I doll My doll

軒下ツバメ

プロローグ

 あなただけが、鮮やかだった。


 前に誰もいないから、下を向いて歩くのが癖になった。

 俯いた視界に映るのはコンクリートの灰色だけ。灰色はどんどん私の世界を浸食して、目に映る世界は驚くほど簡単に色褪せていった。

 日に日に、私の世界は灰色で埋まっていった。

 そうしていつしか、存在していたはずのカラフルな色彩は、私の目には見えなくなった。

 登校の時に前を通る神社の鳥居の赤も、顔を上げれば目に入るはずの空の青も、幼稚園児が被っている帽子の黄色も、道端に咲く花々の色も、私の目には灰色に見える。

 感情が世界を歪めるのか。私がおかしくなったのかこれはどちらなんだろう。たまにそんなことを思った。誰もが普通に暮らしているのだから、おかしくなったのは自分だけなのだろうと分かりながら、時折。

 暗く暗く世界は歪んでいった。褪せていった。

 バラエティーもドラマも映画もアイドルも何を見ても楽しくも面白くもないしキラキラしていない。

 犬を見ても犬だなあと思うだけ。猫を見ても猫だなあと思うだけ。

 お菓子もお洒落もスポーツもわくわくもどきどきもしなかった。

 何を見ても、何があっても、心が動かなくなっていた。泣くことも怒ることも笑うこともなく、摩耗して、何かに感動するとか、もう二度とないだろうと思っていた。

 それ、なの、に。


 灰色じゃない一つの色が私の世界に甦った。


 参考書を買うために立ち寄った本屋。

 買うこともなければ立ち読みすることもない雑誌コーナーの前を通り過ぎようとした時、多分カラフルであろう表紙が並ぶ棚になにげなく私は目を向けた。

 ティーン向けのファッション雑誌が並ぶ中にあった、テイストの違う雰囲気の一冊。表紙を見た瞬間に私の足は止まった。

 綺麗な綺麗な青い瞳が私を捉える。

 美しい青が私の目に鮮明に映った。忘れていたはずの、色だった。

 衝動に駆られ、参考書で隠すように私は人生で初めて雑誌を購入した。

 心臓が奏でる音が聞こえそうなくらいに、胸がどくどく高鳴っていたことを今でも思い出せる。

 手が、胸が、顔が、熱かった。

 目が燃え出しそうだった。一瞬で青が私を染めあげた。

 どうしてなのかは分からない。それでも見える。理由よりも大切なのはその事実だけだ。

 宝物のように雑誌を抱きしめながら帰宅した日から、私は誰からも隠すように少しずつ彼が載っている雑誌を購入するようになった。

 そう、彼だ。

 私が見つけた青色は男の子の姿をしていた。

 彼が掲載されている雑誌を購入することは、誰にも話せないくらいに大切な私の初めての秘密になった。

 大切すぎると人は誰かに話すことも出来なくなるのだ。心の大事なところに私は彼の存在をしまった。


 彼の写真は私が想像していたモデルの写真とは少し違っていた。どれもまるで一枚の絵のように綺麗なのだ。

 ものによっては顔がほとんど隠れているような写真もあった。

 見た目からの推測だが、青い瞳をした彼はおそらく十代で、線の細さからして多分私と同じ中学生くらいだろう。

 けれど彼について分かるのは見た目から推測できるおおよその年齢だけで、どの雑誌を確認しても彼自身を知れるインタビューなどは見当たらなかった。

 彼のプライベートが分かるような記事はどこにもなかった。雑誌にも。ネットにも。

 公式に明かされているのは、モデルとしての名前だけ。

 彼を現すのに相応しい、その名前だけだ――。


「……doll?」

 口からこぼれた呟きは、私と彼の間に頼りなく落下した。

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