それってエルージュティアの悲劇と同じようなものなの?」
その問いかけに、ルーシュはまた微笑んだ。しかしその微笑みは、どこか場違いなほど明るく感じられた。
「そうだね。似たようなものだよ。でもね、白の大地の悲劇は少し事情が違う。悪いのは、白い竜じゃないと言われているんだ。白の大地の伝説を詳しく知っているのは、白の大地の人々だけなのかもしれないけどね」
その言葉を聞いたクオトラは、どこか不安を感じた。ルーシュの微笑みが、何か隠された意図を持っているように思えたからだ。
「そうなのね……ルーシュさんでも詳しくは知らないのか……残念」
フレーリアは肩をすくめ、わざとらしく落胆した表情を見せた。彼女の動作は軽やかだったが、どこか焦燥感が見え隠れしている。
「僕も知らないことはたくさんあるんだ。お役に立てなくてごめんね」
「ううん、謝ることじゃないわ。でも、もっと詳しく知りたかったな……」
フレーリアは後ろ手に組んだ両手をぶらぶらと揺らし、満足できない様子でルーシュの周りを歩き回った。
「すまないね」
ルーシュは苦笑を浮かべた。
「もうこんな時間か……」
気がつくと、遠くから鐘の音が響いてくる。アルフィグの街には景観を壊すほど大きな教会があり、夕方を告げる鐘の音が街に響いていた。
街から人々が波のように引いていく。クオトラはそれを見て、何故か言い知れぬ寂しさを感じた。彼はふとため息をつく。その時、しなやかな大きな手が彼の頭を優しく撫でた。
「ほら、今日はもう帰る時間だ。急いで帰らないと、お母さんに怒られるんじゃないかな?」
「分かってるよ。明日もここにいるんだよね?」
クオトラがルーシュに問いかける。
「そうだね……明日があれば、ね」
その言葉に、クオトラは呆然とした。ルーシュの横顔には悲しげな影が落ちていた。その一言があまりにも不意打ちで、クオトラの頭はしばらく空白になった。
時間が一瞬だけ止まったように感じる。
「ごめんごめん、変なことを言ってしまったね。もちろん、明日もここにいるさ。会えるといいね」
ルーシュはにっこりと微笑み、ゆっくりと歩き出した。クオトラとフレーリアは彼の背中を見つめ、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
「う、うん。また明日ね」
「明日はクオトラのこと、いじめちゃダメだからね!」
二人はそれぞれの帰路についた。あれほど賑やかだった街は、日が沈むよりも先に、まるで別の場所にいるかのように静まり返っていた。
クオトラはふと、空を見上げた。青い空は夕焼け色に染まり、白かった雲は赤黒く変わっている。薄らと姿を見せた月が燃えているように揺らめき、周囲の星々も、それに呼応するかのように微かに脈打っていた。
不吉な光景にクオトラは身を震わせた。逃げるように家へ駆け込むと、玄関で待っていたのは鬼のような形相の母親だった。
「クオトラ、今日は早く帰ってきなさいって言ったでしょう?」
母親は厳しい表情をしていたが、クオトラにはその奥にかすかな優しさを感じ取った。
「鐘が鳴り終わる前に帰りなさいって、あれほど言ったのに。何も起きないとは限らないんだから」
「ごめんなさい」
クオトラは感情のこもらない声で答えた。窓の外に目を向けると、日が沈みきったはずの空が赤く染まり、大きな異形の影が揺らめいている。
「あんなにはっきり見える夜なんだから、死竜が暴れ出してもおかしくないわよ。毎日じゃないんだから、言った日くらいはちゃんと守りなさい」
「ごめんなさい、お母さん」
そう言い、クオトラはそそくさと玄関を離れて自室に向かった。扉を閉めると、そのままベッドに寝転がり、天井を見つめる。
母親が何を言っているのか、わからないわけではない。何か起こるかもしれないという不安は、クオトラ自身も感じていた。けれど、今まで本当に何も起きなかった。ただ、伝説というだけで、小言を言われるのは納得できない。
