第9話 時は止まれり

 薄暗い部屋の中で僕が行ったのは、まさしく目の周りにぐるぐるとタオルを巻きつけることだった。

 瓶をクロゼットの中に放り込み、存在そのものを忘れたのである。

 僕はテーブルを壁に寄せて部屋の中央に転がり、パトリック・ミロー著『ボンゴレ』の続きを読み始めた。濡れた道路を走る車の音が遠くに聞こえたが、それはまるで誰かが近くでりんごの皮を剥いている音のようにも聞こえた。


『ボンゴレ』は面白い本だった。舞台は十九世紀のイタリア貴族階級だったが作者は二十世紀生まれのフランス人で、何度読んでも飽きないオマージュが随所に盛り込まれているおかげで、僕は何度も同じ行を目で追うことになった。おまけにそのことに気づくのにずいぶん時間がかかった。ボンゴレは公爵夫人の腰に右手を回したままじれったそうに次のページがめくられるのを待っていた。

 僕が時を止めていたのだ。

 僕はページの右上を小さく折りこんで本を閉じ、薄暗い天井を眺めた。そして自分が読書を放棄したのは、単に部屋が暗かったからなのだということについて考えようとした。

 ぐっと顎を上につきだし、首を逸らす。

 それから全身の力を抜いた。本が与えてくれる声や景色の情報が消えてしまうと、辺りはとたんに静かに、殺風景になった。

 部屋は奇妙なほど外界から隔絶されていて、閉めきられたその内側にはカレーの匂いも、ラーメンの匂いもしなかった――りんごの匂いなどするわけがない。ここには僕がいて、放り出された本があるだけだ。

 ぱたぱたと雨粒が窓を叩き、やがて静かな雨の音が暗い沈黙に取って代わった。僕は立ち上がって窓を開けた。じわんと濡れた街の空気が部屋の内部に入ってくる。それはまるでぬるい塊のようにしばらく僕の体にまとわりつき、それからしずかに部屋の床に下りていった。僕は部屋の入り口まで移動して照明のスイッチを入れ、窓が右手に見える壁に背を当てて座り、それからようやく本の続きを読み始めた。

 ページはすらすらと進んだ。けっきょくそのまま夕食も採らなかった。


 公爵夫人は別の男と駆け落ちし、公爵は胃を悪くした。ボンゴレは嫉妬に狂った庭師に首を切られて死んだ。


 そんな未来でもよかったのだろうか。

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