第10話 定時後に

 そこからは何事もなかったのように能力を解除して自席に戻り、仕事の時間だ。関わっているプロジェクトのドキュメントを読んで、プログラムを書く。そしてテストをして、テスト結果をドキュメントにまとめる。

 そんな感じのいつもの仕事、こなしていたら日が沈んで夜の6時だ。うちの会社では全く意味のない、定時を知らせるチャイムが鳴る。


「ふぅ……」


 ぐ、と椅子の背もたれによりかかりながら俺は身体を伸ばした。今日は夜中まで仕事がある予定だ。プロジェクトの山場は昨日一昨日で越えたが、まだまだやらなければならないことはたくさんある。

 と、俺の席に六反田が近づいてきた。いつもの屈託のない笑みを浮かべ、帰り支度を済ませた姿で俺に手を挙げる。


「トソちゃん、おつかれー」

「あ、ロクちゃん。おつかれ」


 呼びかけられた六反田に、俺も返事を返した。彼は昨日からの夜勤の仕事、そこから連続しての残業を終えて、これから帰る。何だかんだ、六反田もがっつり残業をしていたわけだ。

 くい、と親指を自分の後方に向けながら、六反田が言う。


「メシ食いに行かね? トソちゃんこの後も仕事だろ」

「あ、ああ。でも……」


 呼びかけられて、俺はわずかに戸惑った。

 確かにお腹は空いた。夕食は食べないといけないし、うちの会社なら居酒屋なり牛丼屋なりで夕食を食べて、また会社に戻ってきて仕事、なんてのは日常茶飯事だ。

 とはいえ、俺たちはこの後間違いなく、昼間のについて話をすることになるだろう。

 少し悩む。だがどうせ、六反田が話を周りに聞かれないように取り計らうはずだ。


「……いいか。またずらすんだろ?」

「ご明察。四十物ちゃんにも話はつけてるからさ、今日の総括も兼ねて」


 諦めたように発する俺の言葉に、にやりと六反田が笑って返した。四十物さんにも話が行っているなら、ますます内容はそういうことだ。

 二人で一緒に居室を出る。外のエントランスでは四十物さんが待っていた。六反田と一緒に食事をするのはしょっちゅうだが、四十物さんと同席するのは初めてだ。


「お疲れさまです」

「おう、お疲れー。さっさと行こうぜ」

「お疲れさまです」


 こちらに返事と視線を返す四十物さんに頭を下げながら、俺たちは会社近くの居酒屋へと向かった。今日の昼間に昼食を取ったのとは別の店だ。ボックス席に座りながら、六反田が店員さんに声をかける。


「とりあえずー、生一つ、あと枝豆とポテトフライ。四十物ちゃんとトソちゃんは、この後も仕事だからノンアルだな?」

「はい。烏龍茶で」

「俺はジンジャーエールで」


 そうして各々がドリンクの注文を行い、軽くフードも注文する。

 そして生ビールのジョッキとソフトドリンクのグラスが二つ、お通しの小鉢と枝豆、ポテトフライの皿が運ばれてきたのを確認した六反田が、俺たちに視線を向けた。同時に店の人々が、ぴたりと動きを止める。


「で、どうだった、四十物ちゃん」


 時間軸をずらした六反田が四十物さんに声をかけると、烏龍茶のグラスに口をつけた四十物さんがこくりとうなずいた。


「結果を報告します。佐々本ささもと麻由美まゆみ退を提出、受理されました。明日から有給消化期間に入ります」

「えぇっ」


 その言葉に俺は驚きを隠せなかった。佐々本さんが退職を決めたなど。何とも急な話だ。

 四十物さんに話を聞いたところ、今日までいろいろと思い悩んだ様子だったのが嘘みたいに朗らかな顔つきになって、職場でささっと退職願を書いて、財務部部長の鹿子嶋かごしまさんに叩きつけたのだそうだ。その時の鹿子嶋さんの驚きたるや、凄まじいものがあったらしい。

 六反田が感心した様子で口を開いた。


「おー、早かったな」

「あの後、お付き合いされている方やご家族にも相談なさったそうです。お付き合いされている方が福島にお住まいとのことで、そちらに移られると」


 烏龍茶のグラスを置いて、ポテトフライを取りながら四十物さんが話す。なるほど、結婚やら恋愛やらで引っ越しをして、それで会社を退職するというのはある話だ。

 六反田が生ビールを呷り、嬉しそうにしながら俺の肩を叩く。


「よかったなトソちゃん。初仕事、きっちり成功したじゃないか」

「成功……これが?」


 その言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。

 わらびからも六反田からも、俺たちの仕事はアビス株式会社の「ひずみ」を正し、会社を正常な状態に変えることだ、と聞いている。会社の病んだ社員を退職させることまでも仕事になるとは、まったくもって思っていなかった。

