誰かのアンモニア
会社のトイレが混んでたりすると、誰かのすぐ後に便器の前に立つことがある。そうすると、便器から立ち上る、その誰かのアンモニアを浴びることになる。お父さんの会社にいるのは大体おっさんだから、前の人は大体おっさんだ。その、おっさんのアンモニアは、家族のアンモニアと比べると、ほんのちょっと、イヤだなと思ってしまう。いや、差別はいけない。おっさんだって、好青年だって、おしっこは匂うもんなんだ。なんだけど……違うと思うのはなんでだろう。
実は、アンモニアにおっさんの成分はあんまりなかったりする。おしっこそのものはアンモニアを出さないらしいんだ。おしっこが細菌によって分解されて初めて、アンモニアが発生する。だから、おしっこそのものはおっさん固有のオリジナルカクテルかもしれないけど、アンモニアはNH3っていう化学式の物質でしかない。そこにおっさんはいない。
だから、そのアンモニアに『おっさんの』ってタグをつけて、何かを感じとったのはお父さんだ。
人間には、物理法則と無関係の、そういう恐ろしい力があるんだ。
――これ、何の話?
希望の話だよ。
たしかにおじいちゃんはもういない。でも、この家の畳や障子、でっかい柱、その木彫りの熊や賞状や、帽子や扇子、そういう諸々には「おじいちゃんの」タグがついてる。それらのモノはいずれなくなるけど、タグは消えない。実は似ている扇子や帽子にだってタグはついてて、それに気づいたら、また思い出すことができる。受け取ることができる。
――それ、辛くない?
いずれ、穏やかな気持ちに変わるさ。
――信じられない。
大丈夫。お父さんは知ってる。
――お母さんがしんでも?
それは無理。ダメ、考えたくない。今、お母さんや君たちがいなくなってしまうと、お父さんはおかしくなる自信がある。
大往生のおじいちゃんとは違う、別の悲しみとか悔しさとか、いろいろあるんだよ。
――じゃあ、だめじゃん……。
いや、まあ、でもね。なんとういうか……その、えーと。
――お父さんのお腹って。
うん。(腹筋の効果が出たかな)
――くさいね。
うん……加齢臭だから。みんなそうなるから。アイドルも皇太子も石油王も。宇宙の法則だから。
――くさいけど、『お父さんの』においは、まだゆるせるかも。ゆるせないかも。
可能性があってよかったな……いや、できれば、まだゆるしてほしいんだけど。
――今日はゆるす……明日はわからない。
それでいいよ。
おやすみ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます