20

 海一は逃走する中川の背を追い、彼女が人気のない薄暗い裏路地に入り込んだところを見計らって後ろから押し倒した。

 通行人が邪魔にならなければ、ハイヒールの女性に引けを取る海一ではない。


「きゃあっ!」


 中川はバランスを崩して思いきり転倒した。


 そのまま取り押さえようとする海一に、中川は隠し持っていた小型ナイフをを向ける。


 海一は、どいつもこいつもこんな物に頼って、とため息をつきたいくらいだった。


「これ以上近づいたら刺すわ!」


 海一は一応、格好だけ両手をあげてみせる。

 中川はその間に体勢を立て直し、シルバーケースを片腕に大事そうに抱えた。


「来るんじゃないわよ、来たら刺すからね」


 学校の教師にこんなことを言われ続けていたら、教師など信用出来なくなってしまう。心の中でそんなことを嘆きつつ、海一は中川の言葉に反して彼女に素早く近寄った。


 彼女に悲鳴を上げさせる間もなく、ナイフを持った腕を捻りあげ、その危ない光を地に落とさせる。

 海一はそれを蹴り飛ばし、お互いの手が届かない距離にまで遠ざからせた。


 背後から体の自由を奪われた中川は、懸命に身をよじらせ暴れている。

 しかしこの程度ならば、体術を習得している海一に押さえこめないことはない。しかも相手は女性だ。海一は背も高い。

 一気にたたみこもうとした瞬間だった。


 なんとか抵抗しようとがむしゃらに暴れる彼女の後頭部が、偶然にも海一の顔面を打ち、彼の眼鏡が宙に飛んでいった。

 一気にぐらっとゆがむ視界。

 海一の力が一瞬弱まった刹那、中川は腕を振りほどき海一を突き飛ばして、走って逃げだす。


 海一は追いかけようとするが、眼鏡無しではほとんど世界が見えない視力。よく知らない薄暗い道を走ることなど到底不可能だった。


「ま、待て……」


 ふらつく中、壁に手をそえなんとか立ちあがるが、中川の過ぎ去る背を見送ることしかできない。


「まずい……」


 雑踏で倒されてしまった綾香のことを思い出す。もう追えるのは自分しか居ないことをよく分かっていた。


 しかしこのゆがんだ世界では、どこに飛んだか分からない眼鏡を探すことすら困難だった。

 次第に目を慣らしていくしかなく、ふらつきながらも中川の後を追った。それでもどんどん離れていく距離。


 裏路地を抜けられてしまうとそこは人の多い大通り。彼女を見つけることは非常に難しくなってしまう。

 海一の焦りはピークに達していた。こんなミスで相手を逃してしまうなんて。


 だが、その時。


「きゃあーっ!」


 中川の悲鳴が路地中にこだました。


 眼鏡をかけていない海一には、何が起こったのか全く分からなかった。

 しかしすぐに、そこに見慣れた姿があることに気がついた。


「もう逃げられないわよ!」


「お前、どうやって……?!」


 海一が叫ぶのとほぼ同時に、綾香は中川を体一つで制圧していた。

 シルバーケースは衝撃のあまり手放され、海一の足元へすべっていく。中川がそちらに手を伸ばすが、綾香は全身でそれを抑えつけて自由を許さない。


 海一は即座にシルバーケースを確保し、中川から遠ざける。中には生徒たちの保護者らから騙し集めた大金が入っているんだろうと確信しながら。


 顔を上げると、視線の先には日の光を受けて眩しく輝くものがあった。この裏路地の出入りを完全にふさいでいる、趣味の悪いディープパープルの車。


「やあやあ、お久しぶり」


 車から飛び出てきたのは綾香だけではないようだ。


 背の高い、肌の色の濃い男性が車から出てきて、挨拶するように軽く手をあげたのが何となく分かった。

 そしてその男がにやついていることも、海一は感じ取っていた。


「掃除夫か」


 ぼんやりした視界の中、海一が目を細めてそう言うと、男は「いかにも」とうなずく。

 男は勿論掃除夫の格好ではなく、ベージュの長いトレンチコートにその長身を包んでいた。


 半狂乱で暴れる中川に、後ろから馬乗りになった綾香が首元に手刀を落として気絶させる。

 わめき暴れる者は無くなった。


「……何が目的だ」


 静かになった路地裏で、男に険しい表情を向ける海一。

 綾香が割って入る。


「海一。この人の職業は、探偵なのよ」


「探偵?」


 思ってもみなかった言葉に、海一は思わず繰り返す。


 探偵と称された男はニヒヒと笑い、再び「いかにも」と首肯する。


 海一は今までのこの男の行動などを全て思い出してみる。すると驚くほどその全てに合点がいった。


「オレの今回の仕事は、中川由紀子が集めた金を取り戻すことだ」


 うっすらヒゲの生えた顎のラインを指先で撫でなでながら、男は言う。


 男はサングラスをしているようで人相や表情はよく分からなかったが、どうやら長髪を束ね、オールバックにしているようだ。

 海一は見えにくい視界の中、目を細めて相手を分析する。


「おたくら二人がコソコソと嗅ぎまわっているのはすぐに分かったよ。精密な盗聴器まで使うようなやり手さんだからどんな奴かと思ったら、こんな可愛いお嬢さんと、生意気な坊主だったんだもんなぁ」