 六反田がもう一度ビールジョッキに口をつけてから言う。


「俺たちの目的はブラック企業の改革だが、それより先にやらないといけないのはブラック企業に依って奴らを解放することだ。今日見た中でも、小笠原さん、五十嵐さん、西耒路ちゃん……アビス株式会社うちの『ひずみ』に呑まれて、異次元存在と繋がっちまった奴らは、たくさんいる」


 そう話しながら、六反田は真剣な表情になった。なるほど、確かに会社をどうにかするよりも、どうにかなってしまった人を会社から解放するほうが、何倍も手っ取り早い。あんまり長いこと異次元存在とつながった状態にしてしまっては、退職を決めるより先に身体が壊れてしまうだろうからだ。

 四十物さんがポテトフライをもそもそ食べながら話す。


「異次元存在と繋がり、無意識下で契約してしまった方は、異次元存在によって生命と神経を繋ぎ止めていますが、それは双方の肉体に多大な負荷を与えるものです。こころが壊れてしまい、完全に異次元存在に成り果て、新たな『ひずみ』の発生源になることも少なくありません」

「じゃあ、社長や部長、課長もそうやって……」


 彼女の言葉に、わずかに悲しい気持ちになる俺だ。七五三掛社長や小飯塚課長も、ブラック企業によって精神を壊され、異次元存在になってしまったのなら、救いようがない。

 しかし俺の言葉に六反田が、小さく首を振った。


「そこまでは分からん。自分から招き寄せて契約してる場合もあるからな……その方が何倍も厄介だけどよ」


 呆れたような顔をしながら六反田が告げた。聞けば、極稀に何らかの形で自分から異次元存在に接触し、契約して身体に取り憑かせたり、一体化したりということがあるらしい。そういうタイプは同意を得るのが難しいのだそうだ。

 枝豆の莢を持った六反田が、その先端を俺へと向けながら話す。


「いいかトソちゃん、俺たちの仕事は、うちの会社を根本からぶっ壊すことだ。社長の『異物』を切除して、会社が続くか、畳まれるかはやってみないと分からん。だが、やり遂げたら確実に、アビスはいい形に生まれ変わるんだ」

「生まれ変わる……」


 彼の言葉を反芻しながら、俺は目を見開く。

 アビス株式会社が生まれ変わる。そしてブラック企業ではなくなる。そうなったら、どんなにいいことか知れない。何しろ全国でも指折りの、日本の暗部がなくなるということなのだ。

 四十物さんがこくりとうなずきながら俺へと視線を向ける。


「はい。私たち三人なら、きっとやり遂げられます」

「敵は強大だ。だけど、俺たち三人も無力じゃない。やってやろうぜ、トソちゃん、キネスリスもな!」

「はい、頑張ります!」


 六反田が決心したように言葉を発し、さらに俺の前に座ってポテトフライをはぐはぐ食べているわらびに声をかけた。対してわらびは、塩の付いた手をさっと上げながら元気に答える。

 そして彼女は俺へと視線を向けながら、にっこりと笑った。


「ね、頑張りましょうご主人様、私も契約維持、頑張りますから! メルキザデクのような切除は、私にも出来ませんけれどね!」

「あ、ああ……!」


 彼女の呼びかけに、俺もうなずく。こうまで言われたら、俺も後には引けない。頑張ってうちの会社をいい方向に持っていくのだ。今日の仕事の感じなら、決して不可能ではないと思える。

 と、再びポテトフライを食べ始めるわらびに、俺は恐る恐る声をかけた。


「ちなみに、あの、契約維持って」


 「契約」については何度も聞いたからだいたい分かる。しかし、「契約維持」とは初耳だ。六反田がテーブルに片肘をつきながら話す。


「一次契約だと、流し込んでる高次元の力がすぐに抜けてっちまうからな。毎日レベルで補給が必要なんだよ」

「つまり、今夜にはまた、下唐湊さんはキネスリスちゃんとキスをするというわけです。大丈夫、キス程度なら一瞬で終わりますから」


 四十物さんもなんでもないことのように言ってきた。なんでも、二次契約や三次契約なら提供する体液の力が強いし、量もだいぶあるので、一週間に一回とか二週間に一回とかそういうペースで契約を維持できるのだが、一次契約だと唾液に宿る力が弱いので、毎日の補給が必要と、そういうことらしい。


「え……」


 俺はあごがストンと落ちるのを感じた。わらびとディープキスを、この先毎日のようにやらないといけないのか。


「えぇ……!?」

「ふふ、今夜も熱烈なディープキスをしましょうね、ご主人様」


 困ったように肩を落とす俺に、わらびが頭を押し付けてくる。

 別に嫌というわけではないが、この先また徹夜しないとならないことがあったらどうしよう。職場でわらびとディープキスしろというのだろうか。

 がっくり来ている俺を笑いながら六反田がビールのジョッキを空にする。そして再び時間軸をゼロに戻すや、彼は店員さんを読んでビールの追加注文と食事の追加を頼む。

 これから、いろいろな意味で心配だ。俺はすっかり氷の溶けたジンジャーエールを、思い出したかのように口に運ぶのだった。

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