「大人たちはみんな伝説に踊らされてるんだ……」
クオトラはぶつぶつと不満を口にする。そう言いながら、彼はふと窓の外へ目を向けた。
そこに広がっていたのは、想像していたものとは全く違う光景だった。
「え……なんだ、あれ……」
クオトラは窓辺に駆け寄り、目を見張った。
真っ赤に染まった世界の中、空を泳ぐ無数の怪物たち、それは、異形の存在たちが空を飛び交い、夜空を支配している光景だった。そんなことが現実であるはずがない、そう思っていたクオトラは、恐怖に駆られてベッドの下に潜り込んだ。
体の震えは止まらず、自分自身を強く抱きしめることしかできなかった。
「クオトラ、家から出ないでね!」
母親の声が遠くから聞こえてきた。その直後、扉の開閉音が響いた。
「待っ……」
クオトラは追いかけようとするが、体が思うように動かない。震えはますます強くなり、声が出ない。どうしようもない恐怖に囚われた彼は、ただそこにいることしかできなかった。
外からは、地を揺るがすような不気味な声が響いてくる。その音は、まるでこの世のものではない、獣とも人ともつかない怪物の叫びのようだった。
「怖い……怖い、怖い……」
クオトラは無意識に呟き続けた。
ぽつぽつと、水音が聞こえた。びくりと体が震え、ベッドが軽く跳ねた。
外からは、低く唸るような声が響いている。人のものか、獣のものかも分からない。目に見えない恐怖が、じわじわとクオトラを包み込み、震える身体を引きずるようにしてベッドの下から這い出た。
見るべきではない――そう自分に言い聞かせながらも、クオトラは恐怖を押し殺し、ゆっくりと外を覗いた。
夕焼け色だった街並みは、今や真紅に染まっていた。空から降り注ぐ赤い雫が、すべてを塗り替えたのだ。
地面には、ドロドロとしたゼリー状の何かが転がっている。それが何かは分からない――だが、その中に埋もれた白く生々しい物体が、強烈にクオトラの目に飛び込んできた。
クオトラは、狂気じみた恐怖に押しつぶされそうになりながら、口元を押さえた。溢れ出しそうな感情をなんとか飲み下すと、その代わりに、どうしようもない怒りがこみ上げてきた。
「どうして。どうして僕達がこんな思いを……」
空を覆う異形の姿は不気味に鮮明で、巨大な竜が口を大きく開け、まるで嘲笑っているかのように見えた。窓の反射に映った自分の顔は酷く歪み、真っ赤な涙が頬を伝っていた。
「許さない……絶対に、こんなことをした奴は許さない……」
クオトラは拳を固めた。無力だと分かっていても、もう冷静でいられなかった。
その異形の姿をしっかりと目に焼き付けようと、窓に手を掛けた――だが、開けるつもりはなかった。だが、窓は突然弾け飛び、割れたガラスの破片が凶器のように飛び散った。
その瞬間、空との境が消えた。真っ赤な雨がクオトラの額に一滴、落ちた。
「うがァァァァああぁぁああぁあ!」
激痛が脳内を突き抜け、クオトラは叫び声を上げた。たった一滴の血の雨が、彼の表面で蠢き、まるで生き物のようにクオトラの皮膚を這い回り、徐々に彼の体を蝕んでいく。
精神を、肉体を、得体の知れない大きな存在が塗り潰していく。
「やめろ、やめてくれ、やめろ!」
クオトラは、自分が奥へと追いやられ、遠ざかっていく感覚を味わっていた。指先が、頭が、徐々に赤黒く染まり溶けていく。
自分の体が変わっていくのを感じながら、クオトラは絶望に沈んだ。もうおしまいだと悟り、ゆっくりと重い瞼を閉じようとした。しかし、遠ざかるはずの外の騒音が、逆にどんどん鮮明になっていく。クオトラは、閉じたはずの瞼を再び開いた。
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