 綾香と海一はすぐに思い出した。初日に外されていた盗聴器のことを。

 あれには宇津田も、齋藤も、今泉も何も触れていなかった。中川なのだろうかと思っていたら、ここに意外な犯人が居たのだ。


 二人の沈黙をいいことに、男はすらすらと言葉を続ける。


「どこの盗聴器を使っているかで、俺たち同業者は大体どこの人間かは分かるんだが……」


 そう言って一瞬言葉を止めて、男が二人を交互に見たような気がした。濃い色のサングラスをかけているため、その瞳の動きは読めなかったが。


「いかんせん、こいつはどこで手に入れられるものでもない。しかも、自作にしては精巧すぎんだよなぁ」


 ニタニタと二人を試すように笑う。


 正体など明かすはずがないことをこの男は知っていて、二人の反応を楽しんでいるのだ。


「まあ、これからはこういうのを設置する場所には気をつけるんだな。オレみたいな探偵扮するネズミ掃除夫が出入り口にしてるかもしれねーぜ、ああいうところは」


 設置した海一も初日ということで調査を怠った、というより調査しきれなかったのだろう。そもそもこんな同業者が居るとは思いもしなかったのだから。


「まぁとにかくありがとよ。お前らが動いてくれたおかげでオレは随分楽できた」


 彼が出したヒントによって救われた点はいくつもあるが、しかしこう言われると何だか癪で、綾香はとっさに言い返す。


「私のピンチ、中川の子供のこと、そして今私を車でここまで運んでくれたこと。あなたと夜中偶然出会ってしまったことを帳消しにするためだとしても、感謝しているわ。だけどあなたの目的は何? 探偵は警察ではないでしょう?」


 男を睨みつける綾香に同調して、海一も鋭い視線を送る。


 三人が二対一で対峙し、一人が倒れる裏路地には、大通りの車の音が響いていた。


 探偵はニヒヒと笑う。


「お嬢ちゃんよ、言っただろう。オレの今回の仕事は中川の集めた金を取り返すことだ。この女は今までも色々な学校・企業に潜り込んでは重役を誘惑し、とんでもない方法で大金を集めて失踪してきた。持ち逃げされた方も、警察に訴え出ることが出来ず泣き寝入りだ」


「だから探偵のお前が動いているんだな。依頼者は金を騙し取られたそいつらか」


 海一の指摘に、探偵はわざとらしく後頭部を掻いた。


「おお、怖い怖い。昔のオレみたいに綺麗な顔してんだから、坊ちゃんも睨まないの」


 綾香は、何言ってるのこの人、と白い目を向ける。海一は反応も示さず、黙ったまま視線を逸らさない。


「悪いがこの金はもらってくぜ。お前ら二人じゃこの事件に収拾はつかなかったはずだ。オレにこのくらいの分け前はくれていいはずだぜ」


 そう言って男はシルバーケースのそばに寄る。


 悔しいが探偵の言うことは事実だ。彼の助言なしでは、任務をここまで遂行出来なかっただろう。


 それでも綾香が悔しそうに何か口にしようとすると、海一が止めに入った。


「綾香……仕方ない。俺たちはこいつに世話になってしまった。いわば知らないうちに共同戦線を張っていたんだ。分け前を与えないわけにはいくまい」


 海一の冷静な言葉に、綾香はぐっと言葉を押し込んだ。


「物分かりのいい坊っちゃんで何より」


 男はケースのそばに腰を落とすと、いとも簡単にロックを解除して中の金を確認し、蓋を閉めた。そして左手にそれを提げ、


「金が戻ればオレはなんだっていいんだ。中川の身柄はお前らに任せるよ。オレじゃあ警察にしょっぴいて行くことはできないからな」


 そう言ってまたニヒヒと笑う。

 この言葉の裏には、「お前らだったら警察に連れていくことができるんだろう」という言葉が転がっているように感じられた。

 彼がそれを意図していたのか否かは、二人には分かりかねたが。


「それじゃあ、気味の悪い二人の中学生さん。さようなら~」


 ヒラヒラと手を振る背中で別れの挨拶をしながら、男はシルバーケースと共に車に乗り込む。

 軽快にエンジンをかけて、ディープパープルの車は走り去っていった。


 そこには気絶する中川と、眼鏡を失くした海一と、呆然とする綾香だけが取り残され、それでも確かに時は動き出したのであった。

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