第8話 新しい世界
長きに渡り砂漠に建つ魔法の塔に囚われていた隊商の帳簿係ノルキドは、塔を訪ねて来た学者サシェナに手を引かれ、塔を後にした。
サシェナが塔を訪ねて来たのは、塔の守人を手に入れる為であった。こうして塔を出たノルキドはサシェナのものとなった。
ノルキドが塔の守人となってから約三百年後――正確には二八三年目のことである。
この年は、砂漠地方では、王樹《おうじゅ》歴一二一年、となっている。
◎ ◎ ◎
塔の出口は『月と星の城跡』と呼ばれている遺跡だった。
朝、城跡に辿り着いた私達は日中をここで過ごし、夕暮れを待ち兼ねて出発した。
目指す最寄りの町までは徒歩で約半日間掛かる。日暮れを待たずに発ったのは今日中に町に入りたかったからだ……砂漠の旅は日暮れ以降になるので、町の門は比較的遅い時刻まで開かれている。それでも深夜ともなれば閉じられ、特別な理由でもなければ出入りは出来ない。サシェナからは何の説明もなかったけれど、共に砂漠地方生まれである。意図は理解出来た。
サシェナに手を引かれながら、町を目指す。
目指している町は、砂漠地方、北東地域最南端『ベシ』――位置的に戦争に巻き込まれ易く城壁は立派だが、実際には田舎町だ。
サシェナは歩きながら、現在のことをあれこれ話してくれた。
砂漠地方は、北を凍原、南東を湿原、南を山岳、南西を内海、の四つの地方に囲まれている。
砂漠地方には、北、北東、東、南東、南、南西、西、北西、の八つの地域がある。
砂漠地方に点在する市町は、基本的には、それぞれ独立している。
砂漠地方で現在、最も大きな勢力を持つのが北東の『ダナ』――台頭の切っ掛けは商売だが今は軍事の都市である。
次いで南西の『コユン』――内海地方との交易の拠点。塩の都。千年都市。
大都市を並べるならここに南の『アトゥ』が加わる。馬と鉄器の産地である。
近年台頭して来たのが南東の『ユラン』――外南東の湿原地方の覇権争いが激しくなって、人間、物品、に関わらず往来が多くなっている。同時に、治安の悪さも、目立って来ている。
「凍原地方も、この六〇年間、度々情勢不安に陥っています」
サシェナが歩を止めた。私がまた遅れ始めた為だ。
城跡を発つ際に手を繋がされて、何故、と疑問と不満を覚えた。己を殴ってやりたい。
手を繋いでいる為に、私が遅れると、サシェナは自主的に歩を止めてくれる。置いて行かれる度に呼び止め、待たせなくて済むのは、精神的にも体力的にも、大変ありがたい。
「すみません」
反身を返して佇むサシェナに並び、言う。
「あなたの、すみません、は聞き飽きました」
額の上から聞こえて来る呆れ声に、そうだろう、と同意する。
空に青味が残っている内に歩き始め、今は陽は沈んだが未だ空は仄明るい。この間に何度歩を止めさせたか、思い返すのもうんざりする。
三百年間の引き籠もり生活で体力は衰えているだろう、と覚悟はしていた。これ程とは思わなかった。
「すみ、む」
繋いでいた手が離れたと思ったら、口元を塞がれた。
「聞き飽きました」
一音一音をはっきりと、告げられる。
「これからは、すみません、の代わりに「好きです」と言って下さい。もし言ってしまったら「罰として悪いことをして下さい」です」
サシェナの言う「悪いこと」とは性交渉のことである。
何てことを言わせるつもりだ、と私は驚きに、目を丸くする。
「いいですね」
「いいわけ、ありません!」
口元を覆う手を、両手で何とか、僅かに降ろさせ、抗議する。
「そのようなこと、言えるわけがありません」
はしたない! 恥ずかしい! 乙女が言うならまだしも、二六歳(塔の守人になった際の年齢である)の男が言っても寒いだけだ。いい笑い草だっ!
「すみません、と言わなければいいのです」
「足手纏いになっているのですから。申し訳なく思うのは当然でしょう」
「足手纏いなどにはなっていません」
「織り込み済みです」と続いて、返す言葉を失くす。
「それでも、やはり、どうしても、申し訳なく思うのでしたらどうぞ。好きなだけ、すみません、と言って下さい。楽しみにしています」
再度、捕られた手に引かれて、歩を再開する。
約三〇年前に、北東地域と東地域の戦争が終わって以来、砂漠地方内での戦争はない。
約六〇年前に、外北の凍原地方で大きな戦争があった。これに乗じてダナが経済発展を遂げた……砂漠地方周辺では砂漠地方南地域の鉄器が、明らかに優れている。これを買い占め、凍原地方で売りに売った……この後のダナの発展は凄まじかった。最も象徴的なのが『商用語』の制定だ。
約五〇年前に、商業組合が彼等の公用語を『ダナ語』と決めた。これに他職業組合も追従した。取り引きの際、契約の際、にダナ語が出来なければ不利になる。皆が挙って子弟にダナ語を習得させた。
今では商用語が、砂漠地方の事実上の公用語となっている。
ただし、公的書類は未だ、本来の母語で作成されねばならない。
「それでは、私の言葉も南方では少しは通じるのでしょうか?」
一歩前を歩くサシェナの背中に問う。
砂漠地方の言語は北と南の二系統ある。二つの言語は文字は同じ、文法はほぼ同じだが単語や発音はかなり違う。北系は北と北東地域で使われ、南系はそれ以外の地域で使われている。その中での細かな違いは“方言”として区別する。
因みに、サシェナの話しているのは南系の標準語とされている『コユン語』。私の母語は南系西方言の『クシュ語』である。この二つは特に似ている。
「残念ながら。公的書類を作るなんてのは為政者か役人だけです。田舎の老人には話す者もいますが」
サシェナが不自然に言葉を切った。少し考える様子である。
「サシェナ様?」
「今、一般に話されている言葉を仮に“新語”と呼ぶとしましょう。これに当て嵌めるとあなたの話す言葉は“旧語”です。新語を話す者はいますが、旧語となると。何とも」
少し待っても話しを再開しないサシェナを伺うと、そんな答えが返った。
「勿論、新語を話す者に旧語が全く通じないということはありません。同じ言葉なのですから、基本的な部分は同じです。ただ、増えた言葉が沢山あります。消えた言葉も沢山あるでしょう。意味が違ってしまった言葉や、言い回しも同様です。会話は困難だと思います」
サシェナが顔だけを振り向かせた。刹那、視線が絡む。
「それに……何故旧語が話せて新語が話せないのか、と問われると厄介です。これに対して、相手を納得させられる答えが返せない内は話さない方が、無難です」
「そうですね」と私は項垂れた。
「ものは考えようです」
繋いでいる手が僅かに引かれる。
「同じ言語の新旧なら、混同してしまうこともあるでしょうが、違う言語ならそんな間違いは起こらない。新しく学ぶには都合が良いですよ」
顔を上げると、サシェナが、にこり、と微笑んでくれる。
(簡単に言ってくれる)
言葉を覚えるなんて、間違いなく、大変だ。
挨拶と買い物をするくらいの、片言の会話ならともかく。日常生活を不足なく送れるとなると――果てしなく思える。
サシェナは旧語を問題なく使いこなしているが、彼は学者である。一般勤労者でしかなかった私とは、頭の出来が違うだろう。
(同じに考えられても困るのですが)
私は曖昧に笑みを返した。
砂漠が広がり、街道が整備されたこともあり、砂漠を行く者は減った。
街道を行く隊商はしばしば盗賊に襲われ、護衛を充分に雇えない規模の隊商は姿を消し今は私兵を抱えている大規模な隊商か、逆に盗賊に襲われても被害の少ない(被害に遭う確率も低い)個人の行商ばかりになった。
日常の中に駱駝の姿は減り、馬が増えた。
人間の活動範囲が増え、特に、外南の山岳地方は随分深くまで人間が踏み入っている。
「傭兵も増えていますね」
「あの『ヨウヘイ』というのは?」
話しの中に何度か出て来る、知らない単語だ。話しの流れから、職業だ、というのは分かるが。
「隊商では自警の若衆と同じことをしているようですが」
サシェナの口振りから推測すると、自警の若衆、とは違うようである。
「ワカシュ……?」
私の問いに振り返ったサシェナは、私の言ったことが分からない様子だった。
自警の若衆は、町と商家が金を出しあって雇う。町の治安と、商売の旅の安全を守るための組織だ。
傭兵は、金で荒事を請け負う、流浪の者(奴隷以外で市民権を持たない者)のことである。
因みに、私兵の多くは期間で雇われている、傭兵である。
「成程」
私達は互いの疑問を解消した後、どちらともなく呟いた。
「若衆はもう、ないのですか」
「そう、ですね。町の治安維持は、大きな町なら衛兵、小さな町や村なら数人の守衛官が担います。隊商の警護に就くのは傭兵になります」
そのような、何処の誰とも知れぬ者に、警護を任せて大丈夫なのだろうか――?
「傭兵の当たり外れには商人達も随分頭を悩ませまして。それで今では私兵が主流なのです」
傭兵という職に対する不審に、首を傾げた私に、サシェナが答えた。
「私兵。そうでしたね」
同じ仕事であるのに、随分と形態が変っていることもあるのだな、と思う。
町と商家で若衆を囲う方が安上がりだし、信頼も出来るのに――家業を継げず、他の職にもあぶれた若者を雇う。彼等は、獣が出れば退治し、隣町との小競り合いに出動する。隊商の警護に就いて危険を知り、見聞を広める。数年間そんなことをしている内に、大抵の者は職を見付ける。新たに生み出す者もいる。とても合理的だ。
そんなことを考えていると、窃笑が耳に届いた。
「え?」
顔を上げるとサシェナが笑んでいる。
笑われる理由が分からず、疑問が漏れた。
「専業するというのも悪いことではありませんよ。経験値がより上がります」
考えていたことが完全に、知られていたことに、頬が熱くなった。
サシェナが手を引いてくれるのを良いことに私はしばしば空を見上げた。
三百年経っても、夜空に変わりはない。かつて見ていた夏の星空が、今も、頭上に煌めいている。
詳しいわけではないが、元隊商の一員である、星の位置から大雑把な時刻なら知ることが出来る。
深夜を回った頃、廃墟に辿り着いた。
かつては家屋だったのだろう。積まれた煉瓦があちこちに小さな山を作り、その頂から二つ三つが顔を覗かせている。
そんな間を進むと、辛うじて家の形を残している一軒に行き当たった。
家屋というには小さ過ぎる建物は、恐らく納屋だ。母屋か塀か、風避けになるものがあり、残ったのだろう、窓がないことも幸いしたのかも知れない。屋根と扉はないが、壁は未だ崩れる様子もない。
「ここで休んで行きましょう」
サシェナはそう言うと、肩に担いでいた鞄を下ろした。
「町はもうすぐですが、このまま進んでも、門が開くまで城門前で待たなければならなくなります」
言いながら、巾着鞄の口を開いて、取り出した毛布を私に投げた。それから、月明かりでは、何かの束にしか見えない物を出す。
「あんな吹き曝しの場所より、ここの方が随分マシですから」
縄と小振りの水筒も出す。
水筒の中に縄の端を幾らか差し込んで足元に置き、先に出した束の一部を上に、一部を下に繋いだ。一本の棒になった。長さ的に、杖だろう。
便利な物があるのだな、と見ていると、不意にサシェナが振り向いた。
「何をしているのですか」
怪訝な口調で問われた。
「あ。す……」
咄嗟に、謝罪を口にしそうになった。口唇を噛む。
恥ずかしい罰を告げられてから、四度、私は「すみません」と口にしてしまった。その度に「罰として……以下略」と言わされた。
しかも、恥ずかしいことを言わせる、という罰なのだとばかり思っていたら「して下さい、と言われのですから、ちゃんと、してあげます」と告げられた。冗談だとは思う。思いたい。
「何ですか?」
何もしていないことを咎めた口が、一転、期待に満ちている。
「何でも、ないです」
「そうですか。では、その毛布を頭から被って、温かくしていて下さい」
「そうですか」の後に、残念です、と聞こえた気がするが、幻聴に違いない。
「え?」
言われた内容に戸惑う。
サシェナと私は、主従の関係だ。主人を働かせて、従者である私が毛布に包まって温まっているなど、常識では考えられない。
しかし、主人の指示であるし、現状で役に立てることはない――隊で砂漠を旅をしたことはあっても、一人で旅をしたことはない私にはこんな状況で何をして良いのか、分からないのだ。
どうしたものか、と悩む私の手から毛布を奪うと、サシェナは言葉通りに頭から被せてしまう。
「わ! 私も、お手伝いします。何でも、言い付けて下さい」
「温まっていて下さい」
私の顎先で毛布の端を合わせる。
「その恰好では冷えてしまったでしょう」
私の恰好は、塔で着ていたもの……綿の襯衣《シャツ》と下服《ズボン》に上着……にサシェナの上衣《チュニック》を合わせたものである。夜の砂漠を歩くには、随分と薄着だ。
「大丈夫です」
「可哀想で、僕が大丈夫ではありません」